つらつら日暮らし

『瑩山清規』に於ける「入室」について

曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)に於かれては、「入室」に力を入れておられたことは明らかで、特に「立僧入室」は瑩山禅師門下の教育に於いて、重大な意義を持つ行持であった。ところで、「入室」は道元禅師の時代から行われていた。

 この道取は、大宋宝慶二年丙戌春三月のころ、夜間やや四更になりなんとするに、上方に鼓声三下きこゆ。坐具をとり、搭袈裟して、雲堂の前門よりいづれば、入室牌かかれり。まづ衆にしたがふて法堂上にいたる。法堂の西壁をへて、寂光堂の西階をのぼる。寂光堂の西壁のまへをすぎて、大光明蔵の西階をのぼる。大光明蔵は方丈なり。西屏風のみなみより、香台のほとりにいたりて、焼香礼拝す。入室このところに雁列すべしとおもふに、一僧もみえず、妙高台は下簾せり、ほのかに堂頭大和尚の法音きこゆ。ときに西川の祖坤維那きたりて、おなじく焼香礼拝しをはりて、妙高台をひそかにのぞめば、満衆たちかさなれり、東辺西辺をいはず。ときに普説あり、ひそかに衆のうしろにいり、たちて聴取す。
 大梅の法常禅師住山の因縁、挙せらる。衣荷食松のところに、衆家おほくなみだをながす。霊山釈迦牟尼仏の安居の因縁、くはしく挙せらる。きくものなみだをながすおほし。
 天童山安居ちかきにあり、如今春間、不寒不熱、好坐禅時節也、兄弟如何不坐禅。
 かくのごとく普説して、いまの頌あり。頌、をはりて、右手にて禅椅のみぎのほとりをうつこと一下していはく、入室すべし。入室の話にいはく、杜鵑啼山竹裂。かくのごとく入室語あり、別の話なし。衆家おほしといへども下語せず。ただ惶恐せるのみなり。
 この入室の儀は、諸方にいまだあらず、ただ先師天童古仏のみ、この儀を儀せり。普説の時節は、椅子・屏風を周匝して、大衆雲立せり。そのままにて、雲立しながら、便宜の僧家より入室すれば、入室、をはりぬる人は、例のごとく方丈門をいてぬ。のこれる人は、ただもとのごとくたてれば、入室する人の威儀・進止、ならびに堂頭和尚の容儀、および入室話、ともにみな見聞するなり。この儀、いまだ他那裏の諸方にあらず、他長老は儀不得なるべし。他時の入室には、人よりはさきに入室せんとす。この入室には、人よりものちに入室せんとす。この人心道別、わすれざるべし。
 それよりこのかた、日本寛元元年癸卯にいたるに、始終一十八年、すみやかに風光のなかにすぎぬ。天童よりこのやまにいたるに、いくそばくの山水とおぼえざれども、美言奇句の実相なる、身心骨髄に銘しきたれり。かのときの普説入室は、衆家おほくわすれがたしとおもへり。この夜は、微月、わづかに楼閣より、もりきたり、杜鵑、しきりになくといへども、静間の夜なりき。
    『正法眼蔵』「諸法実相」巻


以前から、こちらの作法は洞門の入室作法として理解されていたと思うのだが、しかし、これがそのまま道元禅師が開かれた永平寺で行われていたかどうかまでは判断出来ないのである。そこで、その検証も含めて、瑩山禅師が構築された『瑩山清規』に見える「入室法」を見ておきたい。

