つらつら日暮らし

反・無宗教論 ver3.1

今回は、前回からの引き続きで「創唱宗教」に関する問題点などを指摘する。創唱宗教とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人達がいる宗教のことである。教祖と経典、それに教団の三者によって成り立っている宗教と言い換えて良い。

この「創唱宗教」の例は、キリスト教・仏教・イスラーム、そして諸々の「新興宗教」などが当てはまる。拙僧は、たまに「俺が宗教」みたいな言い方をされている方をブログやHPで見ることがあるが、ここにもし「信者」がいない場合には、「単なる独り言」か「疑似宗教」になってしまう。その意味で、宗教とは本来が社会的なものでなくてはならないという観点が抜け落ちているのであり、宗教とは人間の内面性(内想)で済む問題ではないのである。だからこそ、社会的にどのような活動をされてきたか、或いは出来るか(外顕)という問題が常に付きまとうことになる。したがって、本論では、その社会的な活動の辺りから話を進めていかなくてはならない。

前回の【ver2.0】では、「無宗教」の定義をいくつか挙げつつも、「創唱宗教の集団に属さない方」としたが、あまりに定義的だった気もしており、さらには、「葬式仏教」などのように「創唱宗教の自然宗教化」などの事例も事欠かないため、少し切り口を変えて「創唱宗教-自然宗教」のバイナリーコードを「世界宗教-共同体の宗教」と複合的に変換し、更には「教祖-教団」というコードを共鳴させることで、無宗教の問題を批判=吟味していきたいと思う。

【柄谷行人氏の場合】

拙僧によるコードの置き換えに関しては、柄谷行人氏の『探究Ⅰ・Ⅱ』(ともに講談社学術文庫)の影響が大きい。就中、『探究Ⅱ』では「第三部 世界宗教をめぐって」と題して論じられているので、この辺を手掛かりに論じてみよう(本ログでページ数だけの場合は同著同部を参照している)。

「他者」とは、言語ゲームを共有しない者のことである。規則が共有される共同体の内部では、私と他者は対称的な関係にあり、交換=コミュニケーションは自己対話(モノローグ)でしかない。一方、非対称的な関係における交換=コミュニケーションにはたえず「命懸けの飛躍」がともなう。私はまた、そういう非対称的な関係における交通からなる世界を「社会」とよび、共通の規則をもち従って対称的関係においてある世界を「共同体」と呼んできた。
    柄谷氏前掲同著、236頁


拙僧が本論(本ブログの他の場所でも同様)で「共同体」と言うとき、それはこの意味である。共同体とは村や国家という意味だけではなく、共通の規則に於いてある集団を意味している。以前、コギャル言葉なるものがあった。もちろん、現在でもあるだろう。彼女等が、もし自分たちだけでしか理解できない言葉を用いており、それこそ彼女達の共有できる価値観を生み出しているならば、コギャル言葉が例え渋谷や原宿や池袋などで使われていても、それは《方言》である。特定の時間・年齢・場所に限定された集団に於いて使われる以上、そう判断せざるを得ない。

規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことが出来る。共同体の外とか間とかいう場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。
    柄谷氏前掲同著、237頁


上記の指示に於いて鑑みる場合、教団とは歴史的に見て、自分たちだけで共有できる言語規則を用いる場合が多く、いわば彼等は容易に「他者」を消失してしまう。なお、その意味で「他者」とは以下の通りである。

誤解が生じやすいのは、「他者」の概念である。たとえば、人類学者あるいは民俗学者も、共同体の外部にある他者(異者)について語っている。しかし、そのような異者は、共同体の同一性・反復のために要求される存在であり、共同体の装置の内部にある。共同体は、スケープゴートとして、そのような異者を排除するし、またそれを「聖なるもの」として迎えいれる。共同体の外部とみえるものが、それ自体共同体の構造に属しているのである。この種の外部はむしろ異界と呼ばれるべきである。
    柄谷氏前掲同著、237頁


