現時点での見解(8/12 加筆)

正論が元駐タイ大使の岡崎氏の寄稿を掲載しました。そこで、85年4月28日に徳川氏の記者会見について言及していますが、氏自身が確認した訳では無さそうです。一方、8月3日の日経新聞の内容は、基本的に今までの説を大きくは越えていませんでしたが、85年4月28日に富田氏は少なくとも吹上御所には行ったらしいという事が明らかになりました。これは、昭和天皇自身が発言したという説を補強します。

しかし、新たな疑問点も多く生じてきています。8月3日に週刊新潮が「昭和天皇」富田メモは「世紀の大誤報」かという見出しで記事を書いています。以下にこの記事に関する2chのレスを示します。ここで大きなポイントは、日経新聞のずさんな検証体制が明らかになった事、そして25日の天皇記者会見は陛下の体調を考慮して15分だった事、さらに28日に徳川氏が出勤したらしい事だと思います。




気になるレスを2chで見つけました。これが本当なら、日経新聞の正当性が揺らぎます。

497 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/14(月) 02:53:27 ID:F8PHHDWk0
785 名前:  [sage] 投稿日:2006/08/14(月) 02:46:59
チャンネル桜の昨日の3時間討論で秦郁彦氏が天皇富田メモは本物だと主張。
「それならなぜ全文を発表しない」と突っ込まれ、「あれを全部発表すると
現皇太子妃の入内の是非が書かれているのでできない」と答えていました。

503 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/14(月) 03:47:25 ID:jhmjeroZ0
>>501
ふーん。8/3朝刊の富田氏のスケジュール表によると、富田氏の28日の予定は
10-11:40外務次官
11-12:言上(まるでかこんである)
16-17:(表記は4-5)皇太子と
とあるね。

昭和天皇とお会いしたときに取ったメモが1枚目
皇太子殿下とお会いしたときに取った未公開メモが2枚目

とすると、4枚目の記述が昭和天皇のお言葉を聴き、書き取ったものとすれば、富田氏は皇太子殿下と会ったあと、もう一度昭和天皇と謁見したことになるのかな? 日経の断定では言上のときに1枚目から4枚目が書かれた、と報道しているのだが。

秦氏の発言、かなり問題だと思うな。



288 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/05(土) 16:00:56 ID:Axvmgvmd0
言上とは質問・報告がある際に侍従を通じて天皇に奏上すること。
直接言上の場合はお召しに乗じてすること。

そういう仕組みにしたのは富田と徳川自身。
(富田長官以前は侍従にはからず言上した)

これは皇室担当記者にしたら常識。
ただし日経には皇室担当班自体ない。




219 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/08(火) 06:25:22 ID:a1j9ZMp40
>>218
多分、天皇が参拝をやめたのは、マスコミが騒ぎ出すのを恐れた
からでしょ。すると、別に三木発言説でも、A級戦犯合祀でも説明が
つく。また、昭和天皇がA級戦犯全員を不快に思ってなかったという
事も説明がつく。

さらに、新聞等のメディアがA級戦犯合祀説に拘るのは、結局自分達
に火花が飛んでくるのを避けようとしてると考えられる。




694 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/15(火) 00:20:12 ID:GYfdoqKX0
陛下がマッカーサーに述べられた内容

「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切
の責任はこの私にあります。
私の命においてすべてが行なわれました限り、日本に
はただ一人の戦犯もおりません。
絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されて
も、いつでも応ずるだけの覚悟はあります。」

さて日経の富田メモと比べてみようか・・・あれれ?




時事ブログ「グースの勿忘草」において筆跡鑑定を試みています。

その中でのコメントの一つを勝手に引用させてもらってすみません。

2006/8/8 19:13
これについては、問題のメモの画像をよく見ているうちに、大変なことに気が付きました。

問題のメモは、手帳に貼り付けられていない、ということです。

みんな、問題のメモは、なんとなく手帳に貼り付けられている、と思っていたら実はそうでなかった。日経の作戦勝ちですわ。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1715328

一枚目の画像では、問題のメモは一部が黒メモと重なっていますが、二枚目の画像では、問題のメモは黒メモと重なっていません。問題のメモが手帳に貼り付けられているのであれば、隣のメモと重なったり、重ならなかったりするわけがありません。つまりこれは、問題のメモは実は手帳の上に置いてあるだけだった、ということです。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1715328
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週刊新潮(8月10日号)

