20 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (蒟蒻ゼリー) 2006-07-21 11:46:53 個人的に、コレこそが最も妥当な説ではないかと思う。特に件のページは明らかに前ページ「Press会見」からの続きである(④と書かれていることからもはっきりしている)。陛下の発言ならば当時大々的に報じられるはず、というのも同意である。また、この陛下の発言(とされる)部分はPress会見とは関係ないとするのも無理がある。なぜなら、その直後に「早速質問」があるから。やはりPress会見の中での発言であり、それゆえ前述の理由をもって、陛下の言葉ではないと考える理由になる。 返信する 検証ありがとうございます (ぎん) 2006-07-21 21:23:50 これからもがんばってください。一点思うことあって。戦前はともかく。戦後は「朕」という大仰な一人称を、先帝陛下はお使いにならなかったのではと思います。「朕」。勅書で使われてますよね。いちばん、フォーマルな一人称。それを侍従との私的な会話にお使いになるか。ちょっと疑問です。なので「朕」じゃないから偽書というセンは、弱いかなあと思うんです。猪瀬直樹が80年代初頭に看破していました。先帝陛下は、いつも一人称を仰せにならない。「誕生日を祝ってくれて、ありがとう。これからも皆が幸せであることを、希望します」みたいな。意思と主体を徹底的に禁欲した言葉であると。そんな戦後の先帝陛下が、「朕」。こっちのほうが、すわりがわるい気がいたします。足を引っ張るようなこと申して恐縮ですが、御高考の一助にでもなれば、望外の冥加に存じます。 返信する Unknown (な) 2006-07-21 21:30:08 私は30台ですが、昭和天皇がご存命の時期に自らを朕と称している場面を何度もTVで見ています。子供心ながら、天皇というのは変な言葉を使うんだなといつも思っていました。なので、戦後の昭和天皇が朕を使わなかったというのは無いと思います。 返信する ↑そうだったんですか! (ぎん) 2006-07-21 21:46:17 いいこと知りました。原爆の投下について責任ありやと記者会見で問われたとき「私はそういう文学的なアヤのことはわかりかねます」 ^^^^みたいな応答をなさったのを、本で読んだことがありまして。へえ戦後ちかごろ陛下は「朕」を使われないんだ。さびしいな、とずっと思っていたんです。あれはメディアが民草向けにやさしい言葉に直してくれてたんですね。まったく余計なことをWありがとうございます。安心して日経を「疑う」ことが、これでできますw 返信する なんかおかしい (ぴーちく) 2006-07-22 05:03:09 >徳川侍従長の引退会見メモと仮定しというあたりで既に仮説の立て方が間違っている気がするんですけどね。これだと仮説というよりこじつけになっちゃいますよ。そもそも富田元宮内庁長官(宮内庁参与の時だとしても)が昭和天皇から直接聞き取った可能性を無視してしまったら、信憑性の検証にならないわけですからね。話の内容は昭和天皇の個人的な述懐でしょうから公式報道に乗らなかったのは当たり前でしょうし、徳川氏の侍従長在職期間は85年10月1日から88年4月13日です。 返信する Unknown (tech_innovation) 2006-07-22 05:07:24 いや、だから前後のつながりから個人的な述懐とは考えにくいという事です。前のページが無かったとしても、いくつかの矛盾点はありますが、前のページと合わせると、その矛盾は一気に増します。 返信する 矛盾って… (ぴーちく) 2006-07-22 06:19:42 そもそも手帳に書き留める人間にとって理解できればメモの役割は果たせるわけで、最初から他人が見てもわかるようにまとめられているとしたらそれこそ不自然だと思うんですけどね。前後のつながりの意味が理解できるとしたら、それは書き留めた本人だけで、第三者にはわかりえないと思いませんか。特に話し手が思うままに語っている時、前後に脈絡がないとしてもそれは話し手の気分の問題だし。うまくすっきりまとめられているメモだったとしたら逆にその方が信憑性を疑いますね、私なら。明らかに後から清書して書き直したと思われますから。 返信する ついでに (ぴーちく) 2006-07-22 07:08:40 88年4月28日という日付は、天皇誕生日の4月29日に先立って行われた記者会見のことと21日付の日経新聞にはありますね。