天樹老人美食エッセイ

筑波大学名誉教授、俳人加藤国彦が記す美味いもの、美味い店の話

病児に鰈(カレイ)の煮付け; 地獄絵と宗教的感受性

2018-04-15 12:00:40 | グルメ
私は子供の時、しょっちゅう病気した。生まれた時は丈夫だったのだが、3歳の時、疫痢(えきり)という怖い病気になって死にかけ(同時に疫痢になった他の子は、実際死んだ)、以来弱い子になってしまったのだ。

風邪の時は、じっと寝たきり。食べさせてはもらえるが、本を読むことは禁止である。お腹をこわした時は、食べられないが、本は読ましてもらえる。どっちがいいか? よく考えたものである。

風邪の時の食事は、決まって「鰈の煮付け」だった。今レシピを見ると「水に砂糖、酒、醤油、味醂(みりん)」で煮汁を作るとあるが、昔の大阪の商家の病児向きのは、も少し薄味で、カレイも大きな切り身でなく、小型の魚まる一匹。背中(褐色肌の方)に一筋包丁の切れ目を入れ(煮汁がしみ込むように)、裏は白い肌。白い側の方が、アッサリして美味しいと感じた。今思えば、親の情けが身に沁みる(しみる)。

治ると元気に、近くの町寺などへも遊びに行った。そこに極彩色(ごくさいしき)の地獄極楽図がかけてあったのを見て、心に深くしみた。その印象が残ったのか、夜な夜な(よなよな)怖い鬼👹の夢を見るのである。毎晩同じ、門から鬼が顔を出して脅かす。怖くて目を覚ましてしまうのである。

どうも、母にも告げかねるのだが、その鬼は父のようなのである。支那事変から帰還して、勢い良く、戦地の激しさが残っている父の酒の勢いが、幼児(私は6歳くらいか?)に恐ろしく、地獄図の鬼の顔と重なってしまったのだろう。父が再び三度(みたび)召集されて、また戦地へ行ってしまうと、その夢は見なくなるのであった。

怖い夢で寝られないのは、漢方医学では「疳の虫(かんのむし)」という。母が私をしばしば「虎鍼(とらばり)」という「ハリのセンセイ」に連れて行って「小児鍼(しょうにばり)」を打ってもらったのも、疳の虫を治めるためだったのだろう。とにかく感受性の強い子であった。

この感受性が、大学生の頃、宗教的感受性になった。

東京練馬区の桜台教会に通っていた頃、老いた小林吉保(よしやす)先生の霊感溢れる説教(「子に負けて嬉しき親の田植えかな」などと俗耳〈ぞくじ〉に入る話も含まれた)を聴きながら、ポロポロと涙を流すのが常だったから、吉保先生は「榮一君はきっと献身する(牧師になる)よ!」と家族に言っておられた。

同志会(クリスチャンの東大生の寮)の先輩小西芳之助牧師(内村鑑三の弟子)も、「加藤君は献身するだろう」と人に言っておられた。小西先生(導源と号す)の信仰の遠祖は、恵心僧都(えしんそうず)源信である。源信は『往生要集(おうじょうようしゅう)』の著者だから、まさに地獄極楽図の根拠を建てた方である。榮一の幼時の感受性に連なるのである。

私が、両師の予言に反して、献身せず、38年もの公務員生活を辛くも歩んだのは、色々因縁もあり、また、84翁となった今から、何かの形で献身するかもしれないが、神ぞ知る。

どら焼き専門店「志ち乃」; お金と自由と車を得た専業主婦

2018-04-14 21:20:27 | グルメ
私は、生来、また学者という職業上、しょっちゅう考えに耽る(ふける)のが癖だから、運転は危ないと判断し、一生、ハンドルを握ったことがない。でも、アメリカで暮らすことになったので、車無しの生活は出来ない、となった。

それで、家内正子に「国際免許を取ったら、アメリカへ連れて行く」と誘ったら、「行く、行く。免許とるわ!」と二つ返事。だいぶ苦労したが、どうやら国際免許が取れて、アメリカへ渡った。でも、サクラメントで暮らした間、スーパーとバス停が家の前なので、結局車は持たなかったのである。(彼女はサクラメントでも路上講習を受けて、Ncw, you can go anywhere you want.と許可はもらったのだが。)

帰国後、夫(私)が筑波大学に移ったので、付いて筑波研究学園都市に来た。ここでもしばらくは便利な官舎住まいで、車を持たなかったが、自宅を建てて間もなく、ついに念願のマイカーを夫に与えられた。

お金と自由は、その前から、夫から、信頼とともに、与えられていたが、今や、「お金と自由と車を得た専業主婦」に、50歳にして、なったのである。活動的性格の正子の火に油が注がれ、遠く近く走り回る日々が始まる。夫は仕事に没頭している。正子は「関東一円」を走り回った(らしい)。勤務し、かつ育児している、多くの若い主婦から見れば、羨ましい限りだろうと思うが、正子も若い時は大きな苦労もあったので、許してやってください。