(1)2chのコピペを一部改変


1.徳川義眞(よしさね)氏(徳川侍従長のご長男)…「父の発言ににている」「…父は軍人が嫌いでした…」

2.東條由布子氏(東條閣下のお孫さん)…「陛下が富田メモのような事を言われる御方とはとても思えない…」

3.所功氏(京都産大・日本法制史)…陛下はA級戦犯というくくりかたをされるはずがない。他の確かな資料を見ても、昭和天皇は戦勝国の一方的な判決を容認しておられない。

4.神社本庁関係者…一般的には、陛下が神社に行かれることを“行幸”と言い、‥‥靖国神社は‥‥あくまで“行啓”。また、陛下ご自身が謙譲語である“参拝”という言葉を遣うのはおかしいし、陛下の“行く”というお言葉を富田氏が“行啓”でなく、“参拝”と表現するのもおかしい。

5.中西輝政氏(京大)…昭和天皇は軍人のことを股肱の臣といって、ことのほか親しく感じておられました。

6.元宮内庁職員…松平宮司の父親は宮内府の長でしたから、侍従職にあった徳川さんは、父親の存在をよく知っていた。親の心子知らずという表現は理解できる。“筑波がよくやった”という言い方も、筑波宮司は旧皇族なので徳川さんはよく知っていたと思う。

7.当時の宮内庁記者…8ヶ月後に崩御される陛下にとって、4月29日は、最後の誕生日。25日に陛下は記者会見をされ、予定されていた時間のほぼ半分の15分くらいで会見を切り上げた。前年に手術をされ、この時もすでに体調が相当悪かった。天皇誕生日に会見記事を出す予定だった各社は、陛下の真意や、お言葉の背景について、富田長官ら幹部にブリーフィングしてもらう。

8.八木秀次(高崎経済大)…親の心子知らず、などと非常に強い言い方は天皇にはそぐわず、むしろ松平が徳川家の家来みたいなものだったと考えると、徳川侍従長の方がそういう言い方をしてもおかしくない。

9.日経新聞社長室…「富田メモは今年5月に入手したものです。日記が10冊と手帳が二十数冊です。すべてに目を通して点検し歴史家などの意見も聞いて、検証を加えた上で報道しました。報道した発言が昭和天皇以外のものであることはあり得ません。」が、その具体的な検証方法を明らかにする様求めると「詳細については申し上げられません。取材の舞台裏をこと細かに説明すると言う事はしておりません。今後我々が必要と判断すれば、紙面で明らかにしていきます。」と、これを拒否。国民すべてが共有するべき歴史的な資料に対して、この理不尽な態度は信じがたい。

10.御厨貴氏(東大)…「私は、公開されたあの部分のメモしか見ていません。徳川さんの発言ではないかと言う人が居ることも承知していますが、それも憶測の上に憶測を重ねるだけです。本来、全部出して検証するのが歴史学ですが、それを日経はやる気がありませんね。少なくとも私はこの(天皇のものという)メモを本物と思っています。」

11.富田広士氏(富田氏のご長男)…報道を見る限り、父の日記や手帳には,歴史的な価値があると言われている。全部を公開するのは難しいにしても、信頼できるお立場の方に精査していただき、どこの部分を公開し、どこが駄目なのか決めていただいて、その上で公開すればいいのでは。

12.徳川侍従長の動向…4/13侍従職退官、4/26(火)侍従職参与に就任し、火、木出勤となる。28(木)は参与として初出勤。(宮内庁記者)

13.富田氏の動向…4/28(木)は富田氏が、記者たちのために陛下にお会いして改めて伺ったメモ、とされている。ただし、陛下のお具合が悪いので、侍従長から富田氏がお話を聞く、ということはありうる(宮内庁記者)。


(2)2chでのレス


648 名前:625[sage] 投稿日:2006/08/03(木) 03:51:46 ID:tmp2G74w0
週間新潮を読んで、大きな発見があった。それは、昭和天皇と徳川侍従長との意見の違い。陛下は股肱の臣として軍人をとても大切にしておられた。しかし、徳川侍従長は軍人が嫌いだった。終戦のときに、例の玉音放送のレコードを軍人が奪いに来て、それを渡さなかったために侍従長は殴られたらしい。あとで、殴った近衛兵がわびに茶釜をもってきたが、それを使うことはなく、今もその茶釜は使わずにあるそうだ。

