病棟転換型居住系施設について考える会

世界に誇る日本の精神病院の病床数と長期入院者の問題とは…。削減した病床を病院敷地内の居住系施設に転換する問題とは…。

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精神障害者地域生活支援とうきょう会議 小見山政男さんからの寄稿

2014-06-17 17:26:34 | 寄稿
「病棟転換型居住系施設」について
  =走り書き=

 「昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相違は、実は本人に対する周囲の者の態度である。」
 (柳田国男「山の人生」 筑摩書房版 柳田国男集 202頁)

 「精神病院」(敢えて精神科病院とは使わない)に、「社会的入院」(これも敢えて長期入院者とは使わない)のまま放置されている人たちに対して、「精神病院の空きベッド」を「居住施設」として利用するという発想がなぜ?生まれるのだろうか? 

 そうした発想をすること自体、精神医療を今日まで「支えてきた」僕たちの「思想の貧困」さを証明しているのではないだろうか?
 精神医療を今日まで「支えて」きた当事者に僕自身も含めているのは、未だに日本の「精神医療」の現状に甘んじている僕がいるからである。そのことを忘れてはいけない。

 「病棟転換型居住系施設」については、「人権」など含めた理念的な立場から反対の声を多く聞くし、僕もその意見大切であり当然であると思い支持することには異論はない。
 だが、現実的にはもっと掘り下げて考えなくては「反対のための反対」に終わってしまうだけではないだろうか。誤解しないでほしい。「反対のための反対」ではダメだから、何か具体的な「対案」を考えなくてはいけない?のではなく、むしろ「対案」などあまり気にしないことであるといいたい。

 僕の意見を性急ではあるが先取り的に紹介すれば、
①「病棟転換型居住系施設」の構想には絶対反対である。
②「空ベッド」の対案など僕たちが考えることではない。 
③何をなすべきか?
  
 以下順次、僕の過去の体験と今現在抱えている問題とを絡ませながら語らせていただきます。

①「病棟転換型居住系施設」の構想には絶対反対である。
=精神医療なかんずく精神病院の改革はなぜできないのか=
 我が国精神医療の歩みを謙虚に「当事者」の視点で眺めれば、そこに見えるのは「医療」の論理だけではないだろうか。良心的な「医療者」もいないわけではないが、その人たちの基本的な立ち位置は「医療」であり、「良心」もそのフレーム内でのこと。だがその人たちのことを悪く言うつもりはない。
 70年代にあった「精神医療改革の運動?」も、結局は「精神医療」という「コップ中の嵐」に過ぎなかったのではないだろうか? こうした話題を引きずるつもりもない。
(このあたりのことを知りたい方は、立岩真也 「造反有理」造反=改革運動の真相 青土社 2013年をお読みください。)
 言いたいことは、精神医療なかんずく精神病院が当事者に対して犯してきた幾多の「人権侵害行為」がありながら、精神病院の縮小(敢えて改革とは言わない)どころか多くの精神病院は「ホテル並み」の改築を重ね、「居住環境の改善」という表面的な対応でこの間経過してきてはいないだろうか。我が国の精神病院が縮小されないのは、民間病院が多く、経営至上主義的な色彩が濃いためだけだろうか?精神医学会、大学の医局とのつながりを考慮すれば、単に病院経営者だけの問題ではなく、「精神病院の実態」をしりながら、放置してきた「医療関係者」(当然、病院の職員も含めて)の責任を不問にはできないだろう。
 精神医療、なかんずく精神病院が当事者に対して犯してきた「人権侵害行為」とそれへの精神医療界全体の対応を考えれば、精神病院の病棟を居住施設に転換するということを、容認できないのは自明の事であり、最初に述べたように「思想」の貧困さを際だたせるに過ぎない。医療技術が仮に進歩しても「三流思想」しか持てない医療技術の中身ほど恐ろしいものはないのではないだろうか?