 入室法とは、一衆各おの焼香礼三拝の後、各おの排立す。焼香は次第なり。寺官及び臘次を論ぜず。立定し、後侍者、同般を引いて、席の端を望んで、主人を問訊す。而も頭侍者、一人、堂外に出づ。首座に向かいて問訊す。進前して云く、入室を請う。
 首座、入室して当面の席の端にて問訊し、禅床の右角にて問訊し、右に転身して問訊し、斜立して話を通じ、了りて問訊し、当面の席の端に頓拝す。所謂、右手に坐具を取り、直ちに地に投じて一拝し、起立して問訊す。主位より、次の人に問訊す。人人に歩を進めて問訊す。入室、前の如し。人人、横に歩進む。衆、入室罷、侍者、下より入室し、左辺の禅床の角にて話を通ず。賓位より出でて次人に問訊す。入室罷、頭侍者、話を通じ、頓拝し了りて席を巻く。入室罷、鐘を鳴らす。
    『瑩山清規』巻下「月中行事」


問題は、まず入室の機会や、実施場所だが、「月中行事」としては基本「二・七日(2・7・12・17・22・27日)」であるが、『瑩山清規』ではもう少し別の規定も存在している。

 十二日、入室。或いは月に一度、若し夏中ならば両・三度なり。或いは普説入室なり。若しくは昧旦、若しくは薄暮、乃至、夜半か早暁なり。或いは寝堂、若しくは照堂、若しくは堂前なり、処を定めず、時を定めざるは、有道の古仏天童の家風なり。
 入室鼓は、法堂の西鼓を長打三下す。或いは堂前の入室牌を叩く。或いは寮前の版を叩くこと三下す。
 普説は西鼓を長打五下す。
 若しくは大衆、禅椅を遶立し、虚心に聴法普説し了りて、主人、拂子を以て禅床の角を打ちて云わく、入室を請う。誰人を論ぜず、禅牀の近人、禅牀の角に進みて、話を通ずれば出づ。次に当面に問訊す。主人、下座す。
    同上


以上の記述から、入室は基本、毎月1回だったことが分かる。ただし、夏安居中は毎月2~3回だったようである。また、「普説入室」については、「若しくは昧旦、若しくは薄暮、乃至、夜半か早暁なり。或いは寝堂、若しくは照堂、若しくは堂前なり、処を定めず、時を定めざるは、有道の古仏天童の家風なり」とあって、時間や場所は定めないとしつつ、それは天童古仏(如浄禅師)の家風だとされている。この辺は、「諸法実相」巻を参照されたものだろうか?しかし、同巻からは良く分からない。ただし、ほぼ同じ内容だと思われるのが、『永平広録』の記録である。

先師天童の出世、乃ち千載一遇なり。澆運の軌則に拘わらず、或いは半夜、或いは晩間、或いは斎罷、総て時節に拘わらず、或いは入室鼓を撃ちて乃ち普説す。或いは小参鼓を撃ちて乃ち入室す。或いは自ら手づから僧堂槌を打つこと三下し、照堂に在りて普説す。普説し了りて入室す。或いは首座寮の前板を打ちて、首座寮に就いて普説す。普説し了りて入室す。乃ち希代の勝躅なり。
    『永平広録』巻2-128上堂、『永平略録』


瑩山禅師は、上記一節を参照されたものと思われる。この内、「普説入室」のみを考えてみると、時処を定めていない印象を得るため、それが瑩山禅師の清規に反映されているわけである。なお、「普説入室」とは、「諸法実相」巻に見るように、堂頭和尚が普説をしてから、大衆の入室を行う作法を指す。

そして、道元禅師が伝えた天童山の作法の場合、入室は「独参」を否定し、最初の方に問答を終えた大衆はそのまま残る場合もあった。道元禅師はそれこそが、如浄禅師の家風であると評価されているが、瑩山禅師の場合は、今一つ分かりにくいのだが、「話を通ずれば出づ」の意味の採り方次第だが、堂内にはいた感じだろうか?

此の如く、念誦法・入室法・諸諷経の回向等、別紙有り。
    『瑩山清規』巻下「月中行事」


以上のように、「別紙」に作法が書かれていたようなのだが、『洞谷記』関連文書には見当たらないように思う。ただし、強いて言えば、「立僧入室」の件があるけれども、それはそれで検討すべきことが多いため、別の記事にしたい。

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