空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

原始社会の理想化―という発想

2019-03-31 12:41:57 | ノート
 日本語の文法としては間違いないように思うが、言葉の定義的にはやや



 …いやその、エンゲルス以前にマルクス主義があったのかとか、いや確かに純マルクスというのはあろうしエンゲルスとの思想的差異を見出すのは可能であろうがそこまで瞬間的な存在をそうまで強調するのはマルクスの物神化が強まってやしないか、つーか「マルクス主義」はマルクス自身をふくまないだろう、とすると最初のマルクス主義者はエンゲルス以外には考えがたく、そうすると「エンゲルス以来のマルクス主義の伝統」というのは同語反復じみてはいないか…という気がする微妙な感じ。

 ルソーでよくねえ? 原始社会の理想化って。
 いやほら、高校倫理・世界史の範囲でいける程度の話でいえば。

 ああそうか、「原始 共 産 制」への幻想という限りでいえば、それはマルクス主義の伝統か。なにしろこの用語自体がマルクス=エンゲルスの造語だそうで、ならばそれ以前にさかのぼるはずがない。だが「自然状態では人は平等であったにもかかわらず」ことさらな文化が平等を破壊してきたというアイディアが、まるでマルクス主義固有の属性に読まれかねない流れはちょっと、と思えたなあと。

 そして「今でも定期的に出現する」ところのそれは、ことさらにマルクスを、あるいは特にエンゲルスの所説を参照しているわけではなく、単に、むしろルソー的な発想と評するべきではなかろうか。



 これは哲学・神学議論の対象だろう。

 つまり、もし我々の祖先が「残忍で狡猾な個体」のみであれば、我々全ては「残忍で狡猾」以外の何ものでもない。友愛は発生し得ない。なぜなら我々はその本性からして歴史的に「残忍で狡猾」なのだから―というループが発生する。

 では我々に友愛的なものが発生しうる回路はどこに求められるか?





 とまあ、最初から我々は多様だったのと違うか、というのが穏当な回答じゃないかねえ、という。
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