メモの内容は記者会見の場での発言を記録したのではなく、記者会見の後に天皇陛下が感想を述べたものと書かれています。普通に考えると、記者会見の席上では語れなかった胸のうちを、富田氏に話したのではないか。こう考える方が適当な気がしますね。29日ではなく28日に天皇陛下との会見が行われたというのも図書館などで各紙の縮刷版を見れば確認できるでしょう。少なくとも徳川侍従長の退官は4月13日ですので、退官記者会見があったとしても4月28日では遅すぎます。 返信する 考えを修正→本物説へ移行 (蒟蒻ゼリー) 2006-07-22 07:28:02 以前は徳川発言説の可能性が高いと私も思っていたが、その考えは修正しなくてはならないと思うようになってる。理由は以下。・最後の「関係者もおり批判になるの点」は、この3日前の記者会見での昭和天皇の言葉「人物の批判とかそういうものが加わりますから」と一致する。http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060720ig15.htmhttp://egg.maidx.net/src/egg1021.jpg・メモ前ページの「云いたかった」などの過去形表現は、前項の示す、3日前の4月25日が昭和天皇最後の記者会見であり、今回の問題部分はその会見時のことを陛下と富田氏とで28日に述懐している時の発言である可能性を裏打ちするものである。・最後の「早速質問」は「関連質問」ではないかとの意見もあり、直後の「関係者」の字と比較しても確かにそうだとも思える。つまり「早速質問」という言葉使いを理由に、会見をリアルタイムで筆記したものという見解は根拠が薄く、前項や前々項と併せても、まず誤りであると思われる。以上の理由により、これは実際に昭和天皇の非公式発言のメモである可能性がかなり高まったと考える。意見、反論等あれば乞う。 返信する 朕を使うとき (ぴーちく) 2006-07-22 07:30:39 私は40代ですけど、昭和天皇が「朕」という呼称を使ったところを見た記憶はないですね。テレビでの記者会見でも大抵は私(わたくし)でした。昭和天皇独白録でも使われているのは「私」ですよね。そもそも人々の前で初めて天皇の肉声が放送されたのはあの「終戦の詔」ですけれど、そのときは確かに「朕」と称していましたね。 返信する 勉強になりました (けんご) 2006-07-22 16:14:19 勉強になりました。 返信する やはり徳川発言説が最有力 (yumishadow) 2006-07-24 21:55:22 やはり、徳川発言説が最有力と考える。このメモは、[1]昨年の天長節慣例会見の裏話についてのメモ[2]戦争について「嫌な思い」を述べたことについての説明に関するメモ[4]靖国神社参拝についての考えについてのメモから構成されている。これらの話を語ったと考えられるのに最も相応しい人物、それは、徳川元侍従長である。[1]について、徳川氏が侍従長に在任中のことであり、昨年の天長節会見について語るのは自然なことである。[2]について、徳川氏の勇退日4月23日に奥野国土庁長官の発言があり、徳川氏は靖国に関するマスコミ各社の取材を受けている。徳川氏の思想信条を考えれば、そこで、戦争に関する「嫌な思い」を述べたというのは自然なことである。[4]について、ネットで広く言われているように、徳川氏は靖国神社について、このメモと全く同じ考えを持っている。以上のことから、このメモは、富田長官が28日(長官会見日)に、勇退後も4月末日まで嘱託職として勤務していた徳川氏と会見した際の取材メモである可能性が高いと考える。このように考えて、矛盾はない。一方、昭和天皇の話を富田長官が直接メモしたものとするには、問題点が多すぎる。第一に、富田長官が28日に昭和天皇と拝謁したとの記録はない。第二に、メモには「余り閣僚も知らず そうですかが多い」との添え書きがあるが、富田長官が昭和天皇に対してこのような形容をするはずはない。また、事実として、昭和天皇が閣僚を知らなかったとは考えられない。第三に、昭和天皇の発言と考えるには内容的に矛盾が多すぎる。筑波宮司の時代に、既にA級戦犯合祀が決定されていた。このことは昭和天皇に逐一報告されていた。さらに、独白録などから判断しても、昭和天皇がA級戦犯を一くくりにして批判するとは考えにくい。