佐藤匠(tek310)の贅沢音楽貧乏生活

新潟在住の合唱指揮者・佐藤匠のブログです。

教会に行く~祈るということ~

2005年12月24日 22時37分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

 教会へ行った。

 

 

 今日は、本来ならばライブに行くはずだったのだが、

まさか外れないだろうと思っていた抽選に外れ、

予定が空白に。おまけに、昨日夕方、今日大雪の際には

招集がかかるという(ありがたくない)電話をもらい、

覚悟して眠りについたのだが、

それほどでなかったのか、電話は来ず

(寝ぼけて切ってしまっていないかが心配だが)。

 

 実は先日、新聞のチラシの中に、

教会の案内が入っていた。クリスマスの頃の。

それを見て、行ってみようかなと思っていた

(ただそのチラシがどこかへいってしまった)。

断っておくが、僕はクリスチャンではない。

 

 今日はその教会に電話をして確認しようとしたのだが、

番号が違うのか話し中のまま。

結局、アポを取らずにぶっつけで訪ねる。

場所はアパートから程近いカトリックの教会。

 

 初めてでもOKとの返事をもらい、中に入る。

勝手知ったる人が、案内してくれた。その人の後ろに座る。

中には沢山の人が。

 

 教会に行くのは、初めてではない。

以前ウイーンに行った時に、訳も分からずミサに参加したことがあり、

後は、指揮者教会の教会暦コンサートで、何度か

東京カテドラルへ行ったことがある。

 

  「カトリック聖歌集」と、「典礼聖歌」をお借りし、

ミサの式次第を頂く。

キャンドルに火を灯し、ミサが始まる。

本来は午前0時に行うミサ。

人の生活に合わせ、午後7時から始める。

 

 合唱を歌っているのに不勉強だが、

キリスト教や、その暦、ミサについてなど、

かなり断片的な知識でこれまで歌ってきた。

だから、今一つ理解できていなくて、

繋がりが分からなかった。

だから、今日のミサも、分かるところと分からないところがあった。

会衆がそらで歌うところは、歌えないので周りの歌を聴き、

歌集に載っているのは一緒に歌う。

日本語なのでかえって慣れないのだが、

歌い始めて、ああこれがキリエか、グローリアか、と分かる。

 

 何と言うんだろう、やっぱり、この空間ならではのものがある。

やっぱり、家や外で過ごす人たちとは、どこか一線を画している気がする。

何のためにクリスマスがあるのかということ。

別に、ここにいることが特別だと言っているのではない。

でも、ここに来て何を臨むか、ということ。

やっぱり、そういう雰囲気の中で感じるキリスト教は、

ちょっと違うなと感じる。

違うというのは、信者の方の中に入って感じる空間が、

普段趣味で合唱を通してキリスト教を感じるのとは、

明らかに違う、ということ。

何と言うか、わかりやすい、というか、日常だ、ということ。

 

 途中、司祭が、説教をする。

話を聴きながら、祈るということについて考えていた。

 

 日本人は、特定の宗教を持たない人が多い。

日本人はそれが当たり前だと思っている

(アメリカに留学していた教授によれば、

「宗教は何ですか」と聞かれて、「無宗教です」と答えるのは、

外国では危険思想だと思われる。日本人なら、

「仏教です」と答えるのが無難だ、と言っていた)。

でも諸外国では、上記の様にその方が不思議なのだ。

そして日本では、宗教とは、心の弱い人がすがるものだという

考え方まである。

果たして、それは、正しいのだろうか。

僕が思うに、それは、違うのではと思う。

 

 信者じゃない僕が、祈ることについて語るのも

おかしな話だが、だから感じることとして読んで欲しい。

 

自分を信じる、正しいと思うことの危うさ

 

 自分を信じられる人、正しいと思うことが強く、

そうでない人が弱いという考え方。

人は、世の中に沢山いる。山のようにいる。

もし、世の中の人全員がこう思っていたら、

世界はどうなってしまうのだろう。

というか、一部の人にでも、こう思う人がいるから、

争いが起こるのではないだろうか。

もちろん、スポーツのレベルならいい。

これが政治のレベルになると、どうだろう。

 

 祈るということは、何か巨大な力に対峙し、その前で、

自分が何なのか、自分を省みること、自分の心を見ることだと思う。

自分がいかに不安定な存在か、自分がいかに小さい存在か、

そして、自分がどうあるべきかを、考えることではと思う。

これは、昔の日本人も、自然という大きな力に対峙し、

否応なしに祈るということを行っていた。

 

 人間は愚かだし、醜い。争いも絶えない。罪深い。

自分が正しいと思うその傲慢さが、人との対立や争いを引き起こすのだと。

自分を謙虚に持ち、自分がどうあったらいいかということを考える。

それが、祈るということ、教会に通う意味では、と、

信者ではないけど、僕は思った。

 

 ミサは歌に囲まれていた。

歌うことの自然さ、密接さ、大事さ。

聖体拝領の儀式は、信者のみ参加。

僕はパンをもらわず、頭をたれ、頭に手をかざしてもらう。

他にも結構信者ではない人が来ていた。

こうして1時間20分ほどのミサは終わった。

 

 帰り、お世話になった方にお礼を言い、

読むもの(カトリックの新聞やミサについて)を頂いた。

明日も来たいのだが、無理なので、

また時間をみて、参加してみたいと思う。

 

 信者であるとか、そうでないとか、

そんなことはどうでもいいと正直思う。

自分がどうあったらいいか、省みる時間、

そういう時間が、人間には必要だと思った今日だった。