東京コンサルティンググループ・メキシコブログ

毎週金曜日更新
メキシコへの進出をコンサルティングしている駐在員が、メキシコの旬な情報をお届けします。

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ドラッカー365の金言について

2013年07月01日 | その他
事業の定義は3つの部分からなる。(ドラッカーの365の金言の最初のページから)
①組織をとりまく環境
②組織の使命
③組織の中核的能力

ドラッカー365の金言について、私も考えたい!と言う事で、今回はこの3つの関係性を考えてみました。

まず、最初に、私は本を最初から順に全てを読むことがあまり得意でないので、この様な箇条書きになっている箇所に目を通し前後の文章を読むようにしています。体系的にまとまっているところこそ、その本の言いたいところだと思っていますので。まぁその他の部分は、私が考えるに補足です。
皆さんも自分で文章を作ることを創造してみてください。最初に何が言いたいかを考えますよね。ある程度自分の中で考えがまとまっている、又はまとめたいと思っているから文章が書けるのです。
私も文章を書くときに紙とペンを用意して横に自分の書きたいことを図にまとめます。また、本を読むときにも箇条書きとなっている箇所を同じように図にまとめます。ちなみに今も横に紙とペンがあり、

事業 ①環境       優先順位? 現実とは?
    ②使命
    ③中核的能力


環境⇒技術?なぜ?

この様に記載されています。ここが作者の言いたいところですよね。まぁ1ページ、1ページテーマがあるような本のようなので当たり前ですが。さて、作者は何を言いたいのかを考えます。この様な箇条書きになっている箇所はまず優先順位から考えてみると良いかもしれません。少なくとも私は優先順位を必ずつけます。そして多くの作者はちゃんと優先順位が高いものから書くようにしてくれています。
おそらくこの本でも優先順位が高い(又は作者が高いと思っている)ものから順番に書いてくれているはずです。それでは文章を見てみましょう。「事業の定義は三つの部分からなる」、ふむふむ、これは上記の箇条書きの部分ですね。その定義とは、「第一に組織をとりまく環境である」、ふむふむ、そして環境とは、「社会、市場、顧客、技術である。」とあります。

・・・・・・なに?

ここで私がまず疑問に思う事は、「技術」という単語です。ぱっと見た感じの私の印象は、環境=目的、使命=選択・集中、中核的能力=技術であり、目的である環境に技術が入ることなどはあってはなりません。そもそも技術はあくまでも目的を達成する為の手段でなくてはならないのです。
技術=手段、これは「定義」と私は考えています。そして多くのビジネス書が技術=手段と教えてくれます。

ちょっと脱線しますが、何故技術が目的になることが無いのかというと、それは技術には必ず陳腐化が存在するからに他ならないと私は考えています。陳腐化するものを目的にしてはいけません(例えば、「この商品でお客様に貢献する」などの目的も私は好きではありません)。目的を変更すると言う事は組織の存在意義を無くしてしまう行為です。手段が陳腐化したらその手段を切り捨て、入れ替え、目的を達成するという事も組織であれば時には必要です。例えその手段が人間だったとしても。ただ、人間には、陳腐化しないという選択肢も残されているので、陳腐化する人は結局のところは現状に甘んじていた人たちがほとんどです。

さて話を戻すと、技術が目的となってしまっている以上、上記の私の考え(環境=目的、使命=選択・集中、中核的能力=技術)はどこか違っているのでしょう。

次に私が本を読む上でよくする事は、時間軸に沿って考えるということです。時間軸に沿って考えることは本を読む時だけではなくて、色んな時に私を助けてくれます。
それでは少し考えてみましょう。

まずは何が売れるかを考えて、次にどの様な手段で勝負するかを考えて、実際にやってみて、結果として報酬を得るんだよな。うーん・・・目的を考え、技術を考え、結果を得るか。

あれ?選択と集中がありませんね。
!!!

そうか、環境=結果、使命=目的、中核的能力=技術なのか!
というような思考回路になるのです。選択と集中は目的を定める為の一つの方法でしかありません。文中で「経済や社会に対し、何を貢献するつもりかを明らかにする。」という文言で、経済や社会を目的とし、使命を選択と集中にしてしまったのです。①の組織をとりまく環境が目的で、③の中核的能力が手段、目的と手段の間を必死に考えた結果出てきた答えが選択と集中だったのです。

①環境=結果
②使命=目的
③中核的能力=手段


私のメモにはこの様に書かれます。
そして私は思うのです。
「大切な結果を得るためには、目的と手段を大切にしよう」ってなんて当たり前のことを言っているのだと。ただ、実際にビジネスを始めるとこの当たり前のことを維持することが一番難しいのだと思います。ポイントは、目的は変えずに手段を変えようですね。

