つらつら日暮らし

『正法眼蔵』「仏向上事」巻の一考察

次回(5月)から、拙僧が講師を勤めている『正法眼蔵』勉強会では、「仏向上事」巻を採り上げていこうと思っている。それで、拙僧自身の『正法眼蔵』の拝し方は、この一連の既述を、道元禅師御自身の経験(及び、その知)として会得し、追体験していくことにある。その意味で、「仏向上事」巻というのは、その経験が極めて先鋭化された状況として、参究していかねばならない重要な内容である。同巻の有名な一節としては、以下の内容が引用されることが多いだろう。

いはゆる仏向上事といふは、仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり。衆生の、仏をみるにおなじきなり。しかあればすなはち、見仏もし衆生の見仏とひとしきは、見仏にあらず。見仏もし衆生の見仏のごとくなるは、見仏錯なり。いはんや仏向上事ならんや。
    「仏向上事」巻


気を付けねばならないのは、「衆生の、仏をみるにおなじきなり」は、「衆生の、仏をみるにおなじからず」と書いている写本もあることであるが、だいたいの写本は「おなじきなり」であるので、その上で意味を採っておきたい。何故ならば、『正法眼蔵抄』の解説も、「おなじきなり」を前提に説かれていて、その点でただの写本のミスとは言い難いからだ。むしろ、「おなじからず」を採用したのは、ここの文章の前後が正しく把握できていなかったためであろう。その点、『抄』では次の様に指摘する。

此詞前後相違して聞ゆ。其故は、上には衆生の仏を見に同也と云ひて、やがて其次に衆生の見仏にひとしきは、見仏にあらずとあれば、ちがひたるやうに聞ゆ。
    『抄』「仏向上事」巻


最初は、衆生が仏を見るのと同じだというが、後には、見仏がもし衆生が見仏したようであれば、「見仏錯」だと、誤っているとしている。確かにこれは、前後矛盾しているように見えてしまう。ここで、『抄』では、「尽十方界真実人体」という別の基準を入れて解釈することで、会通させるけれども、それを参照しつつ拙僧はもう少し別の状況を入れておきたい。それは、とりあえず、以下の解釈も見ておこう。

見仏錯也と被嫌は、我々が心得たる三十二相八十種好等の仏をよそに見、又或化仏の現相ぞなむど云程の見仏を如此被嫌也。
    同上


要するに、ここで『抄』では、「仏」の定義自体を問うていることが分かるだろう。「見仏」という時の「仏」について、いわゆる様々な荘厳を纏った仏や、現れた仏(化仏)を見るように感じるのではないといっている。つまり、「仏」の定義自体を問いつつ、更に「見」についても問うている。そうなると、畢竟じて、ここでは、「見」も「仏」も通常のそれとは違っていることになる。だが、問題は「見」の方であろう。何故ならば、「仏」の定義を如何様にしても、それをそれとして認識する主体が同じなら、批判=吟味にならないためである。

ここで、道元禅師の指摘される、「仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり」を考えておきたい。ここでは、「仏にいた」るということと、「すすみてさらに仏をみる」という事態が両方描かれている。仏にいたるということは、道元禅師に於いては、身心脱落した坐禅人のことを意味すると思われ、思慮分別を離れ、一種の全体思考・普遍思考を会得した存在ということになる。そうなると、尽十方界真実人体であって、特定の存在を仏と認める必要も無くなる。その段階で、以下の記述も参照できる。

仮令仏と云ふは、我が本知つたるやうは、相好光明具足し、説法利生の徳有りし釈迦弥陀等を仏と知つたりとも、知識若し仏と云ふは蝦蟇蚯蚓ぞと云はば、蝦蟇蚯蚓を、是れらを仏と信じて、日比の知恵を捨つるなり。この蚯蚓の上に仏の相好光明、種々の仏の所具の徳を求むるもなほ情見改まらざるなり。ただ当時の見ゆる処を仏と知るなり。若し是のごとく言に従つて、情見本執を改めてもて去けば、自ら合ふ処あるべきなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-10


この場合、蚯蚓=ミミズのみが仏だといっているのではない。「ただ当時の見ゆる処」を「仏」と知るだけであり、つまり道元禅師は、「●●こそが仏」という、その前提を問うていることとなる。先の「仏向上事」巻でいわんとしていることは、これと同じである。だが、ここで、「仏にいた」ることと、「仏をみる」ことが、若干の「差異」をもっていわれていることに着目したい。それが「すすみてさらに」である。以前から拙僧は、道元禅師の『正法眼蔵』の既述には、それとして働いている「流れ」と、流れをそれとして「記述」する両面があることに注目している。だが、これこそが「自覚」なのではないか?とも思っている。以下の一文をご参照願いたい。

世界と生命の差異論的関係には、像(および像のシステム)と、像化される生命そのものとを切り離し孤立化させるいかなる見方もはいりこめない。そのような見方そのものが差異化の外へ出てしまって、すべてをオラクールなものと化することにほかならない。像のシステムそのものが生命の自己像化であり、自己形成である。像しかない、というよりも、像のあるところ像を形成してくる生命が働いている。このことはとりもなおさず像を産み出す生命を像の形成と同時に読み取る開示性が働いているということである。これが超越論的な媒体性としての自覚の働きである。超越論的媒体性としての自己覚知(自覚)は生起していること自体の超越論的自己理解である。
    新田義弘先生「現象学的思惟の自己変貌」、『媒体性の現象学』青土社・2002年、485~486頁


つまり、道元禅師の「仏向上事」には、仏としてあり得る生命論的働きがある。この働きを、流れを直観している時、それは、例えば、「いはゆる向上不名道膺は、道膺の向上なり」(「仏向上事」巻)ということである。中国曹洞宗の洞山良价禅師の法嗣・雲居道膺禅師が洞山禅師に参じている時、「向上」として、「不名道膺」である。「不名」としてあるとき、流れとして直観されている。だが、それを流れとして直観しているからこそ、「不名」である。この原初的開示性を問うとき、先に挙げた「生命による像を産み出す形成と、同時に読み取る開示性の働き」が重なってくる。

「仏向上事」というのは、通常であれば、「仏を更に超えていくこと」と翻訳される。だがそれは、仏を既に置き、それを乗り越えていこうという静態的な理解に留まる。だが、道元禅師は、以下のようにも示される。

いかならんか非仏、と疑著せられんとき、思量すべし、ほとけより以前なるゆえに非仏といはず、仏よりのちなるゆえに非仏といはず、仏をこゆるゆえに非仏なるにあらず、ただひとへに仏向上なるゆえに非仏なり。
    「仏向上事」巻


「仏をこゆる」事態と、「仏向上」とが別の扱いを受けている。その点で、先に挙げた「通常」の理解は許されていない。それは、「生命を孤立化させる見方」である。だが、道元禅師が仰る「仏向上」とは、脱落身心時に、脱落身心を正当に記述する状況を先鋭的に求めることを意味しているといえる。その意味で、「超越論的な媒体性としての自覚の働き」こそが、「仏向上事」であると会得されるのである。その観点から『正法眼蔵』を読んでいくと、全く違う様相として現ずる。5月の月例勉強会は、解題で終わるだろうが、6月からの勉強会はこの経験に踏み込んでいきたい。

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