オルガン同好会員のネタ帳

オルガンなのにあえて近現代志向

第8回駒場祭オルガン演奏会

2015年11月22日 | 雑記
11/21に東大で開催された第8回駒場祭オルガン演奏会に出演してきました。

以下の4曲を演奏しました。

アイヴズ:オルガン前奏曲「神の御子は今宵しも」
ボロディン:交響曲第3番 第2楽章 より
ランディーニ:「愛よ、この乙女を」
フランク:「オルガニスト」 ハ長調とハ短調のための7つの小品 より

このうち、純粋なパイプオルガンのための曲は一番前衛的(!)なアイヴズのみ。
フランクは足踏みオルガンのための作品で、今回はブローオルガン(いわゆるピアニカ)とオルガンの二重奏で演奏してみました。

残りの二曲は私が編曲したものです。

楽譜を公開しましたので、是非ご覧ください。

グラズノフ:前奏曲とフーガ 作品93と98

2015年11月02日 | オルガン音楽
 グラズノフは、19世紀ロシアにおける西欧派と国民楽派の対立が、20世紀ロシアにおけるロマン主義とモダニズムの対立へと変化していく過程を生きた作曲家であると言えます。早熟の天才として注目を集め、国民楽派の後継者として期待されたグラズノフは、しかし次第に理論派の道を進み、後年には保守的な作曲家というレッテルを貼られるに至りました。グラズノフの生涯は、表現主義、原始主義などの新しい音楽が次々と世に現れた時代と重なります。それらを支持できなかったため、グラズノフはアカデミズムの深みに嵌った、という見方をされることがあります。その作品は、ロマン的で複雑な響きを持ちながらも端正に仕上げられており、非凡さを遺憾なく発揮しています。しかしながら、19世紀においてはチャイコフスキーとロシア五人組の間で埋没し、20世紀においては尚更影の薄い印象を拭えません。
 2つの「前奏曲とフーガ」が書かれたのは30代から40代のころであり、既にロマン主義的なスタイルが明確に現れている時代の作品です。フーガという、既に徹底的に書き尽くされた形式に挑戦しています。短い曲でありながら制作期間が数年に渡っていますが、改訂を繰り返したのでしょう。それだけに、非常に高い完成度の作品に仕上がっています。
 一聴したところ、ありきたりな始まり方をするのがグラズノフ。しかし、この「一見ありきたり」という部分が、グラズノフを受容する上で障害になっているように思います。師匠筋のボロディンやリムスキー=コルサコフのように印象的な旋律で始まるわけでもなく、また後進のストラヴィンスキーやショスタコーヴィチのように奇怪な音色で驚かせてくるわけでもない。噛めば噛むほど良さが出てくるのですが、ハッタリに欠ける印象は拭えません。
 それでも、曲が進行するに従って、グラズノフの半音階的な怪しい世界へと吸い込まれていきます。行き場を見失ったかのように躊躇いながらも、少しずつ糸口を見つけては進んでいく音楽。この世界に浸れるかどうかが、グラズノフを聴く上でのカギになっているように思います。
 作品98のフーガは、途中で拍子を変えます。リズムが複雑なため、一瞬拍子どころかテンポもわからなくなる。彷徨っているうちに、まったく見知らぬ場所に放り出されてしまったかのように。しかし程なくして、また逡巡の世界に戻ってきます。その行き着く先には、また一見ありきたりな形の終結が控えています。やはり、中盤の複雑な和声による逡巡こそが、グラズノフの真髄であるようです。
 グラズノフはペテルブルグ音楽院の教授、そして院長に就任し、20世紀初頭におけるロシア楽壇の最高権威となりました。そこに13歳の若さで入学したのがショスタコーヴィチです。ショスタコーヴィチは卒業に際して交響曲第1番を制作しますが、グラズノフがその冒頭の和声にアカデミズムの立場から注文をつけ、最終的にショスタコーヴィチが従わなかったのは有名な話。グラズノフの提案した「一見ありきたり」な始まり方を若きショスタコーヴィチが否定し、かつそれが大好評をもって迎えられたのは、この時代の熱気を語る上で、象徴的に扱われるエピソードです。
 グラズノフは新しい傾向の音楽を頭から否定していたわけではなく、むしろ理解しようと努めていたともいいます。しかし不安定な政情の中、ロシア楽壇の威信の保持に心血を注いだため、自身の創作のための時間が犠牲になったと考えられます。
 ソ連の成立当初は保守的な音楽が批判され、より進歩的な音楽が求められました。そうした立場から非難を受けたグラズノフはロシアを去り、最後のロマン主義者として静かに余生を送ったようです。
 グラズノフ以後のソ連はアバンギャルドの擁護から抑圧へと舵を切りました。皮肉にも、それがオルガン音楽の命脈を保つ一因となりました。保守的な楽器としてオルガンは生き残り続け、かつ即興演奏の形でオルガンによる前衛音楽が実験されていたようです。その成果はペレストロイカ以後、東欧の進歩的なオルガン音楽として世界に紹介されることになります。また、グラズノフが守ったペテルブルク音楽院は、現在に至るまで優れた音楽家を輩出し続けています。