つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

道元禅師は栄西禅師の弟子なのか?!

2005-08-25 07:25:38 | 仏教・禅宗・曹洞宗
昔は、真実だと思われていたことが、特定の史料が発見されることで否定されることは歴史研究には当然のことであります。

そこで、道元禅師が栄西禅師に相見したかどうかは古来から事実と信じられていたのですが、最近は否定されてしまいました。それも学説的には事実になったのですが、古い時期に書かれた伝記本や、教科書の説を信じて、ブログなどでも栄西禅師の弟子として書かれていることがあるのですが、情報収集をやり直していただきたいです(別に拙僧の研究所からのお願いではないですけどね)。

さて、そもそも道元禅師が栄西禅師の弟子であるという説が用いられたのは、以下のような、肯定的な文献があったためです。

【肯定的な史料】

(1)建撕記
これは、永平寺第14世建撕禅師が道元禅師の著作や、永平寺に伝わる道元禅師の伝記などを用いて編集された伝記で、江戸時代に入り面山瑞方師が『訂補建撕記』を出版して曹洞宗の流布したのですが、ここでは「建仁開山千光祖師の室に入って、初めて臨済の宗風を聞く」とされて、道元禅師が栄西禅師の弟子だったことを肯定しております。

(2)宝慶記
これは、道元禅師が中国で本師・如浄禅師へ質問した内容が問答体で書かれている著作なのですが、この冒頭に「後に千光禅師の室に入りて、初めて臨済の宗風を聞き、今、全法師に随って、炎宋に入る」(岩波文庫本、5頁)と書かれています。

(3)然阿上人伝
浄土宗鎮西派の了慧道光(1203~90)が書いた然阿上人の伝記に、「建仁栄西の門人栄朝・道元等に訪ね」とあります。

(4)元亨釈書
臨済宗の虎関師錬(1278~1346)が編集した僧伝なのですが、ここでは「始めて建仁明菴に謁して、菴の法器と為る」とあります。

などがあります。そして、これ以降に書かれた伝記資料はだいたいこれらのものに依っているので、道元禅師が栄西禅師の弟子であることに肯定的なのです。しかし、一番上で挙げたように、現在では否定されてきました。それを一々確認しながら以下に考えてみましょう。

【否定的な史料】

(1)建撕記の場合
『建撕記』も参照したであろう、曹洞宗内部で成立した道元禅師の伝記で最古の部類に入る『三祖行業記』『三大尊行状記』『伝光録』では、道元禅師と栄西禅師が相見したことを示す記事はありません。むしろ『三祖行業記』では「始めて本山を離れ、洛陽建仁寺に投ず。明全和尚に従って、猶お顕密の奥源を極む」とされており、本山=比叡山を離れて建仁寺にいた明全禅師(栄西禅師の弟子)に従ったことが書かれているのです。

(2)宝慶記の場合
岩波文庫などにも収録された系統の本は、全て先の肯定的な記述があるのですが、愛知県全久院で発見された、道元禅師の直弟子である懐弉禅師が書写した『宝慶記』には、先の記述がありません。つまり、現存する一番古い写本では、道元禅師と栄西禅師の相見は確認できないのです。

(3)他の伝記について
他の伝記については、そのように書かれているので、文献そのものの否定も肯定も出来ません。

そこで、道元禅師自らの言葉で検証してみますが、道元禅師は自分の弟子に対して、栄西禅師が「師翁(仏法相承の上でのお爺さん)」であることを『永平広録』(巻6-441上堂)で述べ、同じ箇所に『永平広録』の編集者がわざわざ「師(=道元禅師のこと)、先ず仏樹和尚に学ぶ。仏樹は明庵の門人なり」と書かれており、道元禅師が仏樹房明全和尚に参じたこと、そして、その明全和尚が栄西禅師の弟子であることが書かれているのです。そして道元禅師が書いた『弁道話』でも、やはり「予発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる、あひしたがふ霜華、すみやかに九廻をへたり」としておられるのです。そして、栄西禅師が亡くなったのが1215年で、道元禅師が16歳の時だったのですが、どうもギリギリで直接会ってもいない可能性が高いのです。まぁ、栄西禅師が比叡山に来たりすれば別でしょうけど。。。