走り回っているうちに見つけたのが、「どら焼き専門店志ち乃」である。土浦市の街を外れた、田んぼの中のようなところ(道路には面しているが、)にぽつんと立っている工場兼店舗で、「どら焼き専門」だって⁉︎

「一体お客が来るのかしら? すぐ潰れるんじゃないの?」と、誰でも思うように、正子も思ったのです。でも、車を持っているので、行って買いました。

すると、美味しいのです! それに、気がついてみると、どら焼きというものは、お土産として、慶弔冠婚葬祭お見舞い万端の折にちょうど良い手土産で、味も老幼男女皆喜びます。(ただあまり日持ちは長くない)。

志ち乃の昔からの主力商品は、「栗どら」と「梅どら」(蜜に漬けた梅の実まる一個が挟まれている)ですが、10種あまりの新製品も美味しい。志ち乃の店舗も、土浦本店の他に、つくば店、守谷店、柏マルイ店と拡大しました。愚直な「どら焼き専門店」が成功したのです。

愛妻正子の社交にも役に立ったことと喜んでいます。今日は、娘百合の土産が志ち乃のどら焼きだったのを美味しく食べつつ、正子の元気だった頃をしのんだ次第です。(今日は小生ギックリ腰で正子見舞いにも行けず。)

超高級焼酎「百年の孤独」; 省庁の出城

2018-04-13 20:00:22 | グルメ
今年2018年、国会の(証人喚問しようとの)追求を逃れて、佐川宣寿前国税庁長官(前理財局長)が「潜伏」していたと言うので、「KKRホテル東京」(財務省傘下〈さんか〉の国家公務員共済組合連合会が経営)が有名になった。

一応「ホテル」とは名乗っているが、チェックインしようとすると、「共済組合員証」(公務員であることの証明)の提示を求められる。共済組合員には料金の割引があるから…と言う、もっともな理由ではあるが、「胡乱(うろん。怪しい)な者は入れない仕組みだ。「週刊××」の記者なんかは、もっとも「胡乱なる者」であろう。(佐川さん、守られてる〜!)

自治省(今の総務省)傘下にも同様の「ホテル」がある。千代田区平河町という枢要(すうよう)の地にありながら、和座敷も持っている(高層だのに、この座敷は庭も持っている!)。私が、このホテルで、ある学者にちょっと(お茶程度と思うが)奢って打ち合わせをしたことがある。あたりのたたずまいを見て、その学者は「自治省はあちこちに『出城』(でじろ)を持っておられるんですねえ」と、感に耐えたように言った。

そう言えば、その和座敷で、毎年「○○さんを囲む会」という会を開いていた。○○さんは超大物の元大官である。元役人10人足らずで、ゆっくり歓談し、飲む。そんな場で、2012年78歳の私は、「宗教家になります」と宣言した。

○○さんは、「将来首相になる人は?」という、我々の質問に答えて、早くから「林芳正(1961年生まれと若く、今文部科学大臣まで上がって来た)」の名を挙げられた。「ただ問題なのは、参議院議員であることだ。
山口県は、有力政治家が、衆議院の選挙区を占めているからねえ」とも。

○○さんは、「百年の孤独」を一本持参され、我々に飲ませて下さった。
これは宮崎県の黒木本店の作り出した超高級焼酎である。もはや「焼酎」とは言えないかもしれない。麦焼酎(大麦を醸造し、蒸留してアルコール度を高めた)なんだが、ウィスキーと同じくホワイトオークの木の樽(たる)で熟成させること多年。もはや「ウィスキー」と呼んだ方がいいかも知れない。昔の「底辺庶民の酒・焼酎」の面影はない。値段も超高い。

美味いものです。その証拠にみんなで飲み干してしまった。

いい気持ちで、フラフラ。言ったことなんか忘れてしまう、無責任な境地になった。「林芳正氏が総理大臣になるのか? 加藤榮一が宗教家『ニコニコ如来』になるのか? どちらが早いか?」ーーあと8年も待たされると、○○大人(たいじん)は100歳である。待ち続けて「百年の孤独」では、シャレにもなりません。🥂🥂🍻🍺🍷🍷🤷‍♂️🤷‍♂️🤷‍♂️💩🤗🤗

冬のアイスクリーム; 雪ん子百合

2018-04-10 13:25:37 | グルメ
次女百合は、小さい時から雪が降ると☃️☃️大喜びの雪ん子だった。ロシアへ行って(最初は大学生で冬休み)、そのすごい寒さが気に入ってしまい、毎年冬にロシアへ行って楽しむ。(夏は、もちろん暑い日本から涼しいロシアへ逃避する。)