拙僧は、「自然宗教」のような態度を、基本的にこの同一性を反復している共同体の宗教であるとしている。だからこそ、何の疑問もなく葬儀・法事を介して先祖を祀り、また初詣は神社へ行き、結婚式は教会で、そしてクリスマス・バレンタインデーは欠かすことはない。それがどれだけ本来のあり方からかけ離れていても、一種の「ブーム」に乗っかって、共同体の儀礼として行われる限り、これは共同体的な自然宗教である。これと対照的に、自分の宗教とは如何にあるべきかと疑問視し、そして共同体及びその儀礼を批判=吟味する場合に於いて「世界宗教」が存しており、本来の「創唱宗教」もまた、そこにあったとするべきである。

また、他者についても、例えばシャーマンや英雄などを意味しているのではない。その意味では、他者としての宗教者は特別な能力があるわけではない。確かにカリスマと呼ばれる一種の「特技」を有するのが宗教者だと思われているが、これとてそれが一度共同体に於いて定着すれば、ただちに共同体を保持するための機構に転化されてしまう。現に、占いが良く当たるシャーマンは、彼(彼女)がどれほど素晴らしい能力を持っていても、それによって共同体と対立することはなく、むしろ、異者として積極的に共同体に入り込むことが出来る。彼(彼女)は確かに超越的に見える。しかし、実際は内在的である。したがって、世界宗教=創唱宗教とは、或る種の態度であることが分かる。

私はここで「宗教」を二つに分ける。一つは共同体の宗教であり、もう一つは世界宗教である。世界宗教といっても、それはよくいわれるように、世界的に広がった宗教、例えば、キリスト教・イスラム教・仏教などといったものを意味するのではない。世界宗教とは、スピノザのいう意味での「世界」観念を(表象として)提示するものだと考えてよい。それは後述するように距離空間ではないから、距離的な広がりとは無縁である。世界宗教の「世界性」は、その「世界」観念にしかない。そして、「宗教の本質」がエリアーデのいうようなものだとしたら、世界宗教は本質的に「宗教批判」としてあらわれたということができる。
    柄谷氏前掲同著、248頁


拙僧が用いるバイナリーコードは、以上の定義を引用している。世界宗教という世界の表象が、宗教批判なのであるとすればこれは一種の態度である。何故ならば、批判それ自体は、容易に可能である。つまり同一性を反復している共同体の有り様を、ただ非難すれば成立するためである。しかし、その非難が妥当であった場合は、ただちに共同体に取り込まれ、共同体の同一性の反復に寄与することになる。しかし、それでは共同体の宗教にとって「変わったことを言うなぁ」という程度の異者にしかなり得ない。しかし、世界宗教の場合は、この同一性を反復することそのものへの批判=吟味である。したがって、世界宗教者は、まさに自分自身とその環境である共同体に対して、その内部にあっては解決不可能な深い懐疑を持ち続け、その意味で既に世界宗教者は、本来の共同体での日常が何らかの形で崩壊しているとして良い。だからこそ「世界」観念を単独に表象する必要があったのであって、例えば釈尊や道元禅師や親鸞聖人(勿論、他にも大勢いることだろう)などは常にこういった「世界」観念を表象する存在であったとすることができる。それは後に詳述する。

宗教は「聖なるもの」あるいは「超越的領域」にかかわるといわれる。しかし、キルケゴールがいうように、それは実は「内在的領域」にすぎない。つまり、それは共同体の儀礼、あるいは排除のメカニズムにすぎない。「聖なるもの」は「俗なるもの」と同質なのだ。世界宗教がもたらすのは、それとはちがった異質性であり、それこそが「超越的領域」なのである。たとえば、イエスは、異者、すなわち当時の共同体において蔑まれ排除されていた取税人や売春婦たちとつきあい、そのことでパリサイ派から非難される。しかし、そのことを、イエスが異者を憐れんだとか、イエス自身が異者であったとかいうふうに理解してはならない。たんに彼にとって、「異者」なるものが存在しなかったのだ。彼はたんに「他者」を見いだしたのである。同様に、彼にとって、「聖なるものと俗なるもの」という共同体の区別は存在していない。そのような区別が存在しえない「超越的領域」こそが「世界宗教」における「世界」なのである。
    柄谷氏前掲同著、248~249頁


