つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

道元禅師と「海の日」

2006-07-17 07:59:23 | 仏教・禅宗・曹洞宗
今日は海の日です。

いつの間にか、この日まで「ハッピーマンデー」になっていたとは存じませんでした。ところで、曹洞宗で「海」といえば「海印三昧」であります。「海印三昧」とは、本来無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るような禅定三昧を意味するものであり、『華厳経』という仏典は、この「海印三昧」を説いたものであるとされているのです。

道元禅師は、この「海印三昧」を承けて、さらに中国禅宗の祖師方が説いた教えをもって解釈し『正法眼蔵』「海印三昧」巻を、仁治3年(1242)4月20日に興聖寺で著されました。とりあえず、「海」に関する説示は、この巻がもっとも詳細ですが、他の著作にも「海」が多く登場します。

寮中の清浄大海衆、いまし凡いまし聖、誰か測度するん者ならんや。〈中略〉但、四河海に入って復た本名無く、四姓出家しても同じく釈氏と称せよとの仏語を念え。
    『永平大清規』『衆寮箴規』、拙僧ヘタレ訓読


そもそも、修行僧は「清浄大海衆」とされています。これは、叢林修行をする出家者は、インドの四大河が海中に入れば、元の河の名前が無くなって、「一味の海水」と呼ばれるように、それまでの種姓名を捨てて、ただの解脱の仏弟子となることを意味しています。曹洞宗で葬儀をする際に、僧侶が故人に戒律を授け戒名を与えるのは、このように仏弟子とすることを意味しています。たまに、戒名が無くて良いとか、元の名前で良いとか、自分で付けて安く済むのではないか?などと言う阿呆がいますが、それはせっかくの解脱の可能性を自ら放棄することを意味しています。結局、子どもみたいなワガママいっぱいの自我に縛られているに過ぎないからですね。

 『管子』が言うには「海は水を拒絶しないからこそ、よく大きくなったのである。山は土を拒絶しないから、よく高くなったのである。良き君主とは、人を嫌わないからこそ、良く人が集まるのである」と。
 知るべきであるが、海が水を拒絶しないことは同事ということである。さらに知るべきであるが、水が海を拒絶しないという徳も、具足しているのである。だからこそ、良く水が集まって海となり、土が重なって山となるのである。親密に知るべきだが、海は海を拒絶しないからこそ、海となり、大きくなるのである。
    『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻


道元禅師は「四摂法」の一つである「同事」の説明に、『管子』を著した斉の管仲(?~前六四五。桓公を覇者にした)の言葉を使いながら、以上のように示されます。ここには海が何故広くなったのか?という説明に、海と水との関係を示しています。海は何ものをも受け入れます。逆に、水も海を嫌わずに受け入れてもらいます。このような関係を「同事」とされる道元禅師は、ここから「同事」が他者への信頼をもって自らを投げ入れていくことで成り立つことだと指摘しているのです。先の「清浄大海衆」も同様ですが、ここでも「海」は包容力を意味する存在として描かれています。そして、道元禅師はこの「包容力」をもって、さらに宗教的な見解を強くした説示をされます。

曹山禅師が仰った「包含万有」ということは、海を説いた言葉である。奥深い意旨として言葉に得られたところは、どっかの誰かの一物が万有しているものを包含するのだということではなく、包含万有なのである。大海が万有を包含するというのではない。包含万有を言葉とするのは大海のみである。何ものかと知るわけではないのだが、しばし万有なのである。
    『正法眼蔵』「海印三昧」巻、拙僧ヘタレ訳


海とは「包含万有」ということなのですが、万有を包含する以上、海があって他から万有という存在を受け入れるというような形にはなりません。そうではなく、万有が包含という経験的事実にあって海が海として形成されていくのです。それを言葉にすると、「包含万有」になると、斯様に理解されなくてはなりません。だからこそ、先に紹介した「海印三昧」とは、海の上にヨットや船が泳ぐように、或いは海の中に魚が泳ぐようなものではないのです。これでは、どこまでもヨットや船と海が、魚と海が対立的存在として描かれてしまいますが、まさに海という空間を観察者が定義し、其処に個物を配置しているに過ぎません。しかし、これで海が包含していると言えるのでしょうか?言えません。だからこそ道元禅師は「海印三昧」巻の冒頭で以下のように指摘します。

諸仏諸祖が存在しているのは、必ず海印三昧としてあるということである。この海印三昧として遊泳するときに、説法の時があり、悟りの時があり、修行の時がある。海上にて修行されるという働きが徹底修行されることが、深々なる海底を行くことだと、海上にて修行するのである。
    『正法眼蔵』「海印三昧」巻、拙僧ヘタレ訳


実は、海印三昧の包含万有なる事実は、諸仏諸祖が教行証の三時として明らかにしていくわけです。それ以外の海印三昧はありません。だからこそ、道元禅師は「海上行」という隠喩でもって、これは三昧がさらに三昧を修行する仏祖を生み出し、また仏祖が明らかにしていく三昧という自己組織化のシステムを明らかにしているのです。すでに、三昧が三昧となっていく循環を内包している以上は、循環によって世界も明らかにされるということであれば、循環以外の一切を前提することはできず、結果として海は始めからあるのではなく、あくまでも海も海として自らを明らかにしていくプロセスが三昧なのです。

そして、プロセスに関わるものが何であるかを予め設定できないということから、一切の存在を受け入れて、プロセスの中で再構成されるということを、端的に「海」と言い「包含万有」というのです。我々は海が、始めから広大深遠なる存在として我々を受け入れると理解してはなりません。あくまでも受け入れていくという過程を経つつも、海は海として自己現成していくのですから、この海がより受け入れやすい状況を維持するためにどうすれば良いのか?という倫理性が求められていきます。あまりに酷い廃棄物や汚染物が投棄された場合には、あらゆる存在を受け入れるのではなくて、あらゆる存在を滅していく場所に変貌してしまいます。それは果たして、海なのでしょうか?包含万有なのでしょうか?海があらゆる存在を受け入れるというプロセスから考えれば、我々が海を汚してはならないことは明らかなのです。

・・・などということを、今日の「海の日」に因んで考えてみましたが、これが海をブラックボックス化して、得体の知れない生命として考え(ガイアとか何とか?)、そして擬人化する考えや、いたずらに自然を宗教的対象とするようなアニミズムとも根本的に異なっていることをご理解下さい。「自然を大切に」と言うときには、自然はすでに人間にとって対象化された矮小な「守るべき存在」に貶められています。自然とは、守るべき対象ではないのです。海は海を現成しているのですから。

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2 コメント

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こんにちは (hanninmae_1976)
2006-07-17 12:14:55
>「自然を大切に」と言うときには、自然はすでに人間にとって対象化された矮小な「守るべき存在」に貶められています。自然とは、守るべき対象ではないのです。海は海を現成しているのですから。



まさしくそのとおりだと思います。私も以前自分のブログで少し触れましたが「環境保護」という言葉は人間の増上慢であろうと感じています。

「破壊」も「保護」も結局エゴですからあえてそのスローガンを掲げるなら「人類のために」とか注意書きをつけてほしいと常々思っています。
コメントありがとうございます (tenjin95)
2006-07-17 13:40:30
> hanninmae_1976 さん



多分、「自然のために」とするとそれまでに人間が行ってきた破壊から、贖罪されていくのではないか?と勘違いするんでしょうね。いわれるように「人間のために」なんでしょうけど、人間ですら自然の一部にして全体なんですけどね・・・

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