つらつら日暮らし

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「尸羅不清浄、三昧不現前」について

2018-04-21 10:19:52 | 仏教・禅宗・曹洞宗
先日来読んでいた『寿昌清規』(『続曹全』「清規」巻所収、江戸時代初期の来日僧・東皐心越を祖とする曹洞宗寿昌派の清規)には、「堂規」という一節が含まれている。分かりやすくいえば、僧堂内に於ける鳴らし物や進退について論じた箇所だが、更には僧堂内での心構えや、修行全般についての注意なども行われている。

ところで、最近拙僧が気にしているのは、禅門に於ける戒の位置付けになるのだが、本書本節には、以下の指摘が見える。

一 尸羅清浄ならざれば、三昧現前せず。現前することを得んと欲すれば、須く戒律の厳なるべし。
    訓読は拙僧


それで、今日はこの「尸羅清浄ならざれば、三昧現前せず(尸羅不清浄、三昧不現前)」を見ていきたいと思う。この言葉だが、漢籍仏典には多く見ることが出来るのだが、比較的早い時代に編まれたものと思われる場合には、「経に云く」という但し書きが付いている(例えば、天台宗の章安灌頂[561~632]が著した『観心論疏』巻5など)。

では、漢訳の仏経のどこに見えるのか?と思って調べてみたが、該当する文献を当てることは出来なかった。この字句はそれとして非常に整ったものであるから、どこかにあるのだと思っているのだが、見えない。

ただし、意味的にはそれほど難しいことを述べているのではない。要するに、戒律がちゃんと護持されていなければ、禅定が出て来ませんよ、という話である。そして、その意味で良いのなら、実は「戒定慧の三学」という仏教の修行階梯の基本を指しているので、本当に一般的な話ではある。

また、次のような文脈を見ることも出来る。

其の清浄戒究竟有らば、三昧瑕無く等見することを得ん。
    『般舟三昧経』


清浄戒を究めれば、三昧は傷無く現れるという意味である。本書が直接の出典になっているとは思えないし、上記内容も、先の一節からすれば、表現が少し遠すぎる。よって、今後も調べたいとは思っているのだが、中々に難しい話になってしまった。

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