この、「超越的領域」を混沌だと思うのは間違いである。その意味で他者は明らかにいるのである。何もかもがない交ぜにされた空間を「超越」だと言っているのではない。その意味では「神=絶対的他者」や「異者=疎外者」は、共同体の規約に対して内在的である。ここでの「超越的領域」とは、むしろ、相対的な「他者」に出会う空間なのであり、この「他者」は聖なるものでも俗なるものない、という共同体的規約に対して外在的であるが故に、元々からその対立が解消された場所におり、したがって、この対話には従来の共同体の規則が適用できないという意味で“飛躍”が必要とされる。

拙僧が思う宗教の必要性は、ここにこそある。世界宗教者は共同体に於ける聖/俗の分割を否定する。禅宗的なコンテキストで菩提達磨に「廓然無聖」(註1)といわせ、道元禅師も聖なるものを確固たる価値として尊重することを否定している。だからこそ、仏祖は「野クソの棒」だとされるのである。或いは、親鸞聖人の非僧非俗はこの意味から評価されるべきである。

そして、世界宗教者が「超越的領域」から共同体的価値にとって異なるものを異と見ないことは、例えば生者にとって異である死の問題に対して、分割された状況から発言をしないことになる。或いは、我々は通常、生について死について、実は分割された生者として発言するのみである。自分自身の死を体験し語ることは出来ない。しかし、「超越的領域」に於いてある世界宗教者は生/死を超えるのである。生のみに依存する自己同一性を解除し、死へ飛躍すること、生でも死でもない地点へ向かい、そこで発言することが出来る。しかし、生きていないのではない。

たきぎ、はいとなる、さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり、先あり。かの薪、はいとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
    『正法眼蔵』「現成公案」巻


この発言は「どの場所」から発せられたものであろうか。つまりはここで生と知の問題に言及しなくてはならない。なお、道元禅師に於いて「知」の問題は、宏智禅師『坐禅箴』に対する註釈によって示される。

知は、覚知にあらず、覚知は小量なり、了知の知にあらず、了知は造作なり、かるがゆゑに知は不触事なり、不触事は知なり、遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず。
    『正法眼蔵』「坐禅箴」巻


知とは、諸々の現象とは直接に対応しない。しかし、その直接に対応しないことが知であるとされるのであれば、この知そのもので自立しており、自己に於ける知覚や理解を持って知の全体とするのではない。不触事であっても知であるというのは、知が知で独立し、それが密接に現象に連関しているとする事が出来る。だが、現象が知の全体を決定することは出来ず、知が現象の全体を決定することはない。この両者は、密接に連動しているカップリング(註2)である。

至る所に現れる知の未決定性は、知そのものの強固な構造を否定し、柔構造として常に更新されていくことを示唆していると考えることが出来る。そして、その更新には他者との対話に於ける“飛躍”が大きな影響を与えるだろう。そこで、知は死に対してもカップリングすることが出来る。現象としての死から決定されないからである。それは、知が基本的に生に於いてのみ連関する覚知でもなく、自己確定の機能としての了知でもなく、また無限でもなく自己だけに限定されているのでもない。まだ、精査は出来ていないが、この知の融通性が死へ知を至らせる機構ではないかと思う。そして、この知の融通性と自己のあり方は密接に連関している。ここでは相対的な他者との対話に於いて発生する“飛躍”をもって、自己同一性が解除され、既に強固な自己を確認することがなくても、自己はその都度創造されている。