これは陛下の発言ではないだろう。

一人の人間として、いかに国家間の戦争とはいえ、多くの人命を失ったご心痛は察するに余りある。さぞかし、靖国には親拝なさりたかったであろう。他国への配慮も大切ではあろうけれども、我々の象徴であった人の心もちも、やはり大切にしたいものだ。
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日経新聞8月3日

(1)記事要約


当日の富田メモは計4枚。一枚目の書き出しに「63.4.28 1117-1153(吹上)」とあり、富田氏が午前11時17分から同11時53分までの間、吹上御所で昭和天皇と会ったことが記されている。スケジュールを書き留めた別の手帳にも同日午前に言上と丸で囲んだ表記がある。メモ4枚のうち1、2枚目はこの年の3月に腸の手術を受けた昭和天皇の三女、鷹司和子さんの退院の見通しなど報告の内容の箇条書きとなっている。ついでこの日、最大の話題の天皇誕生日前の記者会見に話が移る。
冒頭に「PRESSとの会見」とある三枚目のメモには会見についての天皇の感想が生の言葉でつづられており、それが靖国神社のA級戦犯合祀に言及するきっかけとなった。二十九日の誕生日前の宮内記者会との会見は数日前に行われるのが通例で、八八年は二十五日に実施。昭和天皇は翌年一月に崩御したため最後の記者会見となった。

続けて八八年の会見について「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現した」「嫌だといったのは(当時の閣僚の名)の靖国発言 中国への言及に引っ掛けて言ったつもりである」などとある。とうじ、閣僚の発言に中国が反発したことがあり、これを気にかけていたことが伺える。

当時の一部報道によると、宮内庁の内部で打ちあわせた回答原案では「つらい思い出」と表現するよていだったが、天皇が「嫌な」と言い換えていた。その真意は定かではなかった。

これを受けて4枚目のメモで「前にもあったね」として過去にも首相の靖国公式参拝や数年前の閣僚の戦争に関する発言に触れている。この話の流れの中で、メモ後半部分に「私は或る時に・・・・私の心だ」などとする靖国不参拝の理由の述べた発言が記述されていたこの年の記者会見で「戦争の最大の原因は」と問われた天皇は[人物の批判になるので述べることは避けたい」と答えている。メモ4枚目の末尾に「関連質問 関係者もおり批判になるの意」とあり、この事実と符合している

この年の5月20日のメモにも「靖国のことは多く相当のものも知らぬ。長官が何らかの形でやって欲しい」とあるほか、86年7月23日付の日記で「靖国のこと、教科書問題などで言上しきりである」などの記述がある。これらの問題に昭和天皇が気にかけていたことが伺える。

富田氏のスケジュール手帳には一日ごとに、合った人たちの名がこまめに記されている。それによると、八八年四月二八日に富田氏が会ったのは午前中に外務次官と昭和天皇午後は皇太子(今の天皇陛下)、夜は新聞記者の取材を受けている。それ以外の名は一切記載されていない。


(3) 8月4日の日経新聞


779 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/06(日) 01:03:01 ID:5iaXFH5K0

富田氏の日記より抜粋 1982年8月30日 (日経新聞 2006/7/21 p.33)
 陛下と約90分。教科書問題に関連して韓国や中国へのお気持ち大正末期、昭和初期の事実をふまえてお話し下さる。白い霧が窓の外を渦巻いていた。一月半位でお目にかかったが、すっかり回復されておられる。

富田氏の日記より抜粋 1986年7月23日 (日経新聞 2006/7/21 p.33)
 このところ高松(宮)さんのこと、靖国のこと、教科書問題などでお召し言上しきりである。何故か那須へ共奉した夕、国際連盟脱退のこと、日米開戦前後のことなど、色々とお話を戴いた。東京はまだ暑いから十分に気をつけてねとのおいたわりの
お言葉と共に忘れがたい。

富田氏の日記より抜粋 1986年12月8日 (日経新聞 2006/7/21 p.33)
 四十五年を経た十二月八日。陛下とマッカーサーの記事が大きく紙面を飾るのみとなった。午後、陛下と約1時間、私の方からは南庭の冬、小春日和で、紅葉と常緑の木々の庭が眺められる。何かとお話申し上げたが、開戦の日のことはふれなかったし、陛下からもあえて何のお話もなかった。
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日本メディアの闇

(1)日経社員のインサイダー取引の捜査への目くらましか?