以上より、このメモは、4月28日に富田長官が徳川元侍従長に取材した際のメモであり、この中にある「私」とは、徳川氏のことであると考えられる。 返信する なんか違う気が (ぴーちく) 2006-07-24 23:35:33 >昨年の天長節慣例会見の裏話についてのメモ88年4月25日の会見についての話っていうのが有力視されてますよね。どうして「昨年」のことになっちゃうんでしょう。それだと、徳川侍従長が在職中の時期に無理やり合わせた印象をもたれませんか。>徳川氏の思想信条を考えれば、そこで、戦争>に関する「嫌な思い」を述べたというのは>自然なことである。陛下自身が25日の会見で記者の質問に対し「嫌な思い」との表現で回答していたことは既に明らかですので、徳川侍従長の言葉とするのは無理があります。>徳川氏は靖国神社について、このメモと全く>同じ考えを持っている。徳川氏の考えは基本的に昭和天皇が徳川氏に語ったことを代弁してのものですから、これを理由に富田氏が昭和天皇から直接聞いた可能性を否定することはできませんよ。両者とも直接陛下から気持ちを聞くことのできる立場にいたわけですから。>富田長官が28日に昭和天皇と拝謁したと>の記録はない。外部の訪問客とか長官以下のもっと下の役職ならともかく、宮内庁長官ですからね。記録がなくても不思議じゃないと思いますが。>メモには「余り閣僚も知らず そうですか>が多い」との添え書きがあるがこの部分が何を指すかはわかりませんが、この日の内容は記者会見での感想ということですから、昭和天皇が取材にきた記者に関して述べたのではないですかね。想像ですけれど。>筑波宮司の時代に、既にA級戦犯合祀が>決定されていた。このことは昭和天皇に>逐一報告されていた。決定したのは靖国崇敬者総代会です。筑波宮司が合祀を決定したわけではなく、総代会の決定に反して筑波宮司は合祀を止めていた。それを松平宮司が合祀をしてしまったために、「親の心子知らず」と非難されたわけでしょう。そういう関連から読むと、昭和天皇の話と考えて何ら矛盾しないと思いますよ。徳川発言説を最有力とおっしゃってますが、依然として最有力なのは「昭和天皇」ですよ。次に有力な人としてなら、徳川侍従長という可能性はあるでしょう。 返信する やはり徳川発言説が最有力(追加) (yumishadow) 2006-07-25 01:18:58 >どうして「昨年」のことになっちゃうんでしょう。解読された文章を見る限り、昨年の会見のことを言っている。(下)28日のメモなので、昭和天皇の発言ならば、まずは直近の25日の会見の話題から始まるのが自然なはずだが。xPressとの会見 昨年は(1)高松薨去間もないときで 心も重かった(2)メモで返答したのでつく していたと思う(3)4.29は吐瀉したがその前で やはり体調が充分でなかった それで長官に今年はの記者の 印象があったのであろう=(2)については記者も申しておりました>「嫌な思い」徳川侍従長の言葉とするのは無理があります。徳川氏も奥野発言後の、靖国神社についてのマスコミの取材に対して、戦争に対する「嫌な思い」を述べただろうと想像され、富田氏との会見の際にその説明をしたとすれば矛盾はない。>徳川氏の考えは基本的に昭和天皇が徳川氏に語ったことを代弁まさに、そうであるかどうかが問題。>両者とも直接陛下から気持ちを聞くことのできる立場徳川侍従長はともかく、警察官僚から天下りの富田長官にはこのような危険な政治的発言をしないのではと思われる。実際、日本経済新聞も、「その日の予定、出来事が小さな文字でびっしりと書き込まれている 」にもかかわらず、「天皇の言葉を詳しく書いた部分はほとんどない 」と書いている。実際には富田長官は昭和天皇と話す機会が多くはなかったのではなかろうか。その僅かな会話のうちの1つががそんな危険な会話であったというのは信じ難い。 返信する なるほど (ぴーちく) 2006-07-25 01:41:13 >直近の25日の会見の話題から始まるのが自然なはず昨年の会見のことに触れたからと言って、全体が昨年の記者会見の話だった、という結論にはならないと思いますよ。「今年はの」という一語が挿入されていますから、今年の会見との関連で触れただけではないでしょうか。>述べただろうと想像され25日の記者会見で昭和天皇は「嫌な気持ち」という表現を使った事実がある以上、想像した事柄の方を優先的に解釈に取り入れるのは無理があるんでは。