つらつら日暮らし

『大般涅槃経』に見る「彼岸」について

今は、春の彼岸会である。よって、関連して彼岸という用語について学んでみたい。早速、以下の一節を見ていこう。

また、解脱は到彼岸と名づく、譬えば大河に此・彼の岸有るが如し。解脱は爾らず、此岸無しと雖も、彼岸有り。彼岸有るは、即ち真解脱なり。真解脱は、即ち是れ如来なり。
    『大般涅槃経』「如来性品」


これを読むと、解脱こそが彼岸に到ることであり、その時には此岸は無くて、彼岸きりとなる。そして、そのような真の解脱を遂げた者を如来だという。この場合、如来とは無分別智の極致の如き存在を指す。

善男子よ、彼岸に到るとは、喩えば阿羅漢、辟支仏、菩薩、仏の、猶お神亀の如く水陸倶に行くことなり。何の因縁の故に、之れを喩えるに亀を以ってすや。善く五根を蔵ますが故なり。阿羅漢乃至諸仏、亦復た是の如し。善く五根を覆う、是の故に亀に喩う。水陸と言うは、水は世間を喩え、陸は出世と喩う。是れ諸聖等、亦復た是の如し。能く一切の悪煩悩を観るが故に、彼岸に到る。是の故に喩うるに水陸倶に行くを以てす。
    同経「迦葉菩薩品」


ここでもやはり、彼岸に到ることとは分別を破することを意味している。具体的には、「神亀」のような存在を指しており、この亀は水陸両用的存在だという。また、何故亀に喩えるかというと、五根をくらますからだという。この場合の五根とは、五種の感覚を生じる機関であり、5つの知覚能力(眼・耳・鼻・舌・身)を指している。これはおそらく、亀が首や手足を引っ込める様子を示しているのだろう。

また、先ほどの水陸の問題についても、水は世間であり、陸は出世であるという。神亀はその両方ともに行くのだから、いわば世間と出世間とへの分別を破したのである。そうなると、悪煩悩というのは、ここでは分別心を指していることになる。諸聖はその分別心を観、そしてそれを破するからこそ彼岸に到るのである。

既に前進して已に彼岸に到ることを得て、大高なる山に登り、諸の恐怖を離れ、多く安楽を受くる。善男子よ、彼岸山とは如来を喩う。安楽を受くるとは、仏の常住なるを喩う。大高なる山とは大涅槃を喩う。
    同経「師子吼菩薩品」


最初、中頃に出てくる「彼岸山」って何だ?とか思っていたが、北本だけでは無くて、南本でも同じ字句を用いているので、どうも誤植とかではないらしい。意味は不明。いつの間に山の話になっていたのか・・・それは「大高なる山」だけで十分ではないかと思った。それから、ここでいう「彼岸」は、大きな特徴を持っていない。しかし、如来を意味していることは分かる。そうなるとやはり無分別なのだろうか。その点を想起させるのは「大涅槃」という表現そのものになるといえよう。

彼岸についてのイメージ、幾分かは進んだ。

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