オルガン同好会員のネタ帳

オルガンなのにあえて近現代志向

ランディーニ:愛よ、この乙女を

2017年12月06日 | オルガン音楽
オルガンによる演奏

 ランディーニの作品群は、旋律に重きを置いた14世紀イタリアの音楽、いわゆるトレチェント音楽に属します。美しい旋律を特徴とするトレチェント音楽の中でも、ランディーニの作品は傑出しており、この時代の典型的な終止形は「ランディーニ終止」と呼ばれるほどです(今回の「愛よ、この乙女を」にも用いられます)。
 トレチェントのもうひとつの特徴として、ポリフォニーがあります。多声音楽の文化はフランスより導入されたものですが、イタリアならではの歌謡性が加わり、ランディーニの時代に最盛期を迎えたのです。トレチェントからルネサンス初期にかけては、ポリフォニーの可能性が徹底的に追求された時期であるともいえます。しかし、複雑に入り組んだ複数の旋律を同時に追うのはなかなかむずかしく、ややとっつきにくさを感じるかもしれません。
中世の音楽もルネサンス以降の音楽も、1オクターブに12個の音があるのは変わりません。しかし、中世の調律法と、現在の平均律による調律法にはかなりの違いがあります。当時、周波数測定器に基づいた調律法があるはずもなく、専ら比率に基づいて調律を行っていました。弦楽器なら弦の長さ、管楽器なら管の長さの比率を基にチューニングをするわけです。
 弦や管の長さを2/3にすると、純正五度上の音(ドに対するソ)が得られ、1/2倍すると、純正八度(ドに対する高いド)が得られます。逆数を取って3/2にすると五度下(ドに対する低いファ)、2倍すると八度下(低いド)が得られます。
 これらを用いて、5度上の音を順番に取り、適宜オクターブを下げて折り返すことにより、

ド→(2/3)→ソ→(2/3)→(2/1)→レ→(2/3)→ラ→(2/3)→(2/1)→ミ→ …

という順序で各音をチューニングしていくことができます。
しかしこれではいつまでもファが出てこないので、5度下を取ることにより、

ド→(3/2)→(1/2)→ファ→(3/2)→(1/2)→シ ♭ → (3/2) → ミ ♭ → (3/2) → (1/2) → ラ ♭ →  …

という順序で残りの音をチューニングします。この調律をピタゴラス音律と呼びます。
 この音律の強みは、シンプルな比率によってすべての音の高さを定められることです。音楽は理科と同じく、世界を理解するための学問とみなされていたため、美しい比率によって記述できるピタゴラス音律は広く支持されたのです。ピタゴラス音律はギリシャにおける唯一無二の旋律ではなく、実際の歌曲で使われていた音律とは差異がありました。このような既存の音律について、アリストクセノスが理論化を試みましたが、あまり支持を集めませんでした。人間の感性に根拠を求める点が弱点とみなされたのです。
 ピタゴラス音律は長きにわたって用いられ続けましたが、中世末期にイギリスから3度のハーモニーが導入されたことで致命的な問題が発生します。ピタゴラス音律の3度は美しく響かないのです。上の手順で得られるドとミの比率は64/81という値になります。これは単純な比率とはいえません。ピタゴラス音律のドミソは不協和音なのです。
 そこで、3度音程を4/5(=64/80)で取り直すことにより問題を解消した純正律が登場します。純正律は、ピタゴラス音律において美しく響かない3度と6度の音をより単純な比率になるように補正し、和音による音楽の可能性を切り開きました。これが中世音楽とルネサンス音楽との分岐点になりました。三和音が協和音として認められたことで、音楽は我々にとって馴染みのある形へと姿を変えていったのです。

ファ
ピタゴラス音律1/19/881/644/33/227/16243/1282/1
純正律1/19/85/44/33/25/315/82/1

 各音律の各音の周波数比。太字の音がより単純な比率に変更されている。周波数比は長さの比の逆数になる。

 純正律は西洋音楽の転換に大きな役割を果たしましたが、実用上は色々な問題がありました。そのため、より扱いやすい音律として中全音律、そして現代の平均律が考案されました。
 現代において古典音楽を演奏する際には、平均律を用いつつ、和音が純正律のバランスになるように随時微調整(3度の音を13.7セント下げる、など)するのが一般的です。なお、バッハの作品に平均律クラヴィーア曲集がありますが、バッハの調律は平均律ではなく、中全音律をベースにした独自のものであったと思われます。
 3度が協和音にならない音楽は、一見とても貧しい音楽であるように思えます。ですが実際の中世音楽は、旋律の魅力に富み、複雑なリズムと対位法に彩られています。それは、様々な楽器の音色をブレンドして豊穣な音響を構成していく古典的西洋音楽とは別の方向の音楽――東洋音楽にも近い音楽――の可能性を示しています。
 そんな中世の音楽は、残響の乏しい900番教室のオルガンにとって魅力的な音楽です。パイプオルガンの音楽は残響を前提に作られているので、ここでは楽曲が本来想定していた音が得られないのです。しかし、中世の音楽は、このような環境でこそ本来の音が得られます。「愛よ、この乙女を」は、3つの声部が頻繁に交差しています。これは、各声部がはっきり分かれて聞こえるからこそ可能な音楽です。それぞれの声部が混ざり合ってしまうと、全体がひとつの和声進行になってしまい、それぞれの声部の旋律を取り出すことはもはや不可能です。
 中世の音楽が持っていた豊かさは、音響が充実し、和声の理論が完成することによって切り捨てられてしまいました。しかしそれは、前衛の行き詰まりが叫ばれる現代において、新たな”ありえたかもしれない音楽”の可能性を示唆しています。かつて、音律を操作するためには大掛かりな準備が必要でした。今はテクノロジーの補助があります。奇抜な音響を追い求めることに閉塞感が漂い始めた現代においてこそ、中世の音律論の注目度が高まっているのではないでしょうか。