 日本経済新聞東京本社の男性社員による株のインサイダー取引問題で、東京地検特捜部は19日、証券取引法違反容疑で男性社員を近く取り調べる方針を固めたもようだ。
 関係者によると、男性社員は30代前半で、同本社広告局に勤務。今年2月までの数カ月間にわたり、企業が日経新聞に掲載を申し込んだ法定公告で株式分割などの内部情報を知った上、申し込んだ企業の関連株を公告掲載前に売買し、約3000万円の利益を上げた疑いが持たれている。
 株取引は数銘柄の短期売買だったとみられる。
掲載前の法定公告は広告局内の共用パソコンで管理され、男性社員はパスワードを使って内容を閲覧したとされる。また男性社員は本来、内容を知る業務には就いていなかった。
(共同)(2006年07月20日 02時02分)


(2)中国の対日工作?


202 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/25(火) 03:27:16 ID:v6qNc7+00
今回のメモ騒動は、これの一環か?
   ↓
581 名無しさん@6周年 New! 2006/07/25(火) 01:04:47 ID:k98IP4Dh0
【中国】対日工作会議「後継首相の靖国参拝を阻止するため、小泉首相を徹底的に攻撃し、孤立化させる」小泉首相に国家レベルで嫌がらせ

中国は、昨年12月20日に唐氏や一時帰任中の王毅駐日大使ら約10人が出席して北京市内で極秘に開いた「対日工作会議」で「後継首相の靖国参拝を阻止するため、小泉首相を徹底的に攻撃し、孤立化させる」との今年の対日基本方針を決定した。首相を「孤立化」させるため「政財界工作、民間交流などを幅広く展開する」ことも確認した。
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/photojournal/news/20060210k0000m010084000c.html



(3)日本メディアと中国共産党の接点 (恐ろしい話なので、このリンクを全部読むことを薦めます)

-------
中国はその数千年の動乱の歴史を通じて、我々日本人には想像もできないような凄まじい外交術を発達させてきた。その一つに、国際社会で「中国の友人」と呼ばれているものがある。

たとえば、中国がある国の将来性ある政治家なり、ジャーナリストなりに-仮にA氏と呼ぼう-狙いをつけたとする。A氏は中国に招待され、VIPとして「熱烈歓迎」を受ける。鼻高々で帰国したA氏は、以後、「何か中国に頼みたいことがあったら、自分に任せなさい、私には中国政府要人との太いパイプがあるから」、と触れ回る。実際にいくつかそういう実績を上げると、A氏は中国とのコネをバックに出世していく

A氏が実力者となると、今度は中国の方がいろいろ要求を出してくる。経済援助を増やして欲しい、とか、反台湾政策をとれ、等々である。A氏は自分の地位を守るためには、中国の意向に従わざるをえなくなる。(以下略)


(4)日経と中国の接点


10 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/07(月) 23:07:40 ID:OXSwRgGk0

◆日経の闇を突く! 第六弾 消された会談 8月2日 皇国史観研究会

今年の4月13日に日本経済新聞社の杉田亮毅社長と中国の国務委員である唐家旋が会談している。この席で次のようなやりとりがあった。

唐「われわれは『日本経済新聞』はじめ日本のメディアが現在の中日関係と中国の対日政策を日本国民が正しく認識するよう導き、中日関係の改善と発展のために積極的かつ建設的役割を果たすよう期待している。」

杉田「日中関係は現在、重要な時期にあり、日本経済新聞は両国民の理解増進、日中関係の改善のため積極的に努力したい」

 このやりとりは中華人民共和国駐日本大使館のサイトで確認できる。この他にも人民日報をはじめ、中国系メディアがこの会談を報じている。

13 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/07(月) 23:08:35 ID:7GwOImjB0
 しかも会談した場所が北京の釣魚台国賓館だ。我が国の天皇皇后両陛下、米国大統領など世界の国家元首も泊まる、まさに名の通り国賓を接遇するところだ。
しかも、物価が激安の中国にして、スイートルームの一泊が3998ドル(日本円にして45万円ぐらい)というから驚きだ。