とても面白そうな本だと思いますので、皆さんも自分なりに読んでみてください。また、上記の考えはあくまでも私の結論と捉えてください。私の言うこの考えが絶対などと言う事はありませんので。

メキシコ事情

2013年06月24日 | その他
こんにちは、メキシコ駐在員の片瀬です。

ようやくメキシコでのビザの申請がおりました。次は8月9日(金)に日本で面談(発行の手続き)を行ってようやくビザが発行されます。ビザの申請を始めてから約5カ月間掛かりましたがようやくです。

ビザ取得のルールが改正されて半年ちょっと経ちましたが、ようやくちらほらと改正後に申請を始めた方達のビザの申請がおりてきました。おそらく今後は4~5カ月前後でビザの現地での申請がおり、1月かけて日本で面談を行うという形が定着しそうです。つまり、ビザの申請を始めてから約半年でビザの取得が完了することになります。ビザのルールが改正される前は1月程度で取得できていましたので、6倍も時間がかかるようになってしまいました。また以前はビザの切り替えを現地で行うことができましたが、現在はメキシコ国外でなければビザを取得することはできません。そのため、多くの方が日本に一時帰国し、日本で面談を行っているのが現状です。日本での面談は予約制(メキシコでのビザの申請がおりてから15営業日以内に日本の面談を予約しなければなりません。)であり、1日3人程度行っているようです。現在はそこまで混んでいないために2週間程の待ち時間でありますが、今後も日系企業の進出が増えるのであれば、それに伴って待ちの時間も長くなることが考えられます。また、面談(アメリカは面談無しの場合も)について、つい先日まではアメリカで行うことができたのですが、現在はアメリカの一部の州をのぞいてアメリカでビザの面談を行うことはできなくなっている模様です(アメリカの居住者であれば面談する事はもちろん可能)。

この部分が未だに混乱を呼んでいる部分でありまして、中には15日以内に予約ではなく、面談を行わなければならない。また、アメリカでビザ発行の手続きを未だに行えると言っている方も多くおります(正式には、現地でのビザ申請の手続きが終わり、メキシコにおいて申請の認可が下りた場合には、認可を受けた本人が日本のメキシコ大使館に連絡し、面談の設定を行います。この面談の設定は認可後15日以内に行わなければならず、面談を設定する期間は150日以内となります。面談は数十分で終わり、即日ビザが発行されます。

これで、ようやく私もビザ保有者となります。・・・長かった。ビザが無いといろいろと不便です。とにかく契約関係が一切(例外もありますが)できません。契約関係が一切できないというのは住むところを借りられないし、免許が取れない、銀行口座を開けない、もうこれだけでも鬼の辛さです。まぁ裏技もありますので、困ったら是非聞いてください。ただいろいろ面倒くさく私は利用していませんので、やはり鬼の辛さです。ビザ取得のルールが変わってからは、多くの日系企業が旅行ビザ(180日滞在可)で現地に入って、ビザの申請がおりた後に日本で面談を行うという形でメキシコに入っています。皆さんいろいろと苦労されているようです。

私もようやくこれで車の免許が取れます。実はメキシコは世界で1番免許を簡単に取ることができる国なのです。知っていました?所要時間なんと30分。そのため免許センターはメキシコで唯一機能している行政機関といわれております。他の行政機関はもう・・・・笑えます。ただ、メキシコは車が非常に多く、多くのメキシコ人はF1ドライバークラスのドライブテクニックを持っていますので、その中に飛び込んでいくにはかなりの勇気が必要です。十分に注意してください。特に彼らのブレーキのテクニックと、空間把握能力は天才的です。日本人の私からしたら、ブレーキを踏むのが遅すぎで常に胃がキューっとなりますが、彼らは余裕の顔をして絶対に止まります。また我先にと皆が非常に頑張るので、日本人の私がおそらく見たことがないであろう車線変更を誰しもが見せてくれます。まぁ彼らには車線という概念がおそらく存在しないのでしょう。・・・そもそも交通ルールという概念が存在しません。なんせ30分で免許が取れますから(笑)。言ってしまえばメキシコの交通ルールは「行くぜー、俺は行くぜ―」です。相当coolですよね?でも彼らの殆どが心の底からそう思っているので、それはそれでルールとして成り立つのです。そこに「行けない奴」がいるとどうなるでしょう?日本人がメキシコで追突されることが多いのはこの様な理由があってなのです。郷に入りては郷に従え、まさにその通りですね。

また、メキシコは道路の状況も悪く、ところどころに穴があいています。ひび割れとかのレベルではなく・・・そう、穴です。穴は大きいもので直径50センチ深さ20センチぐらい。雨の日の夜は、その穴にはまってパンクというのがメキシコでのデフォルトのようです。晴れの日は決して穴にはまりません。なぜなら穴が見えますから(笑)。

