つらつら日暮らし

酷暑への禅僧の対処法

さて、台風一過の関東地方は、今日も夏本番の暑さでどうにも生きる気力まで根こそぎ奪われそうになりますが、生死事大・無常迅速の我々には、休んでいる暇などありません。ということで、これまでの禅宗にあっても、暑ければどうするべきか?について色々と議論されました。

そこで、こういった時に拙僧が思い出すのはやはり中国曹洞宗の開祖である洞山良价禅師の公案「洞山無寒暑」であります。この公案は、かの公案集としては最高峰とされる圜悟克勤『碧巌録』第43則にも収録されているものであり、概要は以下のようなものです。なお、引用は道元禅師の『正法眼蔵』「春秋」巻から行います。

【「洞山無寒暑」の公案】

【訳文】

 洞山悟本大師(=洞山良价禅師)に、あるとき僧が質問をした。「寒さ暑さが到来したら、どのようにして回避するのでしょうか」と。
 洞山が言うには「どうして『無寒暑処』に向かっていかないのか」と。
 僧が言うには「どこが『無寒暑処』なのでしょうか」と。
 洞山が言うには「寒い時には寒さになりきり、暑い時には暑さになりきるのだ」と。
    拙僧ヘタレ訳


【解説】

とまぁ、非常に短い公案なのですが、ここで主題となっているのは「無寒暑処」ということであり、或る意味で善悪や寒暑などの相対的基準を離れた絶対的な彼岸であります。然るに、この彼岸をたいがいはどこか具体的な「場所」があると思って理解してしまい、いたずらに自らの外にそのような「理想郷」を見出そうと努力するのですが、洞山禅師が最後に結論付けた、「寒い時には寒さになりきり、暑い時には暑さになりきるのだ」という一文からは、なるほどすでにその「理想郷」は自ら自身に於いて見出されるものであることが理解できます。

実は、ここで言う「寒暑」とはそれぞれ「生死」ということであり、「生死=輪廻」からの解脱について或る僧から聞かれた洞山禅師は、生死=輪廻から離れることが解脱なのではなくて、まさに生死=輪廻に徹し切ることが解脱であるとしているのです。この公案は道元禅師が以下のような提唱を行っていきます。

しかあるに僧問の寒暑到来如何廻避、くはしくすべし。いはく正当寒到来時、正当熱到来時の参詳看なり。この寒暑渾寒渾暑ともに寒暑づからなり。寒暑づからなるゆゑに、到来時は寒暑づからの頂[寧+頁]より到来するなり、寒暑づからの眼睛より現前するなり。この頂[寧+頁]上、これ無寒暑のところなり。この眼睛裏、これ無寒暑のところなり。高祖道の寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨は、正当到時の消息なり。いはゆる寒時たとひ道寒殺なりとも、熱時かならずしも熱殺道なるべからず。寒也徹蔕寒なり、熱也徹蔕熱なり。たとひ万億の廻避を参得すとも、なほこれ以頭換尾なり。寒はこれ祖宗の活眼睛なり、暑はこれ先師の煖皮肉なり。
    『正法眼蔵』「春秋」巻


さて、我々が暑さ寒さに徹するというとき、どこか自らを滅却して我慢大会をするかのように思う人がいたとすれば、それはまだ徹し切っておりません。道元禅師は「寒暑づからなり」と表現されます。我々自身が行うことが「みづから(みずから)」であるとすれば、我々自身の行いが暑さ寒さの方から行われることが「寒暑づから」になります。その時我々自身はすでに我慢しようということもなく、すでに暑さ寒さとして生き切っているのですから、当然に相対的基準としての「暑さ」「寒さ」ではなくなり「無寒暑」となります。

要するに、拙僧が今回言いたい「酷暑への対処法」とは、この相対的基準を外してしまえと言うことであり、結果として我々自身の感覚的な暑さから逃れている事実を直観すべきであるということです。暑いと文句を言うとき、一体何と比べて暑いのか?寒いと言うとき、一体何と比べて寒いのか?

ましてや道元禅師は「暑はこれ先師の煖皮肉なり」とされるということは、道元禅師にとって暑さとは亡くなった本師である天童如浄禅師が生きた事実そのものだったのであります。我々も暑いというときには、そこに身近で亡くなった方の息吹を思い出す良い機会なのかもしれません。

あれ?だからでしょうか?夏場にお盆があるというのは・・・

一応追記:
こういった公案に於ける理解では、やや上級者に限られるとも思われ、実際の修行道場では、修行僧に対して大きな団扇で扇いだとされています。詳しくは【今日から六月です】からどうぞ。

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コメント一覧

風月
寒暑づから
今この語を本で確認しました。私はあまり『眼藏』が入りきっていませんので、解説を読んで納得したところです。



しかし「云うまいと思えど今日の暑さかな」などという川柳が実にピンとくるこの頃です。



冬には「お寒うございます」夏には「お暑うございます」の自然さ。

さらには脳裏には宮沢賢治までも浮かんできました。



洞山さんの時代にも禅的な意味もありましょうが、実際の寒暑が大変だったのではないかと推察する次第です。
tenjin95
コメントありがとうございます
> 風月 さん



