喜びの種☆

yoshicoの徒然日月
ひとふたみよ
いつむゆななやここのたり、、ももちよろず
天の数歌

イサワノミヤ(伊雜宮)

2016-05-16 21:10:28 | いせしまホツマ

伊勢志摩サミットの開催される伊勢・志摩は、
縄文後期から弥生と呼ばれる時代頃、、
八代アマカミ(天皇)・アマテルカミの政庁が置かれたミヤコ(首都)であったと
ヲシテ文献は伝えています。

伊勢志摩サミットにちなみ、
ヲシテ文献が伝える伊勢志摩の原風景をお伝えしていきたいと思います。


アマテルカミが八代アマカミに即位なさった当初のミヤコは、
富士山南麓のハラミノミヤです。
当時の直轄地はコヱクニ、あるいはヤマトクニとも呼ばれ、
常陸・下総・上総・武蔵・相模・甲斐・駿河・伊豆・遠江・三河・尾張・伊勢・志摩にかけての
東海道諸国にほぼ匹敵し、富士山の見える地域でもありました。


外祖父であり、師であったトヨケカミ(外宮ご祭神)のご遺言の
アメノミチの奥義に基づいて、国民をより豊かにしようとの意図により、
ミヤコウツシ(遷都)のミコトノリ(詔)をお発しになりました。
富士山南麓よりさらに南(サ)の地(ワ・大地)が良いとのお考えを示され、
その候補地を絵(江)に写してくるようにと、ヒノハヤヒコにお命じになりました。
 
 ※ヒノハヤヒコ 島根県斐伊川あたりを本拠地とする人物。
 雲南市木次町のあるヒノカミヤシロ(斐伊神社)、
 同座のヒハヤヒコノカミヤシロ(斐伊波夜比古神社)が延喜式に記され、
 また、斐伊川の中流には、イサハノカミヤシロ(伊佐波神社)が延喜式に記されています。


南のことを別の呼び方で「サ」といいます。
「サ」は栄えるの「サ」、クニをもっと栄えさせるためです。
縄文後期頃、先年来の気候変動があり、寒くなってきたために、
以前のように稲が多く実らなくなりました。
アマテルカミの父母、七代アマカミ、イサナギ・イサナミは、
新田開発(水田・畜耕・養蚕技術含)により人々の経済を立て直し、
人々の暮らしは豊かになり、人口は爆発的に増えていきました。
イサナギ・イサナミが国生みのカミ(指導者)と言われる由縁です。


その後のトヨケカミの教えでは、
もっと他に国民を豊かにする方法を考えよというものでした。
収穫高のため、さらに新田を増やしても、より人手がかかり、生活が豊かになるには及びません。
そこで、一反当たりの収穫高を増やすべく、稲の新品種の普及や耕作技術の革新を図るため、
南にミヤコを遷すことをお決めになられたのです。
南には、日照時間の長い土地があり、耕作方法の改善を行うのに好適です。
また、物資の流通も盛んになり、海運に適した土地にミヤコを遷すことも意義深いことです。

ヒノハヤヒコは、安房・伊豆・伊勢・志摩などを重点に巡り、絵図(江図)を提出しました。
候補地の中からアマテルカミがお選びになったのは、志摩のイサワでした。



的矢湾・伊雜ノ浦



イサワは天然の良港です。
太平洋から約10kmも入り組んだ奥にあるので、嵐や津波の直接的被害も緩和されます。
入り江の入口は安乗崎と菅崎との間、切り立った菅崎の絶壁は、船乗りたちの目印になります。
安乗崎と菅崎の間を入ってゆくと波も静かになります。
的矢湾を3km程入ると渡鹿野島があります。
さらに奥へ進むと幅300m程の水路が右へ左へ曲がりくねりながら3km程も続いています。
川のように細長い水路を抜けると伊雜ノ浦が広がっています。
伊雜ノ浦は波もなく、現在では真っ青な海に青海苔が栽培されています。
伊雜ノ浦を過ぎ、神路川を1km程遡ったところが新しい宮地となるイサワです。


ミヤコの造営はオモイカネに委ねられました。
オモイカネは、ウリフツキ(閏月)を取り入れて太陰太陽暦の精度を上げた技術者で、
アマテルカミの信任篤く、イサワノミヤ造営の指揮を執り、
アマテルカミのマツリゴト(政)の基礎を固めました。


イサワノミヤは、現伊雜宮が最有力候補と考えられます。
深い杜に囲まれた伊雜宮では、現在も6月24日に御田植祭が行われています。
伊雜宮御師の西岡家に伝わる文書に、ご祭神「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれ、
同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」と記されているのも興味深いです。
セオリツヒメ・ホノコさまは、ヲシテ文献ではアマテルカミのマキサキ(正后)ムカツヒメです。










また、伊雜宮から800mの丘の上にある佐美長神社が
東(伊雜ノ浦の方角)を向いて建てられているのもたいへん興味深いです。
明治時代までは伊勢神宮の所管で、佐美長神社末社に「秋津社」も祀られていました。
現在は磯部神社に合祀されていますが、アマテルカミの西の后がハヤアキツヒメであったこと、
またハヤアキツヒメの父は造船に長けたカナサキ(後のスミヨシ)であったことなど、
西の后の宮だったのではないかと、、と想像を巡らせます。
 
※カナサキ
 ナカクニ(近畿地方)のクニカミ・後に九州全土をアマテルカミの名代として治める。
 アマテルカミの信任篤く、後にスミヨシの名を賜る人物。
 舟造りと海運に秀でたシマツヒコ一族の七代目・造船技術に長けていた。
 和歌に通じ、病知らずで七代イサナギ・イサナミより長女ワカヒメの養育を委ねられた。


参考文献・参考資料
◎『ホツマ縄文日本のたから』池田満著・展望社
◎『ホツマ辞典』池田満著・展望社
◎ウィキペディア「伊雜宮」・「佐美長神社」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする