今日4月8日は、釈尊降誕会である。つまり、仏教を開いた釈迦牟尼仏がお生まれになった日となる。曹洞宗では、釈尊降誕会・成道会・涅槃会を「三仏忌」と称して法要を行っている。そこで、それに因んだ言葉を学んでいきたい。
浄法界の身、本と出没無し。
大悲の願力、去来を示現す。
仰いで照臨を願い、伏して真慈を請う。
南閻浮提、大日本国○○州○○山浄住寺開闢〈某甲〉等
今月初八日、恭しく本師釈迦牟尼如来大和尚降誕の辰に値う。
虔んで香花灯燭茶菓微饍を備え、以て供養を伸ぶ。
同じく浴仏し奉り、『大仏頂首楞厳呪』を諷誦し、集むる所の殊勲は、上み慈蔭に酬いん者なり。
右、伏して以れば、
曇花瑞現して、遍界の香気曼引たり。
爀日質麗たり、満天の光輝普ねく照らす。
三祇劫満の最後身、四八荘厳の大妙相。
是れ凡是れ聖、悉く帰仰す、天上天下唯我独尊。
三百余会、法雨は潤し遠浴す。
二千余年、徳風響いて久しく扇ぐ。
仰いで願わくは、
毫光の益、来際に、而も福業は塵沙を利す。
伏して請うらくは、
心華開いて地に満ち、而も荘厳は法界に敷く。
謹んで疏す。
元亨四年四月八日五十四世法孫比丘 某甲 謹んで疏す。
『瑩山清規』(禅林寺本を訓読、一部漢字を改めている)
このような内容である。これは、大本山總持寺を開かれた瑩山紹瑾禅師が、釈尊降誕会に因んで、釈尊の御威徳を讃えられた一文である。内容としては、意外と簡単で、前半部分は、法要の日付や読経した内容を述べるだけだが、後半が釈尊の御威徳を示すものである。
どういうことかといえば、釈尊とは、三千年に一度咲くという優曇華のように、現れることが稀だが、現れれば、この世界全てにその功徳が広がる。そして、釈尊は大陽のような存在で、全宇宙を照らしている。また、想像も出来ないほどの時間の修行を通して、この世界で成仏された釈尊は、三十二箇の優れた特徴を具え、凡聖問わず全てが天上天下唯我独尊を仰いでいる。
釈尊の説法は、三百以上の場所で行われ、あらゆる存在にその功徳が及ぼされ、二千年が経ってもその徳風が響いている。ただ願うところは、その仏陀の額から出る光で、あらゆる存在に功徳が及びますように。また、仏心の華が開いてこの大地に満ち、その飾りでこの世界全てに敷き詰められますように。
だいたいこのような内容になるだろうか。
意外だったのは、瑩山禅師も「三祇劫満の最後身」という釈尊の前生譚を共有しておられることだ。つまり、当時の曹洞宗では、釈尊が永き時間の修行を経て成道されたことを信じていたことになる。これは、晩年の道元禅師も同様であった。
また、禅僧だと、それこそ雲門文偃のように、生まれたばかりの釈尊を亡き者にすれば、余計な教えが広まらずに済んだ、というような発想をする者がいたりして、結構自由な感じだが、瑩山禅師は素直に釈尊の御威徳を讃え、その功徳が我々に満ちることを願っていることが分かった。
拙僧も、祖師方の勝躅に倣い、今日は釈尊の御降誕を祝いたいと思う。
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浄法界の身、本と出没無し。
大悲の願力、去来を示現す。
仰いで照臨を願い、伏して真慈を請う。
南閻浮提、大日本国○○州○○山浄住寺開闢〈某甲〉等
今月初八日、恭しく本師釈迦牟尼如来大和尚降誕の辰に値う。
虔んで香花灯燭茶菓微饍を備え、以て供養を伸ぶ。
同じく浴仏し奉り、『大仏頂首楞厳呪』を諷誦し、集むる所の殊勲は、上み慈蔭に酬いん者なり。
右、伏して以れば、
曇花瑞現して、遍界の香気曼引たり。
爀日質麗たり、満天の光輝普ねく照らす。
三祇劫満の最後身、四八荘厳の大妙相。
是れ凡是れ聖、悉く帰仰す、天上天下唯我独尊。
三百余会、法雨は潤し遠浴す。
二千余年、徳風響いて久しく扇ぐ。
仰いで願わくは、
毫光の益、来際に、而も福業は塵沙を利す。
伏して請うらくは、
心華開いて地に満ち、而も荘厳は法界に敷く。
謹んで疏す。
元亨四年四月八日五十四世法孫比丘 某甲 謹んで疏す。
『瑩山清規』(禅林寺本を訓読、一部漢字を改めている)
このような内容である。これは、大本山總持寺を開かれた瑩山紹瑾禅師が、釈尊降誕会に因んで、釈尊の御威徳を讃えられた一文である。内容としては、意外と簡単で、前半部分は、法要の日付や読経した内容を述べるだけだが、後半が釈尊の御威徳を示すものである。
どういうことかといえば、釈尊とは、三千年に一度咲くという優曇華のように、現れることが稀だが、現れれば、この世界全てにその功徳が広がる。そして、釈尊は大陽のような存在で、全宇宙を照らしている。また、想像も出来ないほどの時間の修行を通して、この世界で成仏された釈尊は、三十二箇の優れた特徴を具え、凡聖問わず全てが天上天下唯我独尊を仰いでいる。
釈尊の説法は、三百以上の場所で行われ、あらゆる存在にその功徳が及ぼされ、二千年が経ってもその徳風が響いている。ただ願うところは、その仏陀の額から出る光で、あらゆる存在に功徳が及びますように。また、仏心の華が開いてこの大地に満ち、その飾りでこの世界全てに敷き詰められますように。
だいたいこのような内容になるだろうか。
意外だったのは、瑩山禅師も「三祇劫満の最後身」という釈尊の前生譚を共有しておられることだ。つまり、当時の曹洞宗では、釈尊が永き時間の修行を経て成道されたことを信じていたことになる。これは、晩年の道元禅師も同様であった。
また、禅僧だと、それこそ雲門文偃のように、生まれたばかりの釈尊を亡き者にすれば、余計な教えが広まらずに済んだ、というような発想をする者がいたりして、結構自由な感じだが、瑩山禅師は素直に釈尊の御威徳を讃え、その功徳が我々に満ちることを願っていることが分かった。
拙僧も、祖師方の勝躅に倣い、今日は釈尊の御降誕を祝いたいと思う。
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