つらつら日暮らし

面山瑞方禅師の「盂蘭盆薦抜上堂」

早速以下の一節をご覧いただきたい。

 盂蘭盆薦抜上堂、
 無数の含霊咸く考妣、恩の罔極に酬いて蘭盆を設く。
 瓶灌す阿耨池頭の水、香爇く摩黎山上の根。
 露柱低声に妙法を宣ぶ、灯籠高耀して塵昏を破す。
 村僧敢えて営弁を弄せず、一句纔に拈ず百味の存。
    『永福面山和尚広録』巻1「肥後州玉龍山禅定寺語」、『曹全』「語録三」319頁上、訓読は拙僧


これは、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が首先住職地であった肥後禅定寺で行った上堂である。なお、薦抜というのは、供薦(神仏などに供物を薦めること)して苦を抜くという意味である。おそらくは、7月15日にこの上堂を行ったものと思われる。

内容だが、三界に生きる無数の生きとし生けるものは、ことごとくが自らの父母であり、極まることのない恩に酬いるために、盂蘭盆供養を設けるのである。インドにあるという阿耨池の水を瓶から注いで水を供え、摩黎山上の香木を焚く(なお、この辺の水や香の原産地については、道元禅師『正法眼蔵』「洗面」巻も要参照のこと)。

そうして、この本堂にある露柱が低声に優れた法を述べ、灯籠は高く輝き、この迷いの世界を破るのである。そのために、村僧(面山禅師の謙称)は敢えて余計な供養などを設けるまでもなく、露柱などが説く一句が、百味を具えているのである。

これまで拙ブログでは、【7月1日 一部地域では「盆月」】の記事で、面山禅師の盂蘭盆会について指摘しているが、あくまでも作法面が中心であり、盂蘭盆会の思想的内容は上記一節から知ることが出来よう。

今の我々は余り用いない「恩」、そして使われてはいないけれども「孝」が背後にあることは明らかである。

しかし、それだけではなく、露柱や灯籠が説く法(無情説法)のあり方を取り入れていることも特徴である。これは、我々自身の無分別によって初めて言及されることであるから、面山禅師の供養が、いわゆる「無遮」として行われていることも知ることが出来るものであった。

我々が盂蘭盆施食会を行う場合の基本的な態度であると言える。

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