四
志田川雪江の死亡診断名は心筋梗塞後の心破裂とされた。心室中隔穿孔で心タンポナーデを起こして急死したと思われる。しかし穿孔部を閉鎖する手術をしていれば助かっていたのかも知れなかった。心タンポナーデとは、心膜内に血液が溜まり、心臓の拍動が出来なくなった状態で、心拍出量の減少した状態を言った。要するに血液を心臓から送ることが出来なくなって呼吸停止になったと思われる。
『直ぐ手術をしていれば助かったかも知れない』と、医者は言った。そして、逡巡していたようだったが、『それに、お腹の中には幼い命が芽生えていた』と付け足した。最後に言った医者の言葉が昭生の心のなか深く残っていた。
告別式が終わり、弔意客が引き上げ、知人が帰り、そして係累が帰っていった。静まり返った部屋に昭生一人が残された。為す統べなく簡単な身支度を済ませると深夜マンションを後にした。行き場など無かったが一人で居ることに耐えられなかった。雪江が死んだと言う事実は変えようがなく、死に追いやったのは自分が帰らなかった為であり、昭生に理解出来たことはそれだけだった。車の中で寝泊まりしながら西伊豆まで来ていた。海を眺めながら、内面に拡がる虚無感に支配されていた。数日間西伊豆で過ごし、そして海を離れた。
山梨県の北麓に拡がる森林地帯、小海線の清里駅から西に五、六キロ離れた所に通年利用できる貸別荘がある。近くには幾つかのスキー場が有り時節柄若者達で混み合っていた。しかし鬱蒼とした唐松林に囲まれた別荘周辺は、八ヶ岳からの風花を運び、日中晴れていても朝夕冷え込み厳しい冬を感じさせた。此処に来てから二ヶ月が過ぎていた。西伊豆を離れたことは覚えていたが、茫然自失のままその間の記憶を失っていた。しかし幾つかの情景は影絵のように残っていた。唯、具体的な事柄になると確証は無かった。残されている何枚かの領収書や、伝票の日付を見て日々が過ぎたことを知った。
会社には休職願いを出していた。仕事も遣りっ放しのままだったが、現在の昭生にとって論理的に処理出来る状態では無かった。葬儀後一度もマンションに帰ることは無く親しい人にも会っていなかった。新聞を読むことも、テレビを観ることも、ラジオを聴くこともなかった。周囲の情況を理解せず、社会から隔絶されたような厭世観の漂う生活を続けていた。
昭生は暮れて行く林間を眺めていた。視野の向こうに何も映ることはなく悔恨だけが堂々巡りしていた。しかし外界から遮断され、冬の厳しさに耐えることで心の平常さを保とうとしていた。
【・・・何故、雪江の魂の叫びを聞くことが出来なかったのか、『帰ってきて、早く』と、そう叫んでいた。あの時、直ぐ帰っていれば死ぬことはなかった。仕事は中途で止めることが出来た。信頼出来る矢崎が一緒だった。彼奴に後のことを頼み現場を離れることが出来た。雪江に必要だったのは俺であり、他に頼る人は誰もいなかった。二日間暗いベッドの中で、痛みに耐え、苦しみながら俺の帰りを待っていた。これまでにも辛いことや苦しいことがあった筈である。しかし電話を掛けてくることなど滅多になかった。たった一度きり、望みを託して、助けを求めてきたのに、俺は仕事を優先させていた。俺は、俺自身の生きることへ優柔不断さ、感覚として捉えることの出来ない先見性のなさ、的確な行動を躊躇う人間性の欠如、そして、何よりも愛することの深遠さを失っていた。雪江、独り寂しく苦しかっただろう・・・】
(貴方・・・ただいま、遅くなってご免なさい)
(お帰り、こっちにおいで!)
(直ぐ近くで待っていたのに、先に行ってしまうんだもの、いけない人ね)
(雪江が何処に居たのか分からなかった。それに、仕事があって、今日中に仕上げたかった)
(終わったの?)
(少し残っている。でも、明日も頑張るよ)
(最近、身体の調子が良くないの・・・)
(無理が重なったのだろう、少し休むと良い)
(昨日もベッドで横になっていた。そして、貴方と過ごした日々のことを考えていた。楽しいことが沢山あって、とっても嬉しかった)
(もう会えないような言い方だよ)
(だって、私は死んでしまった。二度と貴方に会うことはない)
(死ぬ筈がない。そんな言い方は止めな!)
