つらつら日暮らし

仏教は「予防薬」である

最近、ようやく色々な仕事も一段落してきたので、また手元で様々な勉強を始め、こういったブログなども書くようになっているのだが、その中でとても気になる記述を見付けた。それは、「私は病気になって、初めて仏門を叩いてみようと思った。ところが、菩提寺の住職は、禅宗である曹洞宗なのに、坐禅をせず、ただ葬儀や法事ばかりをしている。これは本物の宗教ではない」というもの。或いは、リストラや雇い止めにあった人が、やはり同様に「ここに来て、ようやく仏教の教えに触れてみようと思いました。本物のお坊さんに導いて貰おうと思っています」なんて言っている。

拙僧からすれば、これらの言葉は正直、「遅すぎる」のである。

無論、病気や失業という具体的な「苦悩」があるのは痛いほど分かる。拙僧も、仏門に入ったのは、自分自身が病気をしたということと無縁ではない。ただ、祖父が僧侶であったという事実はあるので、無論、生まれつきのご縁はあったとも思う。それでも、本気で仏教を勉強しだしたのは、大学に入ってからであるし、ようやくその全体像が、曲がりなりにも見えてきたのは、大学院に入ってからのような気がする(つまり、何年かかかったということが言いたい)し、分からないことなんて沢山あり過ぎる。

そんな拙僧自身の話はさておき、そういう中で、思うのは、やはり仏教というのは、「対処療法」にしてはならないということだ。無論、ゴータマ=ブッダの伝記には、ギリギリのところでの対処療法的説法もないわけではないから、それはブッダの偉大な方便ということなのだが、やはり、その後仏教というのは、対処療法ではなくて、その遙か手前で、いずれ訪れるであろう人生の苦悩に対する「予防薬」として機能しているということだ。

苦悩に至ってしまった人は、必死である。必死に宗教に救いを求める。それが逆に、救いのハードルを上げ、苦悩からの解放が契うか、契わないか?という「現世利益」に陥ってしまう。契えば後は「カルト信者への道」が開けるだけで、契わなければ「絶望」が訪れる。どちらにしろ希望がない。

苦悩からの解放について、例えば、人権問題などの「社会的苦悩」については、その社会に於ける是正運動を伴って行われるべきだと思うが、その本人に於いて解消しなくてはならない苦については、伝統的な仏教の修行法に於いて、自らの「思い込み」「吾我」を解消する方向に持っていかねばならない。それは、長い長い道のりが待つ。

例えば、病気になったとして、その時、病気を治すのは、病院・医者の仕事である。或いは、リストラや雇い止めに遇ったという時、その状況を改善するのは、ハローワーク・政治家の仕事である。ただ、その時に、自らがそういう状況に陥ったことによって発生するであろう精神的な苦悩を和らげ、場合によっては、気にもしないで次に進んでいけるように促すのが、我々宗教者、或いは、僧侶の仕事である。

また、ただ平穏に暮らしている人がいるならば、その人が、自分で得た様々な利益を、ただ自分のためだけに使うのではなく、幾らかでも、先祖に廻らして、独善的な心境に陥らない、謙虚な生き方をしていただくようにするというのも、我々僧侶の大切な仕事である。拙僧は、「社会に廻らす」ことについては、無論反対はしないが、しかし、「独善的な心境からの離脱」は出来ないと考えている。結局、「オレの金で救ってやったんだ」という思いから逃れられるとは、到底思えないからである。しかも、「目に見える形で、成果が出るようにお願いします」なんていう“添え言”まで付けて「寄付」を行う大馬鹿者もいる。これでは、独善から解放されまい。そして、いざという時の苦悩は増大するばかりだ。

だからこそ、一見すると「無駄」と思えるかもしれない先祖供養は、無駄と思えるが故に、「オレの金で・・・」というこの思いが出ずに、正しく先祖供養、いわゆる葬儀・法事になるし、自ら謙虚になれる。大きな意味で、一石二鳥である。

