つらつら日暮らし

海の日と解夏の日

今日は海の日である。ただし、7月15日は旧暦で解夏でもある。よって、今日はその2つに関係した記事にしておきたい。

禅宗叢林の文書の1つに『円鏡』と呼ぶものがある。例えば、以下の記述などで知られている。

是は闔山の戒臘を列す。両序大衆共に職の高下なく、戒臘竝に、元亨利貞とつらぬ、維那理て、結夏の日、僧堂前にかけ、香華供養し、人人焼香礼拝す、牌の正中に鏡を安ず、永平一派は、菩薩僧にて、僧堂文殊ゆへに、文殊大士、次に堂頭和尚と書き、戒臘竝に列す、聖僧の方に向て、掛る古法なり、晡時堂司に納む、解夏に再び出す、
    面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻3「年分行法・戒臘牌円鏡法」


要するに、一安居に随喜した僧侶について、その戒臘(出家してからの年数)に従って作られる名簿のことである。途中に出ている【戒臘牌(円鏡)に於ける「元亨利貞」について】については記事を書いたことがあるので、興味がある方は参照されたい。そこで、この文書を取り上げた理由だが、現代のものは多く「清浄大海衆」と書かれるためである。これは、和合僧のことを讃歎する言葉であり、一会に集った僧衆を指すものである。

敢えて「大海衆」と書いてあるところがポイントで、我々は海のように集まり、お互いを忌避しないのである。そういえば、道元禅師は次のように書かれることがあった。

しるべし、海の、水を辞せざるは、同事なり。さらにしるべし、水の、海を辞せざる徳も、具足せるなり。このゆえに、よく水あつまりて海となり、土かさなりて山となるなり。ひそかにしりぬ、海は、海を辞せざるがゆえに、海をなし、おほきなることをなす。山は、山を辞せざるがゆえに、山をなし、たかきことをなすなり。明主は、人をいとはざるがゆえに、その衆をなす。衆とは、国なり。いはゆる明主とは、帝王をいふなるべし。帝王は、人をいとはざるなり。人をいとはずといへども、賞・罰なきにあらず。賞・罰ありといへども、人をいとふことなし。
    『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻


これは、『管子』の一節を引いて論じられたものだが、海が水を辞さない(拒否しない)ことが、四摂法の1つである同事であるという。しかし一方で、水が海を辞さない(拒否しない)という徳も具えているという。よって、水が多く集まって海となるという。我々僧侶は、その各地を旅する様子から、「行雲流水」などと表現され、略して「雲水」という。よって、水が集まるというのは、僧侶が集まって、海という叢林をなすのである。

叢林とは基本的に、一生不離叢林であるが、この場合の意味は、特定の場所や機関に行くことを指して、そのようにいうのではない。いわば、修行が行われている現場をもって、叢林とはいうのである。この場合の修行も、遍界不曾蔵であるから、仏道に精進されることであれば何でも良い。そのような遍界不曾蔵なる修行の継続されるシステムこそが、叢林である。

ところで、清浄大海衆については、以下の説示もある。

寮中の清浄大海衆、乃し凡、乃し聖、誰か測度するものか。然らば則ち面を見て、人を測るは痴の甚だしきなり。
    『永平寺衆寮箴規


道元禅師は、叢林に来る修行者には、凡人も聖人もいるかも知れないが、それについてその才能などを測るのは、愚か者だとしている。つまりは、どのような者でも受け入れるべきであるという。これもまた、多くの者を受け入れていく「海」の様子を表現している。

そういえば、今日15日について、東京や横浜などでは盂蘭盆会(お盆)の正当である。これは、解夏に因んで自恣が行われることもあり、清浄となった僧衆を供養することで、大々的に先祖供養をしようというものである。この辺については、【盂蘭盆会―つらつら日暮らしWiki】もご覧いただくと良いと思う。

とりあえず、今日は海の日でもあるし、解夏でもあるし、同時に盂蘭盆会でもある。やや情報過多ではあるが、供養のことだけは忘れずに行って欲しいものである。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

gooブログも正式対応。ますますの応援よろしくお願いします!!

名前:
コメント:

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

最近の画像もっと見る

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事