ロシア語は完璧に話せるが、東洋人の顔をしているから、ロシア(西部のサンクトペテルブルクなど)では、「貴女はヤクートから来たのか?」と言われる。ヤクート(Якут。今の名はサハСаха)は、シベリア東部で世界最寒地ベルホヤンスク(Верхоянск市。平均気温は1月にマイナス46.3℃‼️)のある地方である。モンゴル系のヤクート族(言語はトルコ語系)が住んでいるから、百合の容貌から推測したのだろうが、寒さや雪を喜ぶ雪ん子ぶりも、推測の原因かもしれない。

ロシア🇷🇺人の大好物は、アイスクリームである。街角で喜んで食べている。驚いたことには、冬に、屋外でもアイスクリームを食べるのである。マイナス20℃ほどのサンクトペテルブルクの冬でも。

有料老人ホーム「サンテーヌ土浦」の食堂(優雅にも「ダイニング・ルーム」と称している)では、主として来客向けに「アラカルト」献立があり、その中に「アイスクリーム」324円もある。毎週百合が見舞いに来てくれると、ダイニングで、夕食をいっしょに食べ、食後にこのアイスクリームを取って、おしゃべりしながら、食べるのが、何よりの楽しみである。

ロシア人のタマーラさん(東京藝術大学客員教授)にもご馳走した。新奇なものでなく、ごくクラシックなアイスクリームで、気に入ってもらえた。「ロシアの冬のアイスクリームは、冷たいんですか?」と聞いたら、「温かく感じます」という返事だったので、なるほど!と納得した(なっとくした)次第。

アイスクリーム; 戦時下の心安らぐ時

2018-04-08 21:15:14 | グルメ
1941年昭和16年私7歳の12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)が、真珠湾攻撃で始まった。戦線は東アジア・西太平洋一帯に広がり、私の父(私より30歳年上の陸軍中尉)は、召集されて、3度目の出征(しゅっせい)。インドネシアのハルマヘラ島へ送られた。

残った母は私より24歳上の、まだ30代前半の奥様(大阪船場〈せんば〉の問屋の御寮人さん〈ごりょんさん〉)で、4人の子持ち(昭和16年開戦時現在で、9歳、7歳(私)、5歳、3歳という頼りない存在)。それで、主人のいない店を、大勢の店員、女中を指揮して、守って行ったのである。

その心労たるや、大変だったろうと、今思えば、ただただ頭が下がる。

戦争のため、物資も不足して、よく回らず、食料さえだんだん減って来る。ついには、昭和20年3月13日の大阪大空襲で全焼、命も危ない瀬戸際へ追い詰められていくのである。

商品の売れ行きだけは、戦時インフレで、好調だったようだ。(商品とは、メガネ枠(わく)と「防塵(ぼうじん)メガネ」(砂塵の多いシナ大陸での必需品)であった。)

母は、病弱の私を時々近くの「虎鍼」(とらばり)という医院名の「ハリのセンセイ」へ連れて行って、痛くない「小児鍼」(しょうにばり)をしてもらった。初老の人格者である虎鍼さんは、施術しながら、母のいろいろな訴えをふんふんと聞き、時々助言を与えていた。冬は大きな瀬戸火鉢に炭火が暖かく、夏はその火鉢の灰を除いて水を張り、布袋草を浮かべ、金魚を飼っていた。

母にとっては、「ハリのセンセイ」が、誰よりも、気の休まる相談相手だったようだ。

また、時たま、多忙の合間に、母は子供たちを連れて近くのデパートへ行った。心斎橋筋と御堂筋に挟まれて、大きなデパートが2つ、大丸と十合(そごう)が並んでいた。母も私も、モダンな十合より重厚な大丸の方が好きだった。

大丸の食堂で、アイスクリームを食べさせてもらった。銀の足つき皿(アイスクリーム専用の、なんという名だろう?)が、水滴で曇る。美味しく美味しく、スプーンを舐める。平和な一瞬、母にとっても、戦時下の心安らぐ時であったようだ。

昭和19年私10歳の夏になった。子供4人が親を離れて福井市へ「疎開(そかい)」することになった。爆撃から子供の命を守るための政策であった。

最初の1日だけ、母が福井まで送ってくれたのだと思う。福井市の唯一の高層ビルである「福屋」デパートへ連れられ、高い階の食堂で、アイスクリームを食べさせてもらったような記憶がある。窓から福井市を見渡すと、トンビがたくさんピーヒョロヒョロと鳴きながら、目の高さに飛んでいるのに気を取られた。「こんな田舎の町に来たんだ!」と思っていた。

母は、子供と別れるのに、なんと思っていたのだろう? 大きな心配もあり、一瞬の安らぎでもあったろう。

戦争という大きな波の中の親子でした。