拙僧つらつら鑑みるに、今、とても幸せで、何の問題も無いと思っている人こそ、かえって仏教に教えを求めるべきだと思うのだ。そして、教えに随って実践し、出来るならば、「とても柔らかなる心を身に着けていただきたい(←この文章はとても変だ)」と思うのだ。我々曹洞宗に伝わる「身心脱落」という言葉、これをただの「解脱」だと考え、あらゆる苦悩から解放されると思っている人もいることだろう。ところが、拙僧にいわせれば、「身心脱落」とは、苦悩からの解脱や解放という即効性がある概念では無くて、むしろ、あらゆる苦悩の中でも、その苦悩から「距離を取れる」様にする言葉である(それを「解脱」というのなら、そうなんだろうと思う)。

和尚示すには、仏仏祖祖の身心脱落を弁肯するは、乃ち柔軟心なり。這箇を喚んで仏祖の心印と作すなり。
    『宝慶記』第31問答


道元禅師に対して、本師・天童如浄禅師はこのように示された。いわゆる仏々祖々の身心脱落とは、柔軟心なのである。柔軟だから、壁に当たったときにはそれをなんとかやり過ごそうとする。或いは、そもそも壁に当たらない。そういう生き方を目指すべきなのである。苦悩への対処の「選択肢」の数を増やす、それが「身心脱落」である。そして、柔軟心を得るには、それこそ「堅固な修行」を必要とする。しかも、時間もかかる。もし、今満ち足りていて、そしてこの記事をご覧になったという人、遅くないから明日から、いや、今日から仏教を学んでみて欲しい。拙僧で出来ることであれば、協力を惜しまないだろう。

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コメント一覧

shosen
http://softera.jp/weblog/
ずいぶん前の話ですが、今はもう故人となられたある檀家さんと、「悟っても死んでしまうんですよね・・」などと話していたことがあります。
それがなんだかお互い新鮮なフレーズだったようで、しばらく合い言葉(笑)みたいにしていたことがありました。
そんなことを思い出す、すばらしい記事をありがとうございました。。7
御指導学ぼう
http://blogs.yahoo.co.jp/gosidoumanabou
ファン登録ありがとうございました♪

折角ある素晴らしい教えを、どのように自分自身と、家族・友人等と、社会全体に活かしていくか。
生老病死という避けることの出来ない四苦を、どのように尊厳としていくか。
どうしようもない普遍的生命本源の問題であるだけに、時代ごとの処世術のようなものとは、大きな乖離を感じます。

御指導学ぼう
http://blogs.yahoo.co.jp/gosidoumanabou
具体的にどのような人の生老病死に僕らは尊厳を感じているのか?
おそらく僕らに共通して尊厳を感じる代表に、釈尊の存在があるだろうかと思います。

九横の大難にも伝えられるように、釈尊の人生は大難に遭えども人々の幸福のために尽くしきる人生だったように思います。

僕はここに、人として究極の尊厳を見る思いがするとともに、
釈尊と比べて大きいとはとても思えない難に自分が遭遇しても、その釈尊の存在を抱くならば、その難を乗り越えることが出来るに違いないと信じるものです。

また自分が尊厳を感じる人の生き方に倣えば、自分の人生も尊厳と飾られるに違いないと考えます。

なかなか、尊厳を感じる人の生き方に倣うというのが、実践として難しいところですが、思い立つごとにその実践を頑張ってます(笑
御指導学ぼう
http://blogs.yahoo.co.jp/gosidoumanabou
日頃仕事以外でPCに向かうのは、自分の研鑽ブログで手一杯で(僕は在家ですので、汗)、なかなかコチラにお邪魔できないかと思いますが、
お互い真摯に、尊厳と生きた人の教えを研鑽し、自分の生き方に示していきましょう♪

今後ともよろしくお願いいたします♪
すーちゃん
記事を興味深く拝見致しました。

私も幼少の頃は菩提寺の方丈さんや、ご家族に遊んで戴いたり、ちょっとしたお手伝いもしていましたし、自宅でも毎日のお仏飯係、年間の行持のしきたり等も祖母からきちんと教えてられていましたので、今から考えれば結構仏道の「ベース」には恵まれてた方かな…って思いました。

ただ、社会人になり独立すると、どうしても時間と成果に追われる日々。案の定、体調を崩しました…。

でも、不思議なもので、休職して時間ができ、体調も楽になると「あ、お寺に行こう…」(←何だか某企業のCMみたいですが…(笑))と自然にお寺に足を運んで、ご本堂に参詣して暫く心地良い時間を過ごしてみたり、坐禅や写経をさせて戴いています。

