つらつら日暮らし

ユマニスム反戦論2011

今日8月15日は、終戦の日とされている。まぁ、この日が「終戦の日」になるのは、紆余曲折もあり、また、いわゆるの「事実」でもないというが、しかし、我々は今、そういう経緯を忘れて、この日を終戦の日と思っている。最近読了した、大澤真幸氏『近代日本のナショナリズム』(講談社選書メチエ)に収録される「「靖国問題」と歴史認識」では、ポツダム宣言の受諾が8月14日、天皇陛下が読まれた詔書の日付も8月14日、降伏文書への調印式は9月2日、で、玉音放送が8月15日だったわけだが、これはあくまでも、事後報告のような話であったといえよう。

だから、実際に今日が「終戦の日」だというのは、日本国内でしか通用しない記述であるという。しかも、8月14日や、9月2日では、明確に「負けた日」にしかならないが、天皇陛下が直接国民に話しかけた日であれば、我々はこの日を「終わった日」だと思えるというのだ(大澤氏前掲同著)。

さて、拙僧は自らの生涯の思想を、「ユマニスム」に置こうと考えている。以前、【寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか】という記事も書いた。先駆者は、渡辺一夫氏(1901~1975)であり、同氏は、暴力や人間の機械化などへの嫌悪感を明らかにしながら、様々な思想などにも、現実にそれが不幸をもたらすのであれば、断乎として批判した。では、ただの批判を繰り返す者かといえば、その根底には人間に対する愛を懐いて生きたという。その著作の一部は、大江健三郎・清水徹編『狂気について(他二十二篇)』(岩波文庫)に収録されているが、今回採り上げたいのは、「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」である。ここでいう「機械」というのは、自ら生きるのに、判断をせず、ただの反射神経と、プログラム(主義主張)のみで生きるような人を指す。そして、そうはならないようにと、渡辺氏は「ヒューマニズム(ユマニスム)」を説く。

ヒューマニズムとは、人間の機械化から、人間を擁護する人間の思想である。割切れない始末に困る人間性の認知を不断に持って、懸命にその解決を求め続ける精神である。〈中略〉この精神を喪失することは、制度や思想の機械になることである。
    渡辺氏前掲同著、164頁


制度や思想の機械になることを拒否するということは、端的にいえば、何にも流されないということである。しかし、全くもって意固地というわけでもない。機械化の拒否とは、自らの思考の自動化を怠惰と見なすような発想である。自動化・機械化の拒否は、それこそヒューマニズムの発動であるという自らの言動も問うこととなる。

私のごときは、指を切って血を出しただけで気持が悪くなりかねない弱虫なのであろうし、第二次大戦で辛うじて生き残り、インフレのなかで辛うじて生き続けている没落プチ・ブルなのであろう。この弱虫のプチ・ブルの欲望とは、「戦争はいやだ」ということであり、この弱虫の思いこみは、「人間は自分の作ったものの機械になりやすい」ということである。もし仮に私自身が何かの機械になっているとしたら、敗戦後一頃にぎやかに猫もしゃくしもかつぎまわった例のヒューマニズムとかいう甘ちょろい思想の機械になっているのだろう。だから、以上に記したことは、弱虫のプチ・ブル・ヒューマニストが、いわゆるヒューマニズムの機械となって戦争呪詛の欲望を表白したにすぎないかもしれない。
    前掲同著、163~164頁


実は、このように問う者こそが、ユマニスト(ヒューマニスト)である。ユマニストは、自らのユマニストのあり方も問う。ユマニストを正義にして担ぐのではない。また自らも、機械化の一環であるかもしれないと自らを疑問に思うこと、それがユマニストである。しかし、ただの懐疑主義者ではない。この場合、戦争に対する明確な拒否を示している。戦争は嫌だというのだ。ただ、それは平和主義に依ってではなく、ただ嫌だからである。これが人間ということである。機械ではなく、人間ということである。人間とは感情の生き物である。しかし、その感情の内、怒りと欲望の無限なる拡大に、身を任せないという時、自ずと、その両者の代表である戦争は、嫌だというのだ。そして、この拒否を、実践的な次元で行うとなると、次のようになる。

第二次大戦中、私は恥ずべき消極的傍観者だった。そして、先輩や友人によくこう言って叱られた。「もし君の側で君の親友が敵の弾で殺されても、君はぼそぼそ反戦論を唱えるかい!」「敵が君に銃をつきつけてもかい!」と。僕は、その場合殺されるつもりであったし、ひっぱたかれても竹槍で相手を突くつもりはなかったから、友人の思いこみを、解きほぐす力がなかった。「困るな!」と言うだけであった。しかし、理屈は抜きにして、「困る」だけである。戦時中、僕は爆撃にも耐えられた。しかし、親しい先輩や友人たちが刻々と野蛮に(機械的に)なってゆく姿を正視することはできなかった。二度とあんな苦しい目はいやである。そして、人間同士をこのような「困る」状態に陥らせる戦争は、目下平和(戦争のない時期)の間に、各人が全力をあげて防止せねばならない。
    前掲同著、165頁