②「空ベッド」の対案など僕たちが考えることではない。
 精神病院への入院患者が減少するということは、僕が事務長時代(今から約20年前のこと)に「これからはいかにダウンサイジングするか」と言われていた。今更騒ぐこと自体がおかしい。
入院患者が減少することが判りながら、何もしないできたとしたらそれは「経営者」の怠慢でありそれだけのことではないだろうか? そういう「経営者」に「雇用された職員」には同情するが、「経営」のためにとこれからも「当事者」を「動産」として扱うのは止めて欲しい。どのようにあがいても精神関係の「入院のニーズ」は減少することは自明である。
 
③何をなすべきか?
 これから話すことは、僕の「妄想」です。
 今、僕は「精神病院をなくそう」(越谷市を第二のトリエステに)という「運動?」に参加しています。
 「精神病院をなくそう」というテーマは現状からおもえば「妄想」の域を出ませんが、「妄想も実現すれば妄想でなくなるネ!」という「誇大妄想」に引っ張られて「運動」に参加しています。(誤解しないでください。現状の「精神病院」はいらないといっているのであって、「医療」をいらないと言っているわけではありません。)
 ここからは、少し真面目な話し?
 「精神病院」をなくすことはまず無理でしょう。じゃどうした良いのか? 正直判りません。悩んでいます。でも・・考えています。
 僕がこの世界に足を踏み入れたのは「出来心」(精神医療とかには文学的な興味はあっても、そこで働くなど予想しませんでした。3年で辞めるつもりで就職)でしたが、でも、先輩や同僚は「患者さん」のこと「医療の在り方」など真剣に考え、医師や看護の人たちと「ケンカ」しながら仕事に励んだものです。そのうち、僕たちワーカーだけでなく、医師も看護の人たちもみな、僕たちと同じように、「患者さん」「精神医療」のことをそれぞれの立場・役割で考えていることに気が付きましたが、でもなぜか、意志疎通が困難なだけでなく、院内を開放化しようと取り組んだ時など開放化に難色を示したのは、看護のスタッフでした。そこには、スタッフ一人ひとりの思いとは別に「責任」とか「医師からの指示」とか「病院固有の管理構造」が存在し、スタッフの一人ひとりの思いよりも「管理」が優先する結果があることに気が付きました。今も、多分、大なり小なりそうした空気はあるのではないでしょうか?
 「精神病院をなくそう」という前に、「精神病院」(広く精神医療関係者も含めて)が固有に持つそうした「医療的な管理」の在り方から医療スタッフを「解放」する取組が先ではないか・・と今は「妄想」しています。 「妄想」の具体的な実践内容などは「現代思想」2014年5月号「特集 精神医療リアル」、古くは同じく「現代思想」2013年6月号「特集 フェデリック・ガタリ」をお読みください。

 この回の終わりに
 僕の話しは、時間がかかりすぎる? そうでしょうネ。でも、もうここらで「小手先」を使うだけの対処の仕方は止めても良いのではないか?
 こうして話している時間も精神病院の中で亡くなっていく患者さんがいるのは事実です。それでは可愛そうだからせめて精神病院でなく、「施設の自分布団の中で・・」。
 こういう発想も僕には良く理解できません。「精神病院」は「病院」じゃないの? 今世間の人で「最期を自宅の蒲団で迎える人」は病院で亡くなる人よりも多い?とは思えません。「精神病院も病院である以上、入院して終末を迎える患者さんには必要な医療を提供する義務がある」のではないでしょうか? それが「精神病院では可愛そう」というのは、語るに落ちる話しではないか? そういう「意見」?に「唯々諾々」するような、軟弱で無責任な「精神病院」はいらない。
 今現在精神病院が果たすべき役割は、社会的入院者を一刻も早く「地域へ」解き放つために、地域に受け皿を作れ!と言えば済むこと、そして今いる社会的入院者の退院促進に全力で傾注すること。
 もう、これ以上「精神障害者」を「経営」の「動産」にすることはしないでほしい。
 「病棟転換型居住系施設」について、まじめに構想している皆さんの「思想」が僕にはどうしても理解できないでいる。なので「構想」を推し進める方の意見をお聴きしたい。

小見山 政男

PS
 A4にして1枚で書ければよかったのですが、僕のリテラシーの無さで、長くなってしまいました。
 スミマセン!
 言いたいことは他にもあります。僕自身「援護寮」での体験から、「医療」が「福祉」に取り組むことがいかに難しいかを味合ったからです。多分、僕と同じ思いを抱いた「援護寮」のスタッフは沢山いると思う。 病院が「施設」を作れば、「デイケア」などに通わせ、「生活を管理」し、「医療圏内」での「自由」は認めてくれても、それ以上は望めないでしょう。
 「地域」のことに絡めて大事な当事者の活動のことなども書きたかった・・・ともかく、精神病院に「地域」を委ねてはいけません。精神病院も「地域」のことは「地域」に任せるくらいの矜持は持って欲しい・・と願っている今日この頃です。
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