お寺という「非日常的な環境」という要素もあるかとは思いますが、何か故郷に帰ってきたような感覚というのか、とても心が落ち着きますし、改めて仏道に関心を抱いている自分に驚いています。

幼い頃の経験が、一種の「免疫力」になっていたのかな?と感じています。

追伸: 先日、とある僧侶の方が「葬儀の繰り上げ法要を50年分やってくれ」と施主さんに言われて、驚きを飛び越えて呆れて、きちんと「供養の意味合い」を説明して断った」とお話されていました。
「面倒だから、この際取りあえず一気にやっとけばいい」と考えたのでしょう。

そんな世の中になってしまっているんだなぁ…と実感しました。
iruka
「目に見える形で、成果が出るようにお願いします」なんていう“添え言”まで付けて「寄付」を行う大馬鹿者もいる---まったくもってそのとおりですね。大馬鹿者のひとりである私は、先日自分が通うお寺に、「人間ですので(そこまで心が成長していないから)形が残ったほうがうれしいから、(現金ではなく)リストにある寄進の品物にしていいですか」といいました。その前にチャンスがあって寄進できた涅槃像には、ときどきMy御釈迦様と思って姿を眺めています。なかなか、道のりは遠いです。でも、やっぱりMy御釈迦様はうれしいです。人間です。
tenjin95
皆さんコメントありがとうございます。
> shosen さん

> ずいぶん前の話ですが、今はもう故人となられたある檀家さんと、「悟っても死んでしまうんですよね・・」などと話していたことがあります。それがなんだかお互い新鮮なフレーズだったようで、しばらく合い言葉(笑)みたいにしていたことがありました。

その意味では、さも悟りに「超人」を求めるような人がいるとすれば、期待には背きっぱなしですね。人間本来の姿、身心を獲得するのが禅だと、拙僧は思っていますので、「いざ悟り、開いてみれば、ただの人」であると思います。

> そんなことを思い出す、すばらしい記事をありがとうございました。

ご参考になれば幸いです。

> 御指導学ぼう さん

> ファン登録ありがとうございました♪

いえいえ、どういたしまして。

> 折角ある素晴らしい教えを、どのように自分自身と、家族・友人等と、社会全体に活かしていくか。生老病死という避けることの出来ない四苦を、どのように尊厳としていくか。どうしようもない普遍的生命本源の問題であるだけに、時代ごとの処世術のようなものとは、大きな乖離を感じます。

そうですね。
学びは常に、熱心に行っていくべきであろうと思います。

> 具体的にどのような人の生老病死に僕らは尊厳を感じているのか?おそらく僕らに共通して尊厳を感じる代表に、釈尊の存在があるだろうかと思います。

曹洞宗でも、一応、ご本尊ですからね。

> 釈尊と比べて大きいとはとても思えない難に自分が遭遇しても、その釈尊の存在を抱くならば、その難を乗り越えることが出来るに違いないと信じるものです。

我々自身、釈尊が仰ったように、悉有仏性の事実に生きていますので、必ず苦は乗り越えられるでしょう。

> また自分が尊厳を感じる人の生き方に倣えば、自分の人生も尊厳と飾られるに違いないと考えます。

そして、また他人の人生や信仰も、貴いモノだとして敬礼しなくてはならないですね。そう、あの常不軽菩薩のように。

> 日頃仕事以外でPCに向かうのは、自分の研鑽ブログで手一杯で(僕は在家ですので、汗)、なかなかコチラにお邪魔できないかと思いますが、お互い真摯に、尊厳と生きた人の教えを研鑽し、自分の生き方に示していきましょう♪

全然構いません。こちらも、他のブログは、だいたいは見ますけれども、記事の全てを拝見することはなく、題名などで興味を引いた場合に伺うようにしています。

気にしていませんので、お暇なときにでもご来訪ください。

> すーちゃん さん

> 私も幼少の頃は菩提寺の方丈さんや、ご家族に遊んで戴いたり、ちょっとしたお手伝いもしていましたし、自宅でも毎日のお仏飯係、年間の行持のしきたり等も祖母からきちんと教えてられていましたので、今から考えれば結構仏道の「ベース」には恵まれてた方かな…って思いました。