 そこで日経の杉田社長は中国の唐家旋と会談したのだ。まさに国賓級の扱いといっていいだろう。とても個人ではこうはいかない。ちなみに5年前、総理大臣の靖国神社参拝を「やめなさいと厳命」した時、唐は外交部長だったが、いまは出世して国務委員になっている。

 中国共産党と中国の政治体制の序列で見れば、国家主席、総理、副総理、国務委員
と来るからどの程度の人物かは分かるだろう。それほどの地位にある者と会談してきたのだから大ニュースだ。

 ところが、日経の過去の記事を探しても、この会談が掲載されていない。ネット上でこの会談が話題に上っているところもあるが、それは全て中国メディアがソース(情報源)だった。肝心の日経がこの会談を報じていないのだ。

16 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/07(月) 23:09:21 ID:Pikj1Ami0
 中国大使館の報道では唐が杉田社長に、日本国民の認識を正しく導くように、と言っている。他の中国系メディアもニュアンスの多少の違いはあるが、同様の記事を書いている。おそらく、この部分が日本に伝われば批判されると日経は思ったのだろう。だから、この会談を無かったかのようにしているのだ。

 そして、この会談か訪中の期間に「日本国民の認識を正しく導くための手段」
が話し合われたのではないか。朝日新聞の「AERA」が、日経が「富田メモ」を入手したのは去年の9月と報じたところ、日経は真っ先に7月27日付の朝刊で「富田メモ 『アエラ』記事訂正 本社が申し入れ」と題した記事を載せ、「実際に日経が富田メモを入手したのは今年五月。」と書いた。

 「AERA」の記事に限らず、他にも日経の「富田メモ」報道に多くの疑惑が寄せられていた中で、なぜこのメモを入手した時期にだけムキになって反論したのか。
「去年の秋」に入手していたのと、「今年の5月」に入手していたのでは何が違うのか。

20 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/07(月) 23:10:14 ID:4s0lyUPD0
(略)5月にメモを入手していたのならば、この会談の際に杉田社長は「富田メモ」を知らなかった事になるが、去年の秋に入手していたのならば会談の際に「富田メモ」を知っていた可能性が強い。これは何を意味するのか。

 それはつまり、会談の席で杉田社長以下日経幹部達と唐家旋以下中国共産党幹部達の間で「富田メモ」を用いて「日本国民の認識を正しく導くため」の謀議がもたれた可能性があるということだ。(略)

955 : <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん : 2006/07/22(土) 21:25:28 ID:q4qEt8ie
杉田亮毅 日経新聞社社長の華麗なる外交

呉邦国・全国人民代表大会常務委員長 杉田亮毅社長と会見(2003/9/11)

中央宣伝部の劉雲山部長 杉田亮毅社長の一行と人民大会堂で会見(2004/11/23)

杉田社長 趙啓正・国務院新聞弁公室主任と朝食(人民中国 2005年2月号)

唐家セン国務委員、杉田日本経済新聞社長と会見(2006年)

2006年4月16日 日本経済新聞社説 「双方の努力で日中関係を安定させよう」
 (社説の締めに「日本の首相がA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社に
 参拝すべきでないことは繰り返すまでもない。」)

おまけ
財界主流は、“石原さんでは困る”と言っている」と杉田さん(2002年)


(5) その他



日経鮫島元専務(故人)と中国の接点
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本当に陛下が参拝を止めた理由がA級戦犯合祀なのか?

(1)三木首相参拝後の発言とその影響(wikipedia「靖国神社」)


歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していたが、1975年(昭和50年)、三木武夫首相(当時)は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言。同年を最後に、それまで隔年で行なわれていた天皇親拝が行なわれなくなったのは、この三木発言が原因であるとも言われている。(昭和天皇最後の参拝は三木首相参拝の3ヵ月後)



(2) Let's Blow! 毒吐き@てっく
(以下、要約させてもらいました。是非リンクを辿って全文を読んでください。)


「あれ以来」の「あれ」とは昭和50年11月20のご親拝を指すのではないか。

三木首相は昭和50年8月15日に靖国神社に参拝し、これを「私的参拝」だとした。

政府自民党は、当初、靖国神社の国家護持を目指して、昭和44年に「靖国神社法案」を提出していた。昭和49年の衆議院では一旦可決までされたが、参議院にて否決、廃案となった。そこで自民党は、「靖国神社法案」から「公式参拝」へと戦術を転換した。今回のメモ書きを検討するに当たっては、こういう当時の背景を抜きにして メモ ―すなわち一片の紙切れに書かれた覚書― だけを見て語っても結論を間違う恐れがある。

