つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

無量寿山永福庵御開山・面山瑞方大和尚二五〇回大遠忌御正当

2018-09-17 07:04:25 | 仏教・禅宗・曹洞宗
本日は、江戸時代の曹洞宗が輩出した最大の学僧であり、福井県小浜市に所在する無量寿山永福庵の御開山である面山瑞方禅師(1683~1769)の二五〇回大遠忌御正当となる。拙僧は、面山禅師の法孫では無いが、面山禅師の師翁が拙寺の歴住にいたという関係もあって、参列させていただく機会を得た。ありがたいことに、面山禅師の語録に、一度だけ拙寺の名前も出てくるのである。

さて、今日の御正当に因み、面山禅師が御遷化される様子がどのようなものであったのか、学んでみたい。

 (明和六年九月)十六日、昨の如し。慧苗・観五・慧金・慧白等、榻前に侍す。
 黄昏に喫湯す。
 三更に慧苗等を召して遺語諄諄たり。また、命じて葬儀を簿せしむ。近侍、感泣す。
 四更の間、料して自受用三昧に入るのみ。資徒、遺偈を乞う。師、叱りて云く、吾、生前多口なり。汝等、猶お少なきを嫌う有るか。止めて復た言うこと勿れ。
 五更に至り、安然として右脇にして寂す。顔容変わらず、平時と異なること無し。
    『永福面山和尚広録』巻26『永福面山和尚年譜』「明和六年」項、訓読は拙僧


以上である。九月十六日から始まっているので、一見すると昨日が正当ではないか?と思われる方もおられるかとは思うが、内容をよく見ると、「五更に至り」とある。つまり、九月十六日の夕方に喫湯して、深夜に至って遺言を述べられ、葬儀の準備などもさせ、五更に至って御遷化された。よって、九月十七日の夜明け前に御遷化されたのである。そのため、今日が御正当となる。

引用はしていないのだが、上記一節の前に2つのことが書かれている。1つは、弟子達に残す密付ではない、公式な遺言とでもいうべき法語が残されていることである。内容は仏祖の説法が「入理深談」であることを示したものであった。自身は坐禅によって自受用三昧に入りつつ、機縁に随った説法をされたということである。

また、もう1つは、面山禅師は最晩年、臨済宗の建仁寺西来院におられたが、そのまま遷化されるのは如何なものかと想い、西来院に移るまで居住していた京都五条の宗仙寺住職が面山禅師を訪ね、寺内の寿昌庵に移るようお願いに来た。面山禅師はその意を受けて、移ることを認められたが、結局間に合わずに西来院で遷化されたのであった。しかし、御遺体を入れた龕は直ちに寿昌庵に移され、世間に喪が発せられたのも同庵からであった。

なお、以前から拙僧が行う詩偈の講義などで引用させていただいているが、面山禅師の遺偈に係るエピソードは、上記の通り興味深い内容である。そろそろ師の臨終が近いことを悟った近侍の弟子達は、面山禅師に遺偈を詠んでくれることを願った。すると面山禅師は「ワシはおしゃべりであった。そなた等はまだ、ワシの言葉が少ないというのか。止めよ、もう言うな」といい、遺偈を詠まれないままに御遷化されたのであった。

それから、よく「坐脱」といって、坐禅したまま遷化される方もいるとはいうが、面山禅師は右脇にしたままとあるので、横たわったまま御遷化されたのである。しかし、これは釈尊と同じである。『涅槃経』を読むと、釈尊も横たわった状態で、坐り直した様子がないのに深い禅定に入られて入滅された。道元禅師は不明である。最古の伝記の1つとされる『永平寺三大尊行状記』も、面山禅師が編集された『訂補建撕記』もともに、遺偈を自ら書して、筆を投げて御遷化されたとあって、横たわっていた可能性も坐していた可能性もある。よって、面山禅師の御遷化は、横たわっていたと頂戴するのみといえる。

面山禅師は御生前、おしゃべりであったと御自身仰るように、膨大な著作を残された。その多くは250年を経た現代に至るまで色褪せることなく、我々洞門僧にとっての光明となっている。今日はこれから、拙僧も永福庵を拝登し、面山禅師の御前に焼香させていただきたいと思っている。

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