佐藤匠(tek310)の贅沢音楽貧乏生活

新潟在住の合唱指揮者・佐藤匠のブログです。

インターネットとテレビ

2011年08月03日 01時12分17秒 | デジタル・インターネット
 
 これらとの付き合い方を
非常に考える最近。
 
 
 インターネットというものが
力をもつ世界(国)というのは、
果たして本当に進んだ世界(国)なのか、
進んだと言うか、成熟していると言えるのか、
ということを感じる。
 
 
 いろいろな情報がある中、
それをどう読み取るのかという部分だと思うんですね。
前も書いたかもしれませんが、
ネットに限らず、テレビや新聞や雑誌について、
どの情報も、手を加えられた状態で出てきている訳ですよね。
言葉の一部であったり、それがどういうものなのか、
という思考や推量を経ること無く、
その情報にダイレクトに流されていくという状況が
何とも辛いというか何と言うか。。。
 
 
 例えば、
今接した情報に直で反応する、
それを考えて受け入れる作業をせず影響される時、
その人は、その情報に接する前の時に
自分がそのことについてどう考えていたのか、
ということをもう忘れてしまう。
その情報に接する前と後の「自分の整合性」ということに
意識を持つことが無い、ということ。
 
 
 そもそもその情報の真偽を考えることなく、
それによって影響されていくということは
より操作した情報を意図的に流せば、ということになる。
それは、情報そのものが主になっていて、
受け入れる自分の方が従になっている状態だと考えます。
本当は逆じゃないのかな、と。
 
 
 真偽の不明な情報が流れてもその責任が問われない媒体、
またそれに触れて影響された、
目に見えない触れることの出来ない
ネットやテレビによる世論というものに触れることが、
自分にとって果たして利益のあることなのか、
と感じたり。
 
 
 深く考え過ぎなんだと思いますが。
 
 
 言葉の端を捉えられやすいテレビやネットの中で、
自分の考えていることをいかに誠実に、
誤解が起こらないように伝えるか、
だから自分にツイッターは
あまり向いていないのかな、と。
なるべく自分の考えていることを分かってもらうためには、
それ相応の情報量が必要だと思うので、
こういう長い文章をブログで書いてしまう、ということ。
 
 
 自分がこれらの媒体との距離を計りかねている今、
この媒体を利用することにに対する
自分なりの答えというか誠意。
 
 
 顔が見えないからこそ、
思いを示すために多くの言葉が必要になると思っています。