つらつら日暮らし

『幻住庵清規』「開甘露門」に於ける「受戒」の意義について

これは、以前【『幻住庵清規』「開甘露門」に見る「五戒」について】で考えたことの焼き直しである。

先の記事では、拙僧自身が「開甘露門」全体を理解していなかったので、ちょっとピントが外れた記事となっていた。そこで、改めて「開甘露門」を読み直したところ、この一節は、「普施法食文」と「盂蘭盆施食」という2パターンの法要について書いていることを理解した。前回の記事は、前者についての内容であった。

しかし、後半の法要として行う場合に詠まれる文言を見ると、以下のような一節があった。

 若し過去現在の身口意業を懺悔し披陳せざれば、則ち倒懸を解くべからず。
 既に懺悔し已りても、若し帰依三宝せざれば、仏を称して師と為すも、則ち倒懸を解くべからず。
 既に帰依三宝しても、若し如来真浄戒法を具受せざれば、則ち倒懸を解くべからず。
 既に戒を具し已りても、若し四弘誓願・発菩提心を設けざれば、則ち倒懸を解くべからず。
 当に知るべし、懺悔より発菩提心に至るは、皆な倒懸を解くの善巧方便なり。我れ今、聖教に依憑し、首めに諸仏子の為に身口意所作の十不善業を懺悔せしむ。
    『幻住庵清規』「盂蘭盆施食文」、拙僧ヘタレ訓読


ここでいう「倒懸」とは、「盂蘭盆」の原意であるとかつてはいわれていたもので、本書でも「梵語に盂蘭盆、此に解倒懸器と名づく。謂わく倒懸とは、乃ち形を繋ぎ千仞の顛なり。将に無涯の底に墜つ。苦の一言、云喩すべからず」とあって、喩えようもないような非常に苦しい状態のことを指すという。

そこで、盂蘭盆会を行ずるに当たり、父母や祖先などの苦しみを抜くために、施主相手に受戒を説いていたと判断出来るのが上記一節である。現在の曹洞宗で盂蘭盆会に唱えられる『甘露門』(江戸時代の面山瑞方禅師の編集)でも、三摩耶戒の授戒は行われるが、それの対象は在家の施主では無い。

それを思う時、上記内容はまさに施主が盂蘭盆会の場で行う受戒であって、懺悔(不十善業)・帰依三宝・受戒(五戒)・四弘誓願・発菩提心と続く内容である。なお、この受戒自体は、先に挙げたリンク先の「普施法食文」に於けるそれと同じなのだが、「盂蘭盆施食文」の特徴を挙げるとすれば、受戒に関する一々が、「倒懸を解くの善巧方便なり」という位置付けがされていることだろう。

盂蘭盆会のイメージとしては、本来は僧侶の側が夏安居を終えて自恣を行い、清浄となった状態で布施が行われることで、その功徳を巡らし倒懸を解くものであった。だが、上記の場合、施主が自らの身口意を懺悔し、その上で受戒し、発願するという流れをもって、先祖供養を行っていることになる。

この辺について、勝手な推測を伴った評価を行えば、僧侶側への不信感(自恣の機能不全)ということもいえるだろうし、一方で施主の法要への能動的参加を促すという教化的意図も見出すことが出来る。この辺、先行研究なども踏まえて正しく評価することで、今後の盂蘭盆会のあり方を考える機縁にしたいものである。

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