つらつら日暮らし

瑩山禅師の布薩に出るお唱えについて

瑩山禅師に係る布薩について、その中で唱えられる偈頌や発願文を見ておきたい。なお、この辺の詳細については、おそらく先行研究もあるはずなので、詳しくご覧になりたい方は、そういう論文をお探しになることをお勧めしたい。

『瑩山清規』所収の「菩薩戒布薩式」には、複数の偈文が見える。例えば、以下のようなものである。

持戒清浄なること満月の如し。身口の皎潔なること礙穢無し。
大衆和合して違諍無し。爾らば乃ち同じく布薩を得べし。
    卍山開版本『瑩山清規』「菩薩戒布薩式」項、訓読は拙僧


それでこの一節の典拠だが、南山道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』巻上四「説戒正儀篇第十」になる。というか、瑩山禅師の布薩式全体が、同書同項を典拠にした中国にて行われた布薩式を典拠としたことは明らかである。例えば、中国宋代の東掖白蓮沙門与咸が編集した『註菩薩戒経』巻下の巻末には「半月布薩法式」が収録されているが、これなどは道宣の「説戒正儀篇」と、唐代の天台沙門明曠が刪補した『天台菩薩戒疏』下巻に見える「三十七故入難処戒」の註釈文中に見える布薩式の各種発願文などの影響を受けつつ作られたもので、瑩山禅師の直接の典拠はこちらかもしれない。

それで、全ての一字一句まで、中国の文献を祖述しておられるか?というと、そうでもない。例えば、「発願」について、以下のような一節がある。

 敬って白す、諸仏子合掌して志心に聴きたまえ〈各おの声に随って念を作す〉。
 此の南閻浮提、某州・某伽・某僧伽藍の所にして、我が本師釈迦牟尼仏遺法の弟子、出家・在家の菩薩等自ら惟れば、生死長劫なり。乃ち由りて、無上の慈尊に遇わず、今生に若し出離の心を発さざれば、恐らくは還た流浪するが故に、是の日に於いて、同じく三宝を崇めて大乗を渇仰し、衆、共に菩薩戒蔵を宣伝す。
 此の功徳を以て、龍天の八部を資益し威光自在ならんことを。
    与咸編「半月布薩法式」参照、拙僧ヘタレ訓読


ところが、この一節が『瑩山清規』となると、以下のようになる。

 敬って白す、諸仏子等合掌して至心に聴きたまえ〈大衆合掌して黙然として聞くべし〉。
 維に南閻浮提大日本国〈某道・某州・某郡・某莊・某山・某寺〉僧伽藍の処、出家・在家の菩薩等、自ら惟れば、我が本師釈迦牟尼仏、諸の菩薩に告げて言わく、「我れ今、半月半月に、自ら諸仏の法戒を誦す。汝等、一切の発心の菩薩も亦た誦す。乃至、十発趣・十長養・十金剛・十地の諸菩薩も亦た誦す。是の故に戒光口従り出づ。縁有りて因無きに非ず。故に光光は青・黄・赤・白・黒に非ず。色に非ず心に非ず。有に非ず無に非ず。因果の法に非ず。是れ諸仏の本源、行菩薩道の根本なり。是れ大衆諸仏子の根本なり。是の故に大衆諸仏子、応に受持すべし。応に読誦すべし」と。
 所以に今、衆と与に布薩して、諸仏の法戒を誦す。
 此の功徳を以て、天龍の八部、土地・伽藍を資益して、三界の万霊・十方の真宰に回向す。
    『瑩山清規』「菩薩戒布薩式」参照、拙僧ヘタレ訓読


以上のことから、全体としては先ほどの発願文の形式を受け継いでいるものの、独自に付け加えた内容があることに注意したい。具体的には、釈尊による布薩の意義を示す文章が挿入されていることになる。これは、『梵網経』下巻に於いて十波羅提木叉の説示が始まる直前、菩薩戒の意義について論じたところになる。そこでは、菩薩戒を受けた菩薩たちは、半月ごとに「誦戒」をすべきだというのである。この「誦戒」が、いわゆる「布薩」に解釈されたことは、いうまでも無いことである。

詳細が分かっていないので、メモ書き程度に書き添えておくが、この瑩山禅師が引用された『梵網経』の一節は、道元禅師『出家略作法』に見出すことが可能である。道元禅師は菩薩三聚浄戒を受けられ、その後十重禁戒に進む前に、この一節を引用されているのである。実際に『梵網経』は十重禁戒の前に、上記一節を示すから、その意図もあったと思うが、瑩山禅師はそれを「布薩」実践の根拠として転用されたものか。

なお、更に瑩山禅師は「誦戒=布薩」の功徳をもって、天竜八部衆のみならず、土地神・伽藍神などに資益し、三界万零・十方真宰に回向すると述べている。明確なる善行としての「誦戒」であり、更にはそれを行う大衆は清浄である。だからこそ、資益や回向も強く成立し、結果として布薩を行った菩薩僧と、その僧侶たちが暮らす伽藍が護持されるのである。或いは、これに随喜した在家衆も、同様に良い功徳を得るものと思われる。布薩は出家のみならず、在家衆もまた随喜可能の儀式だからである。

以上のように、瑩山禅師の布薩式のお唱えは、中国のそれを下敷きにしつつも、独自に展開させた部分を見ることが出来た。なお、変更部分を見てみると、「説戒」ということで、中国でも『梵網経』が意識されていたのだとは思うが、瑩山禅師の場合は明確に同経に依拠した布薩を行う意図が感じられる。日本の天台宗の場合、『法華経』を主としつつも『梵網経』も重視されている。そして、それは瑩山禅師も同様である。『瑩山清規』の「盂蘭盆施食会」では唱えるべき経典に、「大乗妙典〈実質的に『法華経』〉」を挙げつつも、続けて『梵網経』を指摘し、また、『洞谷記』では、瑩山禅師門下に帰入した者が学ぶべき経典として「法華経・梵網経・遺教経」を挙げている。『法華経』は大乗の授記や成仏論を学ぶためであろうが、後者二経は「戒」に関することを学ぶためだと思われる〈無論『遺教経』の場合には、八大人覚などもあるが……〉。

布薩については、拙僧自身中々理解出来ないのだが、作法的な流れを確認したということで、この記事を纏めた次第である。

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