野蛮と機械的は同義である。往々にして、機械的思考を弄する者は、自らの正しさを求め、極限的状況を打ち出しては、相手にその野蛮さへの参入を求める。日本に於ける「死刑制度」、この賛成を促したい者は、「あなたの親しい者が殺されても、死刑に反対できるか?」などと問う。正直、「殺されなくては分からない」というべきであるし、やっぱり翻意しないかもしれない。翻意するかもしれない。そして、今は翻意せずに、反対するかもしれない(ただし、拙僧自身、死刑制度については、常にいう通り、消極的賛成である。理由は、現在制度としてあるから、である。主義主張や思想信条で反対することに反対している)。この辺、戦争の頃にも、このような極限的状況を提示して、議論をしているつもりになっている輩が多かったようだ。いや、議論をしたいのではない。ただただ野蛮に、ただただ機械的にあったというべきなのだろう。渡辺氏は、人間への愛に溢れる人である。だから、周囲の人が徐々に、野蛮になっていくのが一番辛かったという。今現在、日本に於いて行われる様々な議論、その一部に於いて、務めて野蛮的であるとき、確かに、それを突きつけられるのは、本当に辛いものがある。もっと柔らかに受けて、様々な選択肢を提示すべきであるのに、初めから結論ありきなのだ。結論ありきの言葉は、議論ではない。自らが保持している結論を吟味しながら、相手に向かうとき、初めてそれを議論というのである。

渡辺氏はいう、「近代機械文明の病毒に犯されるとともに、己の属する制度やイデオロジーの奴隷となり機械となることは、避けねばならぬはずであろう」(前掲同著、160頁)と。コミュニズムであっても、キャピタリズムであっても、宗教であっても、自らの制度やイデオロギーに疑問を持つことは可能である。平和や博愛を唱えながら、それを「勝ち取らねばならない」などと言っている連中がいたとすれば、それはただの自語相違である。このような相違に、我々は敏感になって良い。そして、コッソリと「それは困るな」といわねばならない。

最近、拙僧のブログで、或る記事のコメントに、拙僧は戦慄した。なるほど、その発言や、政治手法が、反日韓流であるかもしれない菅直人氏であるが、しかし、この者に対し、「本当に日本人であろうか?」等と述べる者がいた。とんでもない話である。国民であるか否かは、その国籍を保証する国家の制度そのものに依存しているのであり、個人の思想信条に依存しているのではない。ましてや、他人がどうこういう問題でもない。であるにも関わらず、何故かその国民であるか否かを疑えると思ってしまっている、このことが恐ろしいのだ。かつての日本には、「非国民」というレッテルが存在した。いわゆる日本式ファシズム(天皇中心=国家神道的全体主義)の中で、その価値観を有しない者を弾劾し、劣等者扱いせんとするレッテルである。しかしながら、そのときであっても、国民であるか否かは、その国籍を保証する国家の制度に依存していたのである。

各々の国民が、相手の行動・言動から決めるべき事柄ではない。

ユマニスムに於いて最も困るのは、おそらくヒロイズムである。自らの言葉や行動の蛮なるに酔うことで、その酔いの中で、正義と自己満足とを共に獲得する志向である。ヒロイズムの根底には、一種のロマン主義もある。ロマン主義もまた、ユマニスムの困るところである。しかし、これらに対して、我々は排除するのではない。ただ「困る」のだ。やれやれと嘆息するのだ。多分、大多数の共感を獲得するのは、ヒロイズムであり、ロマンシズムである。単純だし、人の本能的感情にも合致しやすい。だが、ユマニスムはその単純さと本能に対してこそ、違和感を感じる。この違和感こそが、我々ユマニストの消極的闘争の原点ともいえる。「それは違うのではないか?」と問うのだ。

世界にある、どれほどに優れた思想でも、優れた宗教でも、優れた政治でも、その「優秀さ」をこそ、我々は疑問視する。一体、その優秀さは、何に由って裏付けられ、そして、その理想が実現された社会に於いて、何が支配的となるのか?という疑問視である。渡辺氏は、同時代的に流行したコミュニズムに対して、コミュニストに対して、繰り返しその機械化を諫めている。現代に生きる拙僧は、機械化するどの領域を諫めるべきであろうか。このブログを通して考えられることは、1つは陰謀史観である。拙僧はそれに与しない。1つは正義を背負った言動・行動である。拙僧は正義を背負わない。正義を背負うとき、我々はそれから逃げられなくなる。むしろ、悪事であれば修正が効く。であれば、自らが間違っているかもしれない、と思っている方が、余程健全であるし、繰り返しになるが、ここに働く違和感こそが、ユマニスムの源泉である。

今の日本は激甚なる大災害に襲われ、その前から続く不況によって、青息吐息である。こういう時こそ、戦争の足音には敏感でなくてはならない。「今の生活が、良くなるから戦争しよう」という発言があったとき、一体どれくらいの人が抗えるといえるのだろうか?申し訳ないけど拙僧は、ほとんどの人が、こういう甘言に弱いと思っている。「幸せと経済的繁栄を、“勝ち取ろう”」なんていうのも、また甘美で、かつ低俗な発言だ。そして、これにもまた多くの人は弱いだろう。もう、幸せや繁栄なんて「勝ち取る」ものでは無いのだ。戦争が生み出すのは、恐怖と不幸である。人はそれに気付くから、ヒロイズムで麻痺しようとする。いや、この麻痺感こそ、渡辺氏がいう「狂気」ということなのであろう(同氏「狂気について」参照)。

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コメント一覧

鹿苑院
http://moon.ap.teacup.com/sarnath0426
ちょっと意図が違うかもしれませんが、貴記事を読んでいてチャップリンの「モダン・タイムス」と「独裁者」を思い出しました。(*^o^*)
tenjin95
コメントありがとうございます。
> 鹿苑院 さん

> ちょっと意図が違うかもしれませんが、貴記事を読んでいてチャップリンの「モダン・タイムス」と「独裁者」を思い出しました。(*^o^*)

確かに、チャップリン氏もユマニスト的な人でありますね。
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