圧倒的に左翼的な言説がまかり通っていた中、<bf>11月21日、天皇皇后両陛下は靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者記念墓苑にご親拝を予定されていた。そして、悪いことに、ご親拝の前日の11月20日の参議院内閣委員会で日本社会党がこれを問題にした。11月20日の参議院内閣委員会で追及を受けた吉国一郎内閣法制局長官は、遂に、天皇の参拝は、「憲法第20条第3項の重大な問題になるという考え方である」と答えてしまった。ちなみに、「信教の自由」を謳った第20条の第3項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と記されている。


(3)解放同盟と旧社会党が推進した反天皇(制)運動


242 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/08/08(火) 13:05:25 ID:5GzTMuCH0
私が思うのは宮内庁はかなり嫌がっていたんではないかという事。
富田メモに関連して親拝がなされなくなった事の理由として漠然と三木総理の参拝問題が言われていますがむしろ解放同盟と旧社会党が推進した反天皇(制)運動の苛烈さにその一因を感じるのですがやはりどうしてもスルーされてしまう。
1975年7月の沖縄皇太子火炎瓶事件にしてもセクトの周辺には解同関係者の存在も指摘されていたし同時期、解放運動は近世体制起源説に差別の原因を見出したと反天皇(制)が大きな運動方針になっていたのですから宮内庁への攻撃もすさまじい物であったわけです。どうもこの辺りが現代史の検証テーマから抜け落ちていると思うのです。

同時期、旧社会党は解放同盟と共闘して反天皇(制)キャンペーンを全国規模で行っています。これについては旧社会党内でも反対意見が多数出て党内がギクシャクしています。しかしそこで圧倒的な政治力を持つ上田卓三氏らによって社会党は急激に極左化していきます。実際、解同はじめ国内過激派との連携はこの時期が最も強かったと思われます。(略)当時の公務員等はその苛烈な様からターゲットになる事を恐れていました。

元々「反天皇」という思想はコミンテルン日本支部である共産党から解放運動に持ち込まれたものであるが思想がそのまま戦後運動に同化していくのは1960年の綱領明文からでしょう。それが運動のテーゼとして確立していくのは1970年以降です。それまでは現実的に機能しなかったと思います。
こういった側面からも富田メモを検証しなくては実態などわかりようもないと思います。ポイントは「宮内庁」そのものでしょう。

http://ameblo.jp/disclo/entry-10015558824.html


(4) 中国の批判(2chより)


東京裁判で有罪とされた人々の合祀は1959年に始まり78年に14人のA級戦犯を合祀して終了した。この間、中国を含め海外から一切抗議はなかった。1979年、大平首相が、80年と81年鈴木首相が参拝したが、何の問題も引き起こさなかった。1982年教科書問題が日本を襲った当時も中国は教科書問題を取り上げるのみでA級戦犯の靖国合祀には一切言及しなかった。

中曽根首相が1983年、84年に靖国参拝した時に至るも何ら問題は生じなかった。つまり靖国問題はわずか16年前の1985年からなのである。戦後政治の総決算を掲げた中曽根首相は1984年に靖国神社問題についての諮問委員会を設置し、1985年8月15日に靖国を公人として参拝した。その直前の8月7日に朝日新聞は、中国は靖国問題について日本の動きを注視している、と報じた。当時の「人民日報」や新華社電を精査してもそのような中国の動きはまったく存在していない。

人民日報はこの朝日の記事を受けて8月11日付けで、日本国内に首相の靖国参拝に批判的な動きがあると報じた。ついに8月14日中国政府スポークスマンは中曽根首相の靖国参拝はアジアの隣人(中国人民)の感情を傷つけると正式な反対表明をするに至った。

かくして「無」から「有」が生じ、日中間で互いに相手国で靖国が斯様に論じられ報じられていると木霊のような遣り取りが始まった。


(5)wikipedia「靖国問題」


対外的には、1964年、日本社会党の佐々木更三委員長が毛沢東国家主席に「中国国民に多大の損害をもたらして申し訳ない」と挨拶したところ、「何も申し訳なく思うことはありませんよ。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではありませんか。皆さん、皇軍の力無しには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう」と発言したり、1978年のA級戦犯合祀時点での諸外国からの抗議も皆無だったなど比較的穏健な態度を保っていた。