そうですね。それは、とても大切な体験であったと思います。そういう体験がある人は、余計なことを考えることなく、仏さまに合掌できることでしょう。

> ただ、社会人になり独立すると、どうしても時間と成果に追われる日々。案の定、体調を崩しました…。でも、不思議なもので、休職して時間ができ、体調も楽になると「あ、お寺に行こう…」(←何だか某企業のCMみたいですが…(笑))と自然にお寺に足を運んで、ご本堂に参詣して暫く心地良い時間を過ごしてみたり、坐禅や写経をさせて戴いています。
> お寺という「非日常的な環境」という要素もあるかとは思いますが、何か故郷に帰ってきたような感覚というのか、とても心が落ち着きますし、改めて仏道に関心を抱いている自分に驚いています。

禅宗には、「帰家穏坐」という言葉があります。御存知かもしれませんが、改めて味わってみては如何でしょうか?!

http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%b5%a2%b2%c8%b2%ba%ba%c1

> 幼い頃の経験が、一種の「免疫力」になっていたのかな?と感じています。

それは十分にあり得ることです。

> 追伸: 先日、とある僧侶の方が「葬儀の繰り上げ法要を50年分やってくれ」と施主さんに言われて、驚きを飛び越えて呆れて、きちんと「供養の意味合い」を説明して断った」とお話されていました。「面倒だから、この際取りあえず一気にやっとけばいい」と考えたのでしょう。

こういう人、正直なところ増えています。結局、「安上がり」なんでしょうね。でも、例えば「子育て」などと同じ意味で「供養」があるわけですけど、いきなり、子供に、「ここに50年分の食料が入っているから、後は1人で頑張れよ」なんて言いますか?それと同じだけの「愚行」だと気付かないのです。説得されたその僧侶の方、立派です。頭が下がります。

> iruka さん

> 「目に見える形で、成果が出るようにお願いします」なんていう“添え言”まで付けて「寄付」を行う大馬鹿者もいる---まったくもってそのとおりですね。大馬鹿者のひとりである私は、先日自分が通うお寺に、「人間ですので(そこまで心が成長していないから)形が残ったほうがうれしいから、(現金ではなく)リストにある寄進の品物にしていいですか」といいました。

では、次回からご注意いただければと存じます。いやまぁ、拙僧の言葉を信じてくださるなら、ですけどね。「こんなクソ坊主の言ってることなどウソに決まっている」とお思いなら、従来通りお勤めください。

> その前にチャンスがあって寄進できた涅槃像には、ときどきMy御釈迦様と思って姿を眺めています。なかなか、道のりは遠いです。でも、やっぱりMy御釈迦様はうれしいです。人間です。

お釈迦様を私物化しても良いことはありません。むしろ、他の方に拝んでいただく機会を作ったこと、そちらの「利他」をこそ喜んでいただけましたら幸いです。
iruka
>「こんなクソ坊主の言ってることなどウソに決まっている」とお思いなら、従来通りお勤めください。

いえ、頭ではそのとおりだと思うのですが、なかなか感情までそこまではいかないなあと感じたのでした。(書き込まなかったあれやこれやもありまして)いつかはすべてが自然に流れてひっかからない境地にたどりつけないかなと思っています。それまでは、人間くさい気持ちと共存して、あせらず、でも投げ出すことなくつづけたいとと思います。
tenjin95
コメントありがとうございます。
> iruka さん

> いえ、頭ではそのとおりだと思うのですが、なかなか感情までそこまではいかないなあと感じたのでした。(書き込まなかったあれやこれやもありまして)

確かに、分かっていても・・・ということは多いですね。

> いつかはすべてが自然に流れてひっかからない境地にたどりつけないかなと思っています。それまでは、人間くさい気持ちと共存して、あせらず、でも投げ出すことなくつづけたいとと思います。

一応、拙僧が申し上げていることも、「人間くさい気持ち」であることには変わりないとは思いますが、ただ、ちょっと見方を変えてしまったのです。それでも随分違います。今日は除夜です。1年の転機に、モノの見方の転機を合わせてみてはいかがでしょうか。
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