【結論】

このように、いくつかの史料を見た限りでは、道元禅師は自ら栄西禅師の法の孫にあたることを自覚され、日本での師匠は明全和尚だったことを示しております。明全和尚は残念ながら留学した中国で亡くなり、道元禅師はその遺骨を持って帰ってきました。結果として、建仁寺は明全和尚や道元禅師といった、正しく戒律を学んでいこうとする系統よりも、栄朝や行勇などの密教禅が主流になり、或る意味で道元禅師は当時の禅宗の主流からは外れてしまいました。それでも、波多野氏という理解者を得て、永平寺を開き日本曹洞宗の礎を築かれました。しかし、後の弟子達は自分達が栄西禅師という日本禅宗の始祖に近い系統であると誇示するために、伝記を書き換えた可能性が高いのです。非常に残念ですが。。。

そこで、改めて上記のように道元禅師の言葉を丹念に確認することで、道元禅師は栄西禅師の弟子ではないことが明らかになりました。そして、拙僧はそうであっても道元禅師の価値が下がるものではないと思いますし、むしろ戒律を無視して憚らなかった当時の日本仏教の状況にあって、戒律を護持しようとした明全和尚を師に持つということの方が素晴らしいことのように思うのです。

今回は【或る僧の中国留学記】がネタ切れ(次の「其の十三」で最後になります)になったので、道元禅師の伝記を別に紹介していこうとする企画を探るために、敢えて記事にしてみました。ご意見等ありましたら遠慮無くコメントいただければ幸いです。合掌。

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4 コメント

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Unknown (おき太)
2005-08-25 21:52:44
大学の卒論が道元禅師の目指した仏教は?という内容でしたので、この話は興味深いです。中国から帰国して京都にいた時と、永平寺に移ってからの教えが違うという指摘があります。弘法救世→出家主義、女人成仏の肯定→否定などあります。後に徹通禅師が瑩山禅師を従えて永平寺を去る事からもわかるように後世で意見が割れる話です。この件に関して機会があればコメント頂きたいです。
なるほど、では、その内に・・・ (tenjin95)
2005-08-25 22:36:26
> おき太 さん



コメントありがとうございます。

なるほど、道元禅師の思想的変化の件ですね。実は曹洞宗では正統宗学では長らく思想的変化を認めてきませんでしたが、拙僧はさすがにご指摘のような変化があったことは認めざるを得ません。



ただ、これは一般的な学者さんが快刀乱麻的に切り分けるようなことではなく、あくまでも「どちらかと言えば、変化したようだ」という程度のものであると拙僧は考えております。



さらには、この変化の要因も学者さんは結構簡単に考えてしまって一因一果としますが、拙僧としては変化は常に外因・内因の両方があると思います。



それも含めて論じましょう。いつかはお約束できませんけど・・・忘れていたら指摘してください
Unknown (おき太)
2005-08-26 00:10:35
ありがとうございます。現存しない道元禅師の「護国正法義」があれば、かなり鮮明になるのでしょうね。永平寺出身のお坊さんに多いのですが、瑩山禅師が祈祷や葬祭儀礼を取り入れた事から道元禅師の教えと乖離すると見るお坊さんが多いように感じます。
再コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2005-08-26 06:33:42
> おき太 さん



『護国正法義』は、書かれた記事などを考えれば『弁道話』ではないかとの推測もされておりますが、良く分からないですね。



なお、確かに永平寺出身の方で、そういった意見を仰る方が多いのですが、瑩山禅師がそのような時代の変化に即応する英断を行わなければ、曹洞宗はもうとっくに無くなっていたでしょうし、永平寺出身の方がそんな瑩山禅師による教義の変化を指摘する余裕もなかったでしょうね。



どちらにしろ、現在行われている事は、どれほど原理原則から乖離していても、行われているということ、ただその事実だけで、貴重なモノなのです。逆に、すでに無くなってしまったことは、大した意味はなかったということなんですね。。。

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