>実際には富田長官は昭和天皇と話す機会が>多くはなかったのではなかろうか。日経新聞の特集コラムを見る限り、4.28のメモ以外に昭和天皇と様々な会話を交わされていることが理解できます。むしろ日常的に直接会話する機会は多かったと考えるべきでしょう。天皇の言葉を詳しく書いた部分がない、というのは、それが予定や出来事のように自分だけでまとめられるのと違って「聞き取り」によるものだからでしょうね。要点だけを記録し、会話全体を詳細に記録したりはしないのが普通でしょう。特に富田氏は新聞記者とは違いますから、記者がやるように記述する必要がなかったでしょうし。 返信する 会見日時 (まさ) 2006-08-03 15:35:50 http://www.sankei.co.jp/news/060802/morning/seiron.htm4月28日に徳川侍従長の会見が行われています。確実になりましたね 返信する 日経も (ぴーちく) 2006-08-03 17:41:11 まささんの紹介になった記事ですが、岡崎氏自身「私自身が確かめたわけではなく、ひとから聞いた話」と断っておられますから確信はもっていないんでしょう。少なくとも徳川侍従長の引退記者会見は4月12日に行われているというのは確実のようですが。4月28日に会見があったとすれば、それらしい記事が未だにどこからも出ていないのは変でしょう。今日の日経新聞の社会面に掲載された記事によると、メモの1ページ目の画像が掲載され、一緒にスケジュールの書き込まれたページもありました。メモの冒頭には「63.4.28 1117-1153 (吹上)」と日時・場所が書かれ、スケジュールの4月28日のところには「言上」と書かれており、富田長官が昭和天皇とお会いしていたのは確実のようです。 返信する 徳川侍従長説 (yumishadow) 2006-08-03 22:52:32 どうやら、新潮や日経の記事によって、ほぼ徳川侍従長説が固まったと考えられる。28日について時系列的に考えると、28日に富田氏は吹上御所に行き、昭和天皇に(あるいは、徳川参与や新侍従長を通して)「言上」した。当時の昭和天皇の体調を考えた場合、直接会見するのでなく、徳川参与などを通して、というのが自然かも知れない。日経記事「鷹司さん 5月10日ご退院とのこと 徳川 住居整備にお慶びを」から、28日に富田氏は徳川氏と会い、鷹司さんの状況の報告を受けた。その後、28日の自分の記者会見のため、メモを作成した(「単純な復古ではないとも」まで)。富田氏の会見において、立ち会った徳川氏が、補足説明に関連して自らの考えを述べた(これが問題の発言内容)。記者たちは閣僚も知らず、そうですかと言うだけだった。また、松平などの個人への批判があったため、問題だという意見を言う記者もいた。記者たちには、発言内容が徳川氏の個人の考えということが分かっていたので、記事にはしなかった。こんなところか。 返信する Unknown (take) 2006-08-05 18:23:04 http://sky.ap.teacup.com/deep/こんなのもありますよ一応2chにも張っときました 返信する そうなると… (ぴーちく) 2006-08-05 19:31:24 >その後、28日の自分の記者会見のため、メモを作成した(「単純な復古ではないとも」まで)。>富田氏の会見において、立ち会った徳川氏が、補足説明に関連して自らの考えを述べた徳川侍従長説は、28日に富田長官と徳川侍従長による記者会見があった、という点を前提にして考えられている場合が多いですが、記者会見をした以上、その記事は29日頃には新聞各紙に掲載されているはずですよね。その推測は随分前から出ていますが、それらしい記事が示されたことがなく、実際に記者会見があったという確証が得られていません。少なくとも新聞の縮刷版を確認すればすぐにわかるはずですから、ここが明確にならないと、徳川侍従長発言説は信憑性を全く持たないんですね。それと、少なくとも宮内庁長官と侍従職参与の合同会見が、報道各社の独断で記事掲載されないなどということはありえません。どうでもいい市民団体の代表の記者会見とはわけが違いますので。それと「言上」というのは侍従長に対して用いられる言葉ではないでしょう。宮内庁長官より上の地位にある方に対して使う言葉ですから、これは昭和天皇しかいないと思いますよ。 返信する コメントをもっと見る 規約違反等の連絡
