オルガン同好会員のネタ帳

オルガンなのにあえて近現代志向

バッハ、ブゾーニ、ゴドフスキー

2010年12月20日 | 雑記
ゴドフスキーのバッハ編曲は、一言で言えば超ロマンティックな編曲である。バッハの書いた音符にほとんど改変を加えずに、よくもここまでの近代的和声を展開できるものだと思えるような大幅な加筆を施している。先人にはブゾーニがいた。ゴドフスキーは無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番~第3番を編曲しているものの、高名なヴァイオリン・パルティータ第2番の「シャコンヌ」には編曲を施していない。これはブゾーニの編曲があったからだとされる。
バッハの無伴奏曲を編曲するに当たっては、以下の二項対立が存在するように思える。

・最低限の音しか書かれていない(編曲の自由度が大きい)
・作品の完成度が高い(編曲の余地が無い)

ヴァイオリンの性質上あまり多くの音は使えず、さらに低音域はまったく使用できない。なのでピアノで演奏する際に、音を加えるべき部分は多数存在する。だが、下手に音を加えればバッハの個性を破壊しかねない。このジレンマがあるが故に、ともすれば凡庸な編曲になりがちである。
そこに現れたのが、後期ロマン派から近代に生きたブゾーニと、そしてゴドフスキー。この2人は明快な答えを持っていたように思える。つまり、大胆に音を配置し、自らの個性を主張するということ。すなわち、バッハの個性は、他人が音を加えたくらいで破壊されるような脆弱なものではない、自分の技術と信念を注ぎ込んで、なおも生きるのだと。それは最早バロック音楽ではない。バッハの個性を深く刻印しつつも、編曲者の想像力の翼を得て、ロマン派の後期の半音階和声の耽美的な世界に飛翔しているのだ。
ではバッハの個性とは何か。それは旋律の巧さであると思う。過去、膨大な量の作曲をこなした作曲家は何人もいるが、バッハほど愛奏され、編曲される作品の多い作曲家は居ない。それはバッハの作曲手法の点での音楽史における重要性(革新性と普遍性)を示すものであるが、それにも増して、旋律に普遍的な魅力があったことを認めなければならない。すなわち、近代音楽の旋律に比べて単純明快で、それでいて傾聴に値する趣があるということ。小フーガや「主よ人の望みの喜びよ」、G線上のアリアの現代に於けるポピュラリティは、何よりもその旋律の魅力に起因する。沢山の完成度の高い作品を残しながら、この旋律の魅力という点でいま一歩及ばなかったが故に今日の人気を獲得できなかった作曲家はあまりに多い。その点でバッハは、その作曲工程に於いて様々な実験や革新を行いつつも、凡人が一生涯でひとつ思いつくかどうかという「名旋律」を次々と世に放った。この点でバッハに及ぶものはいない。ゆえに、その旋律を保持する限り、いかように和声の肉付けを施してもバッハの個性が失われることは無い。ブゾーニとゴドフスキーのバッハ編曲が特別なのは、バッハと編曲者、混ざり合わぬ2つの個性が一曲の中で交差し、それぞれが潰しあうことなく作品を彩っているからなのである。

ヴィドール:交響曲第8番

2010年12月09日 | 雑記
ヴィドールの第8オルガン交響曲は、ある意味破格の交響曲である。

最初の3楽章は、まあ普通の交響曲の冒頭3楽章と言える。アレグロがあり、中間楽章とスケルツォ。
しかし、フィナーレ楽章にあたる部分で突然「プレリュード」が始まる。ここで一気に雲行きが怪しくなってくる。3楽章まで来ておいてプレリュードなんて、「まだまだ続くぞ!」と言わんばかりだ。そして、変奏曲と第2の緩徐楽章があり、やっとフィナーレに辿り着く。このフィナーレは内容はあるもののやけにあっさりしている。全部で7楽章(6楽章とするところもある)。演奏時間はやたらと長い。
楽章構成は以下のようになっている。

1. Allegro risoluto ソナタ形式
2. Moderato cantabile
3. Allegro スケルツォ
4. Prelude, Adagio
5. Variations, Andante 変奏曲。非常に長い!
6. Adagio
7. Finale Tempo giusto

10楽章構成の「トゥーランガリラ交響曲(メシアン)」や11楽章構成の「交響曲第14番(ショスタコーヴィチ)」に比べれば大したことないものの、全部で7楽章はロマン派交響曲としては破格の楽章数である。最初の3楽章とて決して短い楽章ではないのだ。
恐らく、4楽章にプレリュードがあるのだから、これ以前と以後では区切って考えるべきなのだろう。すなわち、本来フィナーレ楽章であるべき部分に、さらに4楽章構成の楽曲を代入したためにこのような形になっているのだろう。前奏曲付の変奏曲がメインで、それに間奏曲と快速なフィナーレが続く。この一連の流れが、まとめて「第8交響曲」のフィナーレに相当するのだ。それならば、「フィナーレ楽章」である第7楽章はフィナーレの一部に過ぎないので、5,6分程度で終わってしまうのも納得である。

こうした曲の中に曲があるというのは、劇中劇という言葉があるように非常に劇場的である。無論ヴィドールの交響曲が唯一の例ではないものの、保守的な様式を後の時代まで引き摺って来たオルガン音楽において、前衛的なことをしようとすればこのような方法を取らざるを得なかったのかもしれない。

しかし、やっぱりオルガン曲としては長すぎる気がする。いくらストップのヴァリエーションがあっても、オーケストラに比べれば出来ることは遥かに少なく、ともすれば飽きられかねない。ヴィドール自身もそれを感じていたようで、自らの交響曲5~8番から抜粋したダイジェスト版を作曲したりもしている。
オルガンは、拡張性が高い一方でその拡張性では補えない限界があったのではないか。

しかし、時代は既に近代に入っていた。モダニズムの影響を受けて、オルガン音楽も刻々と変わってゆく。そこにオルガンの保守性と制約が有利に働いたと思う。新たな時代感覚を持ちながら、前衛に走り過ぎず、過去に根ざした完成度の高い作品群が次々と現れた。ヴィエルヌの交響曲群などがそうである。