つまり、相対的な「他者」との対話に於いては、宗教者の自己同一性は保証されていない。むしろ、絶対的な他者としての「神との合一」の方が、エクスタシー(外化)を必要としているように思えるが、自己の内面からだけで辿り着くことができるのであれば、むしろこのエクスタシーは「自己同一性のなかに回帰することである」(柄谷氏前掲同著、252頁)とされている。その意味で、一種の神秘的体験を持って安心に辿り着こうとする浄土真宗の秘事法門が、歴代の本願寺法主から非難され、また禅宗的な「悟り」がそれだけで完結できない事実が挙げられるだろう。親鸞聖人の教学では、こういった「神秘的体験」を必要としていない。むしろ、自己の同一性の解除にこそ、絶対他力が顕れるのであるが、しかも、それは内面的なものではなく、親鸞聖人は師を必要としていた。『歎異抄』に「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。」(岩波文庫本、43頁)としておられる。或いは、『教行信証』「行巻」には浄土教の相承が示されている。そして、「正信念仏偈」に於いて本師法然聖人と称している。或いは、他者としての師を必要とすることは道元禅師も以下のように述べておられることから理解できるだろうか?

しかあるに、自証自悟等の道をききて、麁人おもはくは、師に伝受すべからず、自学すべし。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり。これをわきまへざらんともがら、いかでか仏道人ならん。いはんや自証の言をききて、積聚の五蘊ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の児孫と自証するおほし。
    『正法眼蔵』「自証三昧」巻


我々は、自己で修行するのである。或いは自己を修行するのである。しかし、坐禅を久しく行い、悟りなどの一種の神秘的体験を得ることがあり、それを悟りであると思いたくなるが、仏道の問題はそういった神秘的体験そのものではない。体験的事実を含めて師によって自己を伝授されるかどうかが問題なのである。この意味で、道元禅師は明らかに相対的「他者」の必要を説く。或いは、自己の悟りを社会的に開くことを示すのである。その意味では、自己の悟りを自分でこれが良いとすることは出来ない。何故ならば、自己が悟りを得ると、それは自己の滅却を意味し、その滅却された自己が自己判断することは論理的矛盾を来すためである。

なんぢがごとく文字によりて嗣法すべくば、経書をみて発明するものは、みな釈迦牟尼仏に嗣法するか、さらにしかあらざるなり。経書によれる発明、かならず正師の印可をもとむるなり。
    『正法眼蔵』「面授」巻奥書


こちらは、薦福承古という中国の禅者が雲門文偃という中国雲門宗の開祖の語録を見て、悟りを得た(=発明)と自称した者に対する非難である。そして、たとえ「経書」を見て発明したとしても、発明を師によって認められるべきだとしているのである。しかし、これは師と弟子との共同体を構成していることにはならない。何故ならば、この場合自己同一性に至るのが、彼等の目的ではなく、むしろ、師と弟子の関係を表現した言葉には「減師半徳」や「師勝資強」が用いられることを知っておいて良い。師と弟子は一方的に師に絶対的な優位性があるのではない。むしろ、弟子は師を超えることが望ましいとされている。或いは六祖慧能という中国の禅者が南嶽懐譲に対し述べたように「吾亦如是・汝亦如是」である。これは、「如是=かくのごとし」と訳されてしまうから、或る一定の規約に押し込めるような気がするが、実際は「如是」に基準そのものを確定する機能はなく、むしろ「このようなもの」という意味で、無限定を「代表」していると言うべきである。この「代表」された無限定を師に伝承されたことによって弟子は、自ら「世界」を表象する回路へ接続したと言って良い。その意味で、この「世界宗教」者がどのように行動すべきか?よもや共同体に回帰することは有り得ない。世界宗教者は孤独を愛すべきである。

孤独の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪科も無くなる、--真理の味をあじわいながら。
    中村元訳『真理のことば』205


釈尊は以上のように指摘される一方で以下の指摘もある。

もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
    中村元訳『真理のことば』206


したがって、この孤独は「社会」に全く出ないことを意味するのではない。少なくとも、そんな宗教者は歴史に残っていない。そうではなく、常に「社会的」であることになる。その意味で「サンガ」という教団組織があるが、その構成員は孤独というよりも単独者と言った方が良い。さらに、彼等の単独性を強調する事柄があって、それは釈尊にしろ道元禅師にしろ、そして親鸞聖人であっても、彼等がいかなる意味でも移動を繰り返したことにある。この「移動」とは共同体的な基盤から逸脱することである。

以下【続編】に続く。

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