メモの真偽に肯定的意見

(1)勝谷氏のブログより
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2006年7月21日
(略)今回明らかになったお言葉は正に今私たちが突きつけられながら立ち往生している大東亜戦争と終戦と戦争責任そして東京裁判を巡る歴史観に対する思想的硬直の「場」を突き動かせという「ご聖断」ではないのか。もちろんその論議はこのお言葉が真正なものかどうかという所から始めなくてはいけない
(略)私は今回の「スクープ」がこの時期に日経新聞から出たことを心から惜しむものである。(略)「支那朝鮮に言われて」ではなく「昭和天皇のお言葉らしきものが出てきたから」私たちは論議を始めるのだ。まさに「場」が動くのである。保守論壇と言われる人々こそ自らの思想硬直から脱せよ。それこそが忠であり義ではないか。

2006年07月25日
(略)こんな下らない新聞社に世論を誘導されて愚民が靖国参拝についてまんまと騙されている<次期首相の靖国参拝、反対60%/本社世論調査>日経を使ってこれを仕掛けた売国勢力の動きをほぼ私は把握できた。あの日の紙面にしたのは安倍晋三さんのマニフェストとでも言うべき『美しい国へ』の発売日というわかりやすさ(苦笑)。というのもメモの入手とその検証に日経は3カ月以上の時間をかけていたからだ。検証はかなり慎重に行われている。私の知る昭和史の専門家たちの中にもメモを見せられた方々がいるようだ。重要なのはメモ以外にも富田長官が遺したものの中に「富田日記」とでも言うべき本編があるということ。世に出れば昭和史を最後に断ずる超一級の資料であろう。この本編とメモのすり合わせは当然行われているわけであってその点でも「誰の発言か」という最終判断には若干の疑問の余地はあるにしてもメモそのものは真正であり文脈からは昭和天皇のご発言と見る識者が多数のようだ。しかし「だからどうした」というのが私の今の偽らざる心境ですね。ましてやメモを受けて即座に靖国参拝の是非の世論調査をする築地などの卑劣外道ぶりのわかりやすさよ。昭和天皇のお気持ちの一端がまた明らかにはなった。しかし「A級」という言葉がそのまま全てを指すのかすらわからない。今回また新たに私が知ったのは靖国神社の宮司と先帝それから輔弼にあたる方々との温度差は確かに相当あったということだ。とても書き切れないな。まあ腰を据えて目を見開き耳を澄ませることですな。


(2) cool!氏
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富田メモ、マスコミが真偽について一切調べようとしないのは、アレが本物だということを前もって知っていたから。 (略)マスコミの論調で不思議なのは、「天皇陛下の本心はA級戦犯合祀反対だった→A級戦犯分祠&首相参拝反対」というふうな流れになっているところ。


(3) 愛・蔵太の少し調べて書く日記
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記者会見「について」後日尋ねたメモと見るのが一番しっくりくる。メモの「”嫌だ”と云ったのは奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて」に対して、記者会見の当該部分は、「今の質問に対しては、何と言っても、大戦のことが一番厭な思い出であります。」が当てはまる。



(4) 愛・蔵太の少し調べて書く日記
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20,21日の初期報道について


(5)秦郁彦氏の意見ですが、証拠の検証ではありません
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312 名前:pon[sage] 投稿日:2006/07/30(日) 11:58:34 ID:0APUdzjU0
●  合祀の手順の説明を 秦郁彦(日本大学講師)
従来の推定を裏付ける第一級の歴史資料
靖国神社は天皇参拝の中断覚悟で決断

 日本経済新聞社が入手した故富田朝彦元宮内庁朝刊の日記とメモに、目を通す機会を得た。日記は1986年まで、メモ手帳は86年から昭和天皇が崩御される半年前の88年6月までで、両者は重複していない。
 日記は害して簡潔だが、メモは天皇の発病(87年9月)以降は病状を記録する意味もあってか詳しくなり、昭和天皇も信頼する富田氏に言い残しておきたいとの気持ちもあってか、自らさまざまな話題を取り上げ、秘話的なエピソードを含めて語っている。皇室の内情に触れた部分もあり、全面公開は無理だろう
 第一級の歴史資料であることはすぐに分かったが、この時期に公開することによる波及効果の大きさを思いやった。
 富田氏は天皇が亡くなられた直後の89年1月9日から数回、「亡き陛下をしのぶ」と題したエッセーを読売新聞夕刊に寄稿している。比べてみると、日記やメモを参照しつつ書かれたことは明らかだが、今回発表された靖国神社関連の話題への言及はない。
 さて、論議の的になっている富田メモの靖国部分の全文についてだが、97年に故徳川義寛侍従長の「侍従長の遺言 昭和天皇との50年」(注 岩井克己 聞き書き・解説 朝日新聞社刊)が刊行されて以来、他の関連証言もあって、天皇不参拝の理由がA級戦犯の合祀にあったことは研究者の間では定説になっていた。
徳川氏は松平永芳宮司とのやりとりを、「天皇の意を体して」とあからさまには書いていないものの、関係者や研究者はそのように読み取ってきた。

321 名前:pon[sage] 投稿日:2006/07/30(日) 12:00:35 ID:0APUdzjU0
>>312続き

 したがって、私は富田メモを読んでも格別の驚きはなく、「やはりそうだったか」との思いを深めると同時に「それが私の心だ」という昭和天皇発言の重みと言外に込められた哀切の情に打たれた。なぜか。
 応対した徳川氏がA級合祀に疑問を呈したところ、「『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた」(「侍従長の遺言」)という。また、当時の靖国神社広報課長の馬場久夫氏によると、「こういう方をおまつりすると、お上(天皇)のお参りはできませんよ」(21日付毎日新聞朝刊)と宮内庁の担当者から釘を刺されたという。
 つまり、当時の松平宮司は天皇の内意を知らされた時、今後の天皇参拝が不能となってもかまわないという覚悟のうえで合祀に踏み切ったことになる。それは「私は就任前から『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました」という松平氏独特の歴史観に発していた。
 しかも、合祀を期待していなかったはずの遺族(と本人)の事前了解もとらず、神社の職員に口止めしてこっそりまつったため、半年後に共同通信がスクープ報道するまで、国民も知らされていない。松平路線を継承しているかに見える現在の靖国神社は、当然の手順を踏まなかった理由を説明する責任があると考える。
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