陛下の発言ならば当時大々的に報じられるはず、というのも同意である。
また、この陛下の発言(とされる)部分はPress会見とは関係ないとするのも無理がある。なぜなら、その直後に「早速質問」があるから。
やはりPress会見の中での発言であり、それゆえ前述の理由をもって、陛下の言葉ではないと考える理由になる。
一点思うことあって。
戦前はともかく。戦後は「朕」という大仰な
一人称を、先帝陛下はお使いにならなかった
のではと思います。
「朕」。勅書で使われてますよね。いちばん、
フォーマルな一人称。それを侍従との私的な
会話にお使いになるか。ちょっと疑問です。
なので「朕」じゃないから偽書というセンは、
弱いかなあと思うんです。
猪瀬直樹が80年代初頭に看破していました。
先帝陛下は、いつも一人称を仰せにならない。
「誕生日を祝ってくれて、ありがとう。これか
らも皆が幸せであることを、希望します」
みたいな。意思と主体を徹底的に禁欲した
言葉であると。そんな戦後の先帝陛下が、
「朕」。こっちのほうが、すわりがわるい
気がいたします。
足を引っ張るようなこと申して恐縮ですが、
御高考の一助にでもなれば、望外の冥加に
存じます。
子供心ながら、天皇というのは変な言葉を使うんだなといつも思っていました。
なので、戦後の昭和天皇が朕を使わなかったというのは無いと思います。
問われたとき
「私はそういう文学的なアヤのことはわかりかねます」
^^^^
みたいな応答をなさったのを、本で読んだことがありまして。
へえ戦後ちかごろ陛下は「朕」を使われないんだ。さびしいな、
とずっと思っていたんです。あれはメディアが民草向けに
やさしい言葉に直してくれてたんですね。
まったく余計なことをW
ありがとうございます。安心して日経を「疑う」ことが、
これでできますw
というあたりで既に仮説の立て方が間違っている気がするんですけどね。これだと仮説というよりこじつけになっちゃいますよ。そもそも富田元宮内庁長官(宮内庁参与の時だとしても)が昭和天皇から直接聞き取った可能性を無視してしまったら、信憑性の検証にならないわけですからね。
話の内容は昭和天皇の個人的な述懐でしょうから公式報道に乗らなかったのは当たり前でしょうし、徳川氏の侍従長在職期間は85年10月1日から88年4月13日です。
前後のつながりの意味が理解できるとしたら、それは書き留めた本人だけで、第三者にはわかりえないと思いませんか。特に話し手が思うままに語っている時、前後に脈絡がないとしてもそれは話し手の気分の問題だし。
うまくすっきりまとめられているメモだったとしたら逆にその方が信憑性を疑いますね、私なら。明らかに後から清書して書き直したと思われますから。
普通に考えると、記者会見の席上では語れなかった胸のうちを、富田氏に話したのではないか。こう考える方が適当な気がしますね。29日ではなく28日に天皇陛下との会見が行われたというのも図書館などで各紙の縮刷版を見れば確認できるでしょう。少なくとも徳川侍従長の退官は4月13日ですので、退官記者会見があったとしても4月28日では遅すぎます。
・最後の「関係者もおり批判になるの点」は、この3日前の記者会見での昭和天皇の言葉「人物の批判とかそういうものが加わりますから」と一致する。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20060720ig15.htm
http://egg.maidx.net/src/egg1021.jpg
・メモ前ページの「云いたかった」などの過去形表現は、前項の示す、3日前の4月25日が昭和天皇最後の記者会見であり、今回の問題部分はその会見時のことを陛下と富田氏とで28日に述懐している時の発言である可能性を裏打ちするものである。
・最後の「早速質問」は「関連質問」ではないかとの意見もあり、直後の「関係者」の字と比較しても確かにそうだとも思える。つまり「早速質問」という言葉使いを理由に、会見をリアルタイムで筆記したものという見解は根拠が薄く、前項や前々項と併せても、まず誤りであると思われる。
以上の理由により、これは実際に昭和天皇の非公式発言のメモである可能性がかなり高まったと考える。
意見、反論等あれば乞う。
そもそも人々の前で初めて天皇の肉声が放送されたのはあの「終戦の詔」ですけれど、そのときは確かに「朕」と称していましたね。