本当に、暑い日が続いています。



正直、拙僧などもこのような公案で暑さ・寒さを紛らわせるよりも、素直にストーブ・クーラー、もしくは「外的」に探して暑くも寒くもないようなリゾートに行ってみたいものでございます。



しかし、ご紹介いただいた川柳、なかなかに風流でございます。
ぜん
熱殺しなければ、、
http://blog.goo.ne.jp/zen-en/
一昨日、昨日、施食会説教に招かれ、法話をしました。

暑い日でしたので、初めに、この「無寒暑」の話をしました。

ただ、『正法眼蔵』に説かれるような高度な話ではありません



高校野球のように暑さになりきるということです。

駒大苫小牧、苦しみながら初戦を勝ちましたね。
tenjin95
コメントありがとうございます
> ぜん さん



拙僧、かつて師匠から受けるように言われた布教師検定の際に、この「無寒暑」を使った記憶があります。その日も、えらく暑かったですね。



施食はたいがいこうした気温の場合が多いですから、非常によい例となりますね。あとは、「椎茸典座」とかでしょうか?原文は椎茸ではないですけれども。
Timpani
お礼と質問
 はじめまして。お礼がすっかり遅くなってしまいましたが、このたびはトラックバックをしていただき、ありがとうございました。公案にはやはり深い意味があるんですね。
 ところで、「洞山禅師は、生死=輪廻に徹し切ることが解脱であるとしているのです」とのことですが、禅宗では死後の世界を否定されている(仏陀は死後の世界を語ることは愚であると言った?)のではなかったのでしょうか。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> Timpani さん

> はじめまして。お礼がすっかり遅くなってしまいましたが、このたびはトラックバックをしていただき、ありがとうございました。公案にはやはり深い意味があるんですね。

こちらこそ、勝手に放り投げてきたようなトラバになりまして、失礼いたしました。ご丁寧にコメントも頂戴して、恐縮です。

> ところで、「洞山禅師は、生死=輪廻に徹し切ることが解脱であるとしているのです」とのことですが、禅宗では死後の世界を否定されている(仏陀は死後の世界を語ることは愚であると言った?)のではなかったのでしょうか。

えっと、まず、禅宗が死後の世界を否定されているか?という問いについては、禅僧の中に、死後の世界を否定した人もいれば、肯定した人もいる、としかいえません。なお、道元禅師の本師である如浄禅師は、死後の世界を否定する見解を「断見外道」であると主張し(『宝慶記』参照)、道元禅師もその見解を受けておられます。よって、我々は死後の世界を肯定します。

また、ブッダについては、死後の世界を論じることは、今ここで修行を続ける際に意味が無いとして、もっと自らの得道を目指して修行すべきだと述べたのです。よって、死後の世界を否定しているわけではなく、実際に、在家信者に対しては、父母などを供養して(これが、後に先祖供養になります)、功徳を積み、「天に生まれ変わる」ことを述べています。

例えば、よく、ブッダが出家者が葬儀に関わることを否定したという風にばかり読まれる原始仏典の『大般涅槃経』(中村元訳『ブッダ最後の旅』)では、ブッダの死後、その供養をバラモンや王族が行うことを述べ、その者達はよい功徳を得ることを説いています。

よって、近代科学がいうような、無宗教(無神論)と、仏教が説く合理性とは、本来の出発点が全く違う話なので、同一視することは、我々の理解を妨げる原因になるかと思いますので、基本的に仏教は死後の世界について、否定していないという理解でよろしいかと存じます。
Timpani
>tenjin95さん
 大変丁寧なお返事を頂き、ありがとうございました。
 そうですね、仏陀は「考えることに意味がない」と言っただけで、死後の世界の存在に関しては否定も肯定もしていないわけですね。
 ただ、そうすると、「天に生まれ変わる」という意味がわからないのですが、生まれ変わるというのは輪廻転生を認めているということなのでしょうか。
 申しわけありません、質問ばかりで。個人的に死後の世界については非常に興味があるのです。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> Timpani さん

> そうですね、仏陀は「考えることに意味がない」と言っただけで、死後の世界の存在に関しては否定も肯定もしていないわけですね。

これですが、拙僧が学んだ限り、おそらく「死後の世界」について、対象が在家者とするならば、確実に肯定していると思います。せめて、岩波文庫『ブッダ最後の旅』をお読みになると、その辺は分かると思います。

最近、一時期の近代仏教学の悪弊から、『スッタニパータ』と『ダンマパダ』だけが、ブッダの本当の教え、何ていう「冗談」が罷り通りました。今、おそらく原始仏教を本気で研究している研究者は、そういう見解を古くさいものとして否定するでしょう。是非、仏教に興味がある一般の方も、その辺をご理解いただきたいものです。