(5) 勝谷氏のブログ(7/29)より、当時の戦犯赦免について


(略)1956年の段階で厚生省と靖国神社が緊密な連携をしつつ熱心に合祀の数を増やしていったと朝日は鬼の首をとったように書く。これを書いている記者はいくつなのだろう。恐らくその時代の空気に対する想像力など糞ほどもないんだろうね。独立を回復した当時の日本は誇りを取り戻すべく苦悶していた。そんな中で戦争犯罪受刑者の釈放を求める運動は国民的な盛り上がりを見せ何と4000万人の署名を集める。53年の衆議院での「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」は全会一致での可決である。時代の空気には狡猾に乗る朝日新聞のことだ。当時の紙面を少し探して見れば「合祀を急げ」なんて書いているんじゃないだろうね(笑)。靖国神社の存在そのものに手を突っ込み始めた勢力に注意しよう。


(7) 2chよりA級戦犯の罷免について


17 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/24(月) 11:22:09 ID:Cey+StLW0
つーか現在、日本に「A級戦犯」は存在しないって。理由は以下の通り。

1)昭和28年の衆院本会議で、社会党発案の「全戦犯の罷免」決議が全会一致で可決→国内で「戦犯」消滅。
2)サンフランシスコ講和条約第11条に基づき、戦勝国決議で昭和33年までに「A~C戦犯」が赦免→国外でも「戦犯」消滅。
3)ちなみにA級戦犯の重光葵は釈放後、鳩山内閣外相となり、国連加盟式典代表として国連から勲一等を授与→A級戦犯の名誉回復

~以上のことから、A~C級戦犯は既に「罷免」「赦免」され、国内的にも国際的にも存在してないのは明らか。
近代法では刑を犯した者が「刑期を終えれば」刑が消える。刑期を終えても
末代まで呪われ続けるのは「前近代的な慣習」(=中国の慣習)


更に言えば「極東軍事裁判」で敗戦国に「戦犯」を課したこと自体がおかしい。当時の国際法・先進国のどの法律にも「敗戦国」に「戦犯」を課した記述はない。


71 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/24(月) 11:34:11 ID:RG2Omfc20

>>48
>日本の新聞社は、口が裂けてもこの辺の事情は書かないだろうけどな。


● SF条約に批准していない中韓は、靖国問題に言及できない ●

( 略 )
日本と48カ国との間で交わしたサンフランシスコ平和条約には戦犯に関する取り決めが盛り込んである。何と書いてあるか。
この条約に署名、批准していない国々は戦犯について発言する権利はなく、
日本の立場を損ねたり害したりするような行動に出る資格はない
と記してある ( 第25条 )。

そして、この肝心な条約に、中華人民共和国、韓国、中華民国 ( 台湾 ) は署名も批准もしていない

つまり現在、日本との間でトラブルを抱えている中・韓いずれもが、国際条約の上でA級戦犯に関しては発言資格なしとされた国々なのである。しかも、今のところ資格ありとされる国からは、日本は一度もクレームを受けていない。

靖国をめぐるトラブルを解決するのは、心の問題や侵略の問題ではない。核心はサンフランシスコ平和条約にかかわる問題、の一点につきる。いまこそ日本政府は、この条文を根拠に国家として毅然たる声明書を発表すべきだ。

http://www.sankei.co.jp/news/060322/morning/seiron.htm
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富田朝彦元宮内庁長官のメモ(1ページ目)









★「問題メモ」の隣のページ★               ★「問題メモ」の1ページ目★                                     
皇太子と バラの間 4.26 1425-1450            63.4.28 1117-1153
○ 李●韓国大使                                    (吹上
      前任者着任前公表し○○云々      1 鷹司さん 5月10日ご退院とのこと
○礼宮  PV時  L.A     と為る               徳川 住居整備に
   (和田 勇(80)氏)                    お慶びを   1205 上野総理
   日系人引揚者ホーム 立寄時                    秘書官に依頼
                               3 礼宮 ◎陛下も承知し喜んでいる
 首席○○     角谷                           伝えて 欲しい
                                  ブラジルPV時 角谷前比大使
 英国修学    影井元伊大使                 首席に (角谷大使のこと)
                                   英国修学時(浩宮時の
○外務次官                            中川元ソ大使に相当)は
   賀陽所長のこと                     斉藤○  影井元伊大使(○○○時
  両参与の意見を求めて欲しい               大使の女 夫人○○ 随員に)
○ clsrity bawl時(mrs.abe)            2 先日 宮内記者クラブお会い
 浩宮                               クラブの感想について
◎大相撲夏場所行幸見合わせ                 、 沖縄
 決定の背景と経緯について             2’4.29.30   国民の慶じ



