道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

フォロー返し

2019年07月31日 | 人文考察
ネットのことは可及的ドライに済ませたい考えで、メールなども、旧来の書簡の作法形式に囚われず交信出来ることを何よりも欣んで利用している。筆不精の私が手紙好きに変われたのは、偏にメールのお陰である。ネットの恵みである。書簡の形式に囚われず自由に手紙が出せる解放感は、中学生の昔から願っていたものだった。

迂闊にも無知にも、SNSにフォロー返しという美風良習があることを知らなかった。洵に愧しい。日本社会に在りながら、一度も自分のブログのフォロワーへのフォローのお礼=フォロー返しをしないで過ごして来てしまった。フォロワーの皆様には、この場を借りてお詫び申し上げます。

それでも、今後も義理返しめいたフォロー返しは致しません。過剰な気働きと忖度で雁字搦めの日本的淳風?と距離を置いて、風通し良い乾いた老後生活を営むには、ネットも乾燥気味にして措きたい。

日常の儀礼はともかく、どうも日本古来の有職故実や作法は苦手だ。形式主義は権威主義の高みから流れ出るもののように思う。そういうものに精通することは、自他を幸福にしないと信じている。

礼儀と作法は生い立ちが違う。
礼儀は社会生活を円滑にするために多数の暗黙の合意によって自然に発生したものだが、作法は、少数の人間が満足する恣意的な所作動作を、権力と権威によって多数に押し付けるものだ。

本来なら、平易に執り行えることを、古式や伝統に則り、ルールでガチガチに縛って、それを知っていることを教養と考える頑迷固陋で保守的な人々は、まだこの国には数多い。

新しいものへの関心を喪失していることを自覚していないかまたは無視しているのだろう。作法を知ってる側(エスタブリッシュメント)の一員たる優越感に安住して居たいのかもしれない。

古くても伝統であっても、悪しき弊習に対しては、後の時代の人々は積極果敢に整理する義務がある。そうでないと、世が降るほど、世の中が窮屈になり、閉塞した社会になるだろう。

三昔前のバブルの頃には、冠婚葬祭本がよく売れた。塩月弥栄子という人は、著書はベストセラー、講演でも引っ張りだこだった。経済的に豊かになったと錯覚した人々が、皆揃って差別化のために形式主義に依拠しようと奔ったのだ。

それが今日では、結婚式も葬儀も、各々の事情を考慮して簡略な方向に向かっている。世の中は、少しづつ軽快になっていると思いたいし、そうしなくてはならない。






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