> ただ、そうすると、「天に生まれ変わる」という意味がわからないのですが、生まれ変わるというのは輪廻転生を認めているということなのでしょうか。

ブッダは、出家者には、そういう輪廻などが再び起こらない境地に行くように説きました。しかし、在家者には、天に生まれ変わるように説いています。要するに、これを同一視してしまった人が、輪廻転生の有無を気にしているのです。ですので、輪廻転生の有無というのは、修行が完成すれば無い、修行が完成しなければ有る、そういう教えです。後は、貴方自身の問題です。貴方は修行が完成していますか?していれば輪廻はありません。

> 申しわけありません、質問ばかりで。個人的に死後の世界については非常に興味があるのです。

正直、拙僧もブッダに準えて、そのようなことを考える暇があるのなら、正法を得る努力をされた方が良いと思います。何故ならば、今ここを除いて修行は出来ないからです。厳しいようですが、一仏教者として真心よりご意見いたします。合掌
Timpani
今回も丁寧なお返事を頂き、ありがとうございました。『ブッダ最後の旅』は是非読んでみたいと思います。
 ただ、これも私の理解が不十分だからかもしれないのですが、「輪廻転生は、修行が完成すれば無い、修行が完成しなければ有る」ということは、輪廻転生は無い方が良いということでしょうか。私は輪廻転生があってほしいのですが。
Timpani
>正直、拙僧もブッダに準えて、そのようなことを考える暇があるのなら、正法を得る努力をされた方が良いと思います。何故ならば、今ここを除いて修行は出来ないからです。厳しいようですが、一仏教者として真心よりご意見いたします。合掌

これもちょっと的外れな返答になるかもしれないのですが、私の友人にキリスト教信者の物理学者がいて、一度彼に「物理学と信仰は矛盾しないの?」と訊いたところ、彼は笑って「入信してみないとわからないだろうな」と言いました。 「正法を得る努力」とは信仰するということでしょうか。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> Timpani さん

> 今回も丁寧なお返事を頂き、ありがとうございました。『ブッダ最後の旅』は是非読んでみたいと思います。

是非、読んでみてください。原典に当たらず、ブッダの教えを云々しても、余り意味は無いというか何というか・・・

> ただ、これも私の理解が不十分だからかもしれないのですが、「輪廻転生は、修行が完成すれば無い、修行が完成しなければ有る」ということは、輪廻転生は無い方が良いということでしょうか。私は輪廻転生があってほしいのですが。

仏教がインドの世界観から導入した輪廻転生ですと、我々の幸せを保証しないですね。次に、地獄に堕ちる可能性も高いですし・・・ですので、そういった生まれる苦しみから逃れるため、輪廻からの解脱が模索されたのでしょう。

> これもちょっと的外れな返答になるかもしれないのですが、私の友人にキリスト教信者の物理学者がいて、一度彼に「物理学と信仰は矛盾しないの?」と訊いたところ、彼は笑って「入信してみないとわからないだろうな」と言いました。 「正法を得る努力」とは信仰するということでしょうか。

キリスト教的な「信仰」と、仏教的な「信心」とは、だいぶそのあり方が違いますね。なお、拙僧的には、「信仰」というのは、教義や神などに「すがる」ことだと思っています。「信心」というのは、一切をブッダ・仏法に「お任せする」ことだと思っています。そのためにも、正しく仏教を学ぶ必要があります。それは、自分の心のあり方を冷静に見つめるところから始まります。拙僧が申し上げる「正法を得る努力」とは、そういうことです。
Unknown
>原典に当たらず、ブッダの教えを云々しても、余り意味は無いというか何というか・・・
 その通りだと思います。学問の基本ですよね。

>仏教がインドの世界観から導入した輪廻転生ですと、我々の幸せを保証しないですね。
 私は、死(無に帰すること)がとてつもなく怖いのです。なので、たとえ地獄に落ちようとも自分という存在が続いていくならそちらを選びます。

>そのためにも、正しく仏教を学ぶ必要があります。
 ごもっともです。ただ、「正しく」と言われても何が正しいのか難しいですね。とりあえず、自分を見つめる努力は常にしているつもりです。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> Timpani さん

> その通りだと思います。学問の基本ですよね。

我々も、油断をしてしまいますと、つい自分の常識といいますか、それまで慣れ親しんだ考え方に落ち込んでしまうのですが、それが正しいとも限らず、自分で注意しています。

> 私は、死(無に帰すること)がとてつもなく怖いのです。なので、たとえ地獄に落ちようとも自分という存在が続いていくならそちらを選びます。

それであれば、大乗仏教の菩薩の生き方などは、選択肢の一つかもしれません。また、今後の人生の中で、徐々に自らの思いなどへの思索が深まり、また別の考え方になるかもしれません。よって、焦らずじっくりと、それこそ一生を使って考えてみても良さそうです。

> ごもっともです。ただ、「正しく」と言われても何が正しいのか難しいですね。とりあえず、自分を見つめる努力は常にしているつもりです。

自分を見つめる努力、とても大切なことです。今後も、それを続けてみると、良いことがあるでしょう。
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