つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

禅宗に於ける修行否定論(2)

2006-10-12 07:14:06 | 仏教・禅宗・曹洞宗
前回の(1)】は中国に於ける状況を考察していますが、今回は日本に於ける禅宗での修行否定論を見ていきたいと思います。実は、現在の日本の禅宗は、基本的に道元禅師や栄西禅師、円爾禅師のように、自ら中国に渡って印可証明を得てきた場合、あるいは中国から僧が帰化した場合のいずれかの祖師を淵源としております。

しかし、平安時代末期から、鎌倉時代初期にかけて現在の近畿地方を中心に教線を伸ばした「日本達磨宗」という宗派が存在していました。この宗派は、大日能忍が開祖で、能忍は自ら正法を悟ったと標榜し布教していたのですが、或る時にそのように誰からも認められていないことを指摘され、弟子を中国に遣わし、手紙に書かれた偈によって悟りを認めて貰ったというちょっと変わった経歴を持っています。

道元禅師はそのようなあり方を批判して、後に『道元禅師』「面授」巻を著します(直接に批判はしていない)けれども、そういった反応が逆に、当時の「日本達磨宗」が大きな影響力を持っていたことを示しています。なお、「日本達磨宗」は、能忍が殺された後は教線が衰退し、最終的に日本曹洞宗に懐弉禅師や義介禅師、義演禅師などが帰入することで自然消滅したとも、その後も細々と命脈を保ったともいわれますが、歴史の表舞台からは消えていきます。

さて、実は受け入れることになり、自らの教団が大きくなったわけで、道元禅師は得をしているような面がありますが、この日本達磨宗によって迷惑な思いをしたのが栄西禅師です。詳しくは省略しますが、鎌倉時代初期に大きく流行した【浄土宗が停止】されましたが、同じように禅宗も流通停止の処分を受けたことがあります(建久5年[1194])。そして、その理由として、どうやらこの「日本達磨宗」の修行否定的な教義が原因になっていたようなのです。そこで本ログでは、この栄西禅師の主著である『興禅護国論』(1198年撰述)から、当時の達磨宗の教義と、それに対する栄西禅師の批判を見ていきたいと思います。

【達磨宗の教義とは何か?】

始めにお断りしておかなくてはならないのは、これは達磨宗の教義を達磨宗の誰かが書いたのではなくて、あくまでも栄西禅師が誰かから質問を受けるという形で示されます。要するに、質問の内容が達磨宗の教義となっているということです。

或る人がみだりに禅宗を称して、「達磨宗」などと言っている。そして自ら言うには、行もなければ修もない。元から煩悩もなく、元は菩提なのであるから、現実的に戒を用いることもなければ、行を用いることもない。ただまさに、寝ていれば良いのであって、どうして念仏を修し、舎利を供養して、長い時間身を慎み、食事を制限するようなことを労しなくてはならないのか。
    拙僧ヘタレ訳


まさに、「本覚思想」をそのまま肯定したような内容であります。しかもこれが「禅宗の教義」という文脈で語られていることが、気になるところです。なお、鎌倉新仏教と呼ばれる運動には、一般的には修行体系を単純化した「一行専修」のあり方が唱導されることによって、広く民衆に浸透したというものがあります。しかし、それと同時に、戒律を修することをどうやって再興していくかというものがありました。いわゆる本覚思想から生まれてきた造悪無礙にどのように反論していくかと言うことであります。造悪無礙とは、悪をなしてもなんの障りもないということであり、悪行を増長推進していくことです。例えば、浄土教就中浄土真宗の教学で見いだされた凡夫とは、この造悪無礙という観点からも批評されなくてはならないのです。

【栄西禅師の反論は?】

造悪無礙にどのように対抗していくかと言うことについて、鎌倉時代初期の僧侶達の中では、態度が明確に分かれたように思います。浄土教系の祖師は、造悪無礙を否定することなく、悪もまた縁によって起こすのであり、しかし縁によって起こす以上は、縁によって阿弥陀仏の救済が残されているのだと強く説きます。また、明恵高弁や真言律宗を立てた叡尊・忍性などはまさに戒律護持の復興者として知られますし、そして栄西禅師も、その門下に戒律重視の思想を持つ明全や道元禅師を輩出していく以上、戒律については敏感な感性を持っていたと言って良いでしょう。

