道々の枝折

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女性蔑視の始まり

2021年02月16日 | 人文考察

東京オリンピック・パラリンピック組織委員会前会長の森喜朗氏は、今回の辞任に至った状況を、全く理解できていないと推測する。
どうしてこうなったのか、いまだに訳がわからないのではないか。この程度のことはいつも口に出していたことなのに、と思っているかもしれない。
森氏を擁護するわけではないが、我々の社会では、あれに似たような発言は至る所で耳にする。

日本人の女性蔑視観は、古代中国文化に由来すると見る。特に言語・教養面の文化に・・・。

感情は言葉に表れるもので、ある感情がなければその感情を表す言葉は生まれない。
嫉・妬・佞・奸・姦など、多数の邪な語意をもつ女偏漢字を編み出し、〔書経〕に「牝鶏晨(雌鳥鳴いて国滅ぶ)」の言葉を遺すなど、偏った女性観に固まっていた古代の中国から、この邦は当時の先進文化を導入した。

日本列島の住人が、縄文時代・弥生時代までは女性への差別意識をもっていなかったらしいことは、考古学が立証している。
女性への差別意識を持っていなかった倭(これも中国人の差別語である)の国以降の人々が漢(中国)文化に触れ、漢字で書かれた書物を読むうちに、古代中国にあった女性蔑視観念に染まったと推測できる。歴史を繙けばそれは明らかである。それまでは、卑弥呼の例でも分かるように、この邦は男王で治まらなければ女王を立てた。古墳時代から奈良時代までは、この国に男尊女卑の考えはほとんど無かったと見る。私たちの先祖は、漢籍によって、女性を蔑視する思想を身につけてしまったと考えてよいと思う。

奈良時代以降、日本の貴族階級(知識層)は、女性蔑視観を根底にもつ儒教の教えを熱心に学び、その教えは時代の推移と共に日本社会に深く浸透していった。

儒教思想は、我が国の戦前世代までの教育に色濃く引き継がれ、この国の男尊女卑の風習を支える柱となった。敗戦後の民主教育で男女平等が提唱されても、三つ子の魂百までも、黎明期の日本が受容した心情・思念はそうおいそれとは変わらない。

漢民族優位の中華思想を生み出した古代中国人は、女性ばかりか四囲の異民族をも夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)の蔑称で呼び、朝鮮半島や日本列島の民族は東夷と特定されていた。
自らを華人と褒め、周辺民族を蛮族と貶める漢民族の属性は、今日でも中華人民共和国の政権担当者に脈々と受け継がれ、国家の精神構造を形成するまでになっている。

かつて西戎と貶めたチベット族やウイグル族に対する同化政策の強行や南沙諸島の軍事基地化、尖閣領海侵犯、香港に対する民主勢力の弾圧などの覇権主義的行動は、その精神構造に由来するものと見るのが妥当だろう。

森氏の世代は、儒教的女性蔑視思想を引き摺る最終世代である。彼はヒューマニズムの欧米社会から容認されない誤った女性観に染まったまま、権力を保持して今日を迎え、国内はもとより、海外からも指弾されたのである。

私を含む、森氏の年齢に近い昭和生まれの日本人男性の大多数は、戦前の教育を受けた親の影響で、公的、社会的には表に出さないものの、内面的には、「女子と小人は養い難し」と言った 2000年も前の中国人の差別意識を引き摺っていると見て、差し支えないのではないか。セクハラ、パワハラの根も、そのあたりにあるのではないかと思う。

誤った観念を内包した理念というものは、いったん学ぶとその弊累代に及ぶ。学問するときには、何を学ぶか、よくよく気をつけなければならない。


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