手帳スケジュール書込
○は解読不能、?はモザイクで伏せ字に

25(月) 14:00- ○○と
26(火) 10:00-11:00 辞令交付 12:00-13:00 ???? 14:00-15:00 皇太子と
27(水)?? 10:00- 血液検査 木曜午食会 14:00-15:00 信任状
28(木) 10:00-11:00 外務次官 11:00-12:00 (言上) 15:30-16:30 皇太子
29(金)天皇誕生日 11:00- ○○○祝○ 祝宴
30(土) ○祝○



1.目上の方に対して目前でメモを取ることはしない。記憶しておいて後から思い出しながら書いた。数字が不連続なのは、富田氏自身がメモの内容に関連してこなす任務の順位か。

2.貼り付けてあったメモの隣のページは4月26日のものだけど、真ん中あたりに(黒い手帳>(4)の左側の頁)
○外務次官          
  賀陽所長のこと
  両参与の意見を求めて欲しい
とあるから、参与は二人いて、徳川氏も参与。つまり、4/28日の朝外務次官に会う前後に富田氏と徳川氏が会っている?

3.「言上」のときに、4/26の礼宮様についての報告。報告できる人が同席していた可能性

4.もう一冊の手帳の26日の記載は、よく見ると「辞令交付」と「皇太子」の間にモザイクがかかっている。不都合な人物かプライバシーの関係?

5.肝心の25日の部分がトリミング。、28日の記載も「外務次官」「言上」「皇太子」の部分まではわかるが、記事ではその日の夜に新聞記者の取材を受けてるのに、その部分がトリミング。

63.4.28 1117-1153メモ作成の日時。終了後に書いた。
予定自国が11:13~57と半端になるはずがない。
(吹上 吹上御所にて
1 鷹司さん 5月10日ご退院とのこと
徳川 住居整備に
1205 上野総理秘書官に依頼
11:53に終って、上野治男内閣総理大臣秘書官にお礼を
伝言した。メモをとってすぐに行動したので1項。1,2
行目は言上前に用意し、3行目以降は言上後に追記。意
味は以下の通り:天皇陛下のご3女であらせられる鷹司
和子さんは、5月10日退院の運びとなった。かねてから
問題だった鷹司さんの退院後の住居(赤坂御用地)を
徳川さんが整備された事に対しお慶び(お祝い)を申
し上げる。それに対して、天皇陛下から「承知してい
る。整備してくれた総理に喜んでいる旨伝えて欲しい」
のお言葉を賜る。富田長官は言上後の12時5分に、当時
の内閣総理大臣竹下登へ伝えるためにその内閣総理大臣
秘書官上野治男に依頼(電話か)。
3 礼宮 ◎陛下も承知し喜んでいる
伝えて 欲しい
ブラジルPV時 角谷前比大使
首席に (角谷大使のこと)
英国修学時(浩宮時の
大使の女夫人
「PV」が単に「プライベート」の略。「角谷」「首席」「影井」など
はメモが張り付けてあったページの前の26日の記述に近
い文面がある。皇太子殿下の所で承った事を言上か。富
田長官が天皇陛下に明日の祝宴の席次を言上。記者会見
とは別項目。
2 先日 宮内記者クラブお会い
クラブの感想について
沖縄
4月25日の記者会見の件。
2’4.29.30   国民の慶び天皇誕生日の祝宴・行事は29,30日の二日間。


288 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/08/05(土) 16:00:56 ID:Axvmgvmd0
言上とは質問・報告がある際に侍従を通じて天皇に奏上すること。直接言上の場合はお召しに乗じてすること。
そういう仕組みにしたのは富田と徳川自身。(富田長官以前は侍従にはからず言上した)
これは皇室担当記者にしたら常識。ただし日経には皇室担当班自体ない。
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