(いいえ、貴方はそのことを受け入れなくてはならない)
(大丈夫だよ、雪江の身体のことは一番良く知っている)
(そうね、貴方の雪江だもの。でも、出張から早く帰ってきて!貴方の居ない部屋で待っているは辛い)
(そう言えば、出張している間に雪江が亡くなったと誰かが言っていた。しかしそんなことが有る筈がない。早く帰るから待っているんだよ)
(いいえ、本当のことよ)
(雪江の言っていることが良く分からない)
(私のことを大切にしてくれた人は貴方しかいない。貴方の優しさに、力強さに、温かさに触れることが出来た。そう、貴方と過ごした日々は掛け替えのないときだった)
(雪江、待っているんだよ。もう直ぐ、もう直ぐ着く)
(貴方、夢を見ているの?ねえ、二人が空港で出会ったとき、私のこと慌て者だと思ったでしょ?)
(可愛い人だと思った)
(嘘付きは嫌い)
(ジェット機の小さな窓から暗闇を眺めていた。その時、雪江のような恋人が出来れば良いなと思った)
(本当?・・・嬉しい!・・・私も貴方のことを考えていた)
(でも、再会することはないと思っていた。東京の街を歩いても、地方を歩いても、同じ人に二度と巡り会うことはない)
(そうね、色んな人が通り過ぎ、そして過去になる。そのことを寂しいと感じることもある。でも、人間は後戻りすることのない時間と空間を生きている・・・ねえ貴方、あの時、その日の内に仕事があったとしても、屹度、搭乗券を譲ってくれたでしょ?)
(そんなに優しくないよ)
(羽田に居たの?)
(そうだよ)
(優しい貴方が好きだった)
深夜になっていた。眠っていたのか醒めていたのか分からなかった。脈絡のない夢を見ていたのだろう、朦朧とした意識のなかから雪江は忽然と消えていた。
二月の初旬、北風の吹き荒れる日の午後だった。ロッキングチェアーに掛け、昭生は窓外に目を向けていたが、呼び鈴の音に振り向き矢崎伸吾が訪ねてきたことを知った。
「先輩、心配していました」
「どうして此処を?」
「実家のお母様に聞きました」
「そうか、心配を懸けて申し訳なかった」
「梓湖の工事も順調に進んでいます」
「途中で放り出したままになっていた。これからは矢崎君が中心になって進めて貰いたい」
「何度電話を掛けてもマンションにいないし、会社には休職届が出ていることを知り驚きました。早くお会いしなければと思っていたのですが、済みませんでした」
「暫く休もうと思っている」
「先輩の指示がないと工事が心配です」
「何を言っている。矢崎君一人で十分出来るだろう、会社にもそう言ってある」
と、言った声も力強くなかった。
「いつ頃から出社して戴けますか?」
「考えてはいるが体調も今のところ良くない。このままでは会社に迷惑を掛けるばかりで・・・いっそ辞めようかと考えていた」
「何を仰るのですか・・・」
「これ以上休む訳にもいかないだろう。然りとて現在の状態では先が見えてこない」
「河川設計は先輩以外出来ないと思います」
「有り難う、頑張ろうとはしているが・・・」
「奥さんのことが?」
「あの時、矢崎君の言うことを聞いて帰っていれば良かった」
「早く仕事に戻って元気を出して下さい」
「札幌の工事のことも気に懸かっていた。出来れば後のことは君に任せたい。札幌支所の伊藤友矩君に連絡を取ってくれないか、彼は仕事熱心で色々手伝ってくれるだろう、信頼できる相手だ」
「分かりました。今日此処に来たのは会社からの指示もありました。長野から戻って、社長室に呼ばれ、梓湖での志田川さんのことを訊かれました。社長も部長も心配をなされ、暫く待つから出て来るようにと言っておられます」
「申し訳ないと思っている。宜しく言っておいてくれ」
「分かりました。それでは失礼します」
矢崎伸吾は夕暮れの高原を下りて行った。半日という時間のずれが人生の歯車を狂わせていた。しかし、その時間は取り戻せることの出来る時間ではなかった。
マンションに帰り着いたとき、雪江の頬はまだ微かな温もりを残していた。通夜が始まるまでの間、柩に寄り添い離れられなかった。死亡届も、死体火葬許可証も破り捨てていた。死後硬直した雪江の見開くことのない瞼と、頬の冷たさは、記憶からも掌からも消えることはなかった。
窓を開けると凍て付くような冷たい風が流れ込み、林立した林の間から外灯に乱反射した雪が舞っていた。そして、静まり返った虚空に耐え切れなくなった枝の雪が落ち、カサカサと泣いていた。