そこで、栄西禅師は先の達磨宗について、以下のように反論していくのです。

その人は、悪として造らないことがない連中である。釈尊の聖教の中で「空見」という者の如きである。この人とともに語り、席を同じくしてはならないし、まさに百由旬という膨大な距離を置くべきである。『宝雲経』では「むしろ我見を起こして須弥山のように積んだとしても、空見をもって増上慢の気持ちを起こしてはならない。何故かと言えば、一切の諸見は空を持って脱することを得るのだ。もし空見を起こしてしまえば、治すことが出来ないではないか」と言っている。或いは、古の偉大な者は「邪な空を得た禅師は、モノが見えずに燃えさかる穴に落ち込むような者であり、文字しか読まない法師はオウムが人の言葉を良く知るものの、人の感情はないようなものである」と。したがって、禅宗では仏の法蔵を学び、仏の清らかな戒を持するのである。故に、「仏禅」というのである。
    拙僧ヘタレ訳


さて、以下にも多くの経論から引用して、栄西禅師は達磨宗の見解の誤りを指摘していくのですが、割愛して、この部分で栄西禅師が問題にしているのは、「空見」ということです。「空見」とは、いわゆる縁起している諸行が無我であり、諸法が無常であるとき、実体がない=空だと考えられている仏教の思想がありますが、この空をただちに現実に当て嵌めて、何をしても空であるから、現実的な状況などどうであっても良いとしていくのが、この「空見」であります。或いは、「本覚思想」も、この空をそのまま「仏の本来のさとり=本覚」としただけでありますので、非常に良く似ているのであります。

そして、栄西禅師はそういった空見をひけらかす者に対して拒否反応を示していきます。しかし、「百由旬」というのも微妙な距離ですね。「1由旬=約7㎞」らしいので、離れるのは700㎞くらい。「仙台-東京」間が340㎞位なので、ちょうど倍くらいになりますか。日本でやるとすれば、能忍をどこかに追いやって、しかも自分も移動するということが必要になるようです。お互い畿内にいた状況(能忍は現在の奈良県周辺にいたともされる)では、実現は困難だったことでしょう。

一切が全て空であり悟りそのものであるというとき、何をやっても悟りになるというのは、実は理に契っていることでもあります。人間の行いを含めて、人殺しが悪いとか、盗みが悪いというのは、あくまでも批判者から見た個人的な感想に過ぎず、本当に悟りということであれば、一切が悟り(=法の顕れ)と見るべきなのです。しかし、そのような悟りに任せた造悪無礙が果たして仏教者個人の行いについて適用されるか?といえば、拙僧は違うと思っています。

要するに、悟りを開いた者が「一切が悟りだ」というとき、その発言自体にすでに、自ら修行しつつある事実が織り込まれているわけです。まさに歴史的身体の形成的事実として一切を法の顕れと看取しうるのであって、歴史性を無視した荒唐無稽な現実肯定ではないのです。であれば、まさに空見ということも、これは修行者がその修行のプロセスとして言い得るのであり、修行から離れたところで、ただ言葉の上だけで「一切が悟りだ」と認めることは出来ないわけです。

その意味で、大日坊能忍が述べた「寝ていればよい」というのは、まさに暴論以外の何ものでもありません。禅宗には、この悟りの状況を強く打ち出さんとするばかりに、どこか修行否定でも良いということを主張して、仏教に対する「常識」を打ち破る方がいるのは事実ですが、拙僧つらつら鑑みるに、それは修行道場の中でのみ言われるべきであって、発言の目的も修行を必死に行うあまりに周りが見えなくなっている者への教授としてであるべきでしょう。それを超えて、一般社会に直接語りかけ、修行もしない者に修行否定を見せつけることは許されていないと思うわけです。

繰り返しになりますが、修行否定は明確な真理でありますが、修行否定自体が修行のプロセスの中で言われている状況をご理解いただければと思います。もっとも、道元禅師も「道本より円通、争か修証を仮らん。宗乗自在なり、なんぞ功夫を費やすさん」なんてされますが、これについては明確に「亳釐も差有れば、天地懸かに隔たるぞ」とされて、運用の危険性を促しているわけです。

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2 コメント

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有...無... (Vulcan)
2006-10-12 11:17:53
「臨済宗の祖栄西禅師に学べ」という私へのメッセージのように読めて言葉が出ません。

私が修行を否定しているわけではなく、また、日々、修行の心で修行しているつもりであります。

「つもりというのがけしからん。修行せよ」ということでしたら、ごもっともと承ります。
コメントありがとうございます (tenjin95)
2006-10-12 12:52:12
> Vulcan さん



基本的のこのブログは、誰か特定の方についてご意見申し上げるときには、名前や、その受け取るべき方の状況をご指摘申し上げますので、ご安心ください。



ただ、Vulcanさんがご自身で拙文から、示誡と受け取られたというのであれば、それもまた1つの解釈だと思いますので、どうぞお励みください。

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