話は大きく変わりますが、メキシコでの新卒での平均給与は40,000円~50,000円程度であり、プロになるまでの給料は日本に比べかなり安いです。ただ、メキシコの物価水準は、衣料品は日本と同じぐらい、食品は日本の2/3ぐらい、住居は金額的には日本と同じくらい(広さは日本の2倍~3倍はあります(狭い部屋がありません))、家電製品は日本の方が安く、メキシコは日本の1.5倍ぐらいします。これらの物価を総合的に勘案すると物価水準は日本の大体3/4ぐらいだと思います。つまり物価水準を統一するのであれば、大体新卒で53,000円~66,000円程度の給与となります。日本だと新卒の平均給与は大体220,000円程度でメキシコと比べて大体4倍ほど違います。これがプロになると大体同じくらいの給与水準(メキシコの方が若干安いぐらい)に落ち着きます。

ブラジルは新卒の平均給与は60,000円~80,000円程度で物価水準は大体日本の1.2倍程度(都市圏に限りですが、日本より物価は高いです。)でこちらも物価水準を統一すると50,000円~60,000円程度となります。詳しくは調べていませんがおそらく他の国も物価水準を統一すると同じぐらいになるものと思います。

世界では新卒の平均月給は日本円に換算すると大体60,000円程度なのです(すみません。調べていませんが言い切ります)。日本人の新卒の方に今後あなたの給与は60,000円ですというと不平しか出てきませんが、これがもし、最低賃金がなく最初から60,000円が平均という世の中であればいったいどうだったのでしょうか。・・・という仮定の物語を最近よく考えます。

そう考えれば考える程に、社会が発達するためには不自由さが必要なのだという結論に達してしまいます。不自由さと不自由からの脱却をしっかりと与えてあげると人間は自己の力を最大限に引き出すものと思います。最低賃金を調べようとネットを開くと最低賃金と生活保護どちらが得か?などというサイトもありました。やはり日本人は満たされすぎてしまったという思いがどうしてもぬぐえません。

お腹がすくとご飯を食べます。でもお腹がいっぱいであればご飯は食べません。本当に簡単な例ですが、全てのことはこれと同じであり満たされると人は何もしなくなるのです。日本では40代半ばを過ぎて勉強を始める方が非常に多いですが、これは自分の人生の半分を生き、残りの自分の人生が予想できてしまうためです。その瞬間に人は満たされなくなるのです。私の人生はこんなのでは無いと…しかし、そこから始めるのはあまりに遅い…

正直、私は現在の新卒の給料を60,000円にしても不平が出てこないような会社を作りたい。そのためには160,000円分の価値をその新卒に与えなければなりません。その価値を何に設定するか?そう考えると絶対に対価は、経験とゴール(上記では不自由からの脱却と書いていますが)になります。どんなに考えてもこれ以上の答えが見つかりません。ここで私がいつも次に考えることは、経験があるからゴールがあるのか?、それともゴールがあるから経験があるのか?です。このゴールというものは、不自由を感じている者が可視化できるものでなくてはなりません。そうしなければ不自由を感じている者が自分で不自由からの脱却(ゴール)を創造してしまいます。彼らは本音では一刻も早く不自由からの脱却をしたいのです。でも結果は、彼らが創造したゴールは安易なものであり、彼らを不自由さから解放するものではなかったのです。残念ながら。

これ以上書くと長くなりそうなので、今回はここまでとしますが、不自由さは人を高めると言うのは本質ぽいと最近つくづく思います。もちろんゴールとセットで見せる必要はありますが。皆さんが掲げるゴールとはなんですか?会社が掲げるゴールとはなんだと思いますか?その2つは共通するものですか?基本的には会社が掲げるゴールの方が思考が入らないので本質に近い気がしますので、会社が掲げるゴールを達成する為の道を描く方が良いのかもしれません。まぁ、いずれにせよまずは死ぬほどの努力ですね。

意思決定のタイプは拡大型か? 維持型か?

2013年06月17日 | その他
こんにちは、メキシコ駐在員の片瀬です。

最近、私はある方に次の様な事を言いました。「仕事はテストとは違い、自分に知識が全く無かったとしても、0点にはなりません。それどころかお客さんを満足させるものを知識0で提供する事すら可能です。その方法を探してください」と。つまり私にとって仕事とは、インプットが無かったとしても成り立つものなのです。

自身の意思決定のタイプは拡大型か? 維持型か? この特性を見分けるために簡単な方法があります。
皆さんは仕事で大きな壁にぶつかった時に、次のどちらに思考が行きますか?①『なぜだろう?』、②『どうやろう?』
これで分かります。皆さんはこの違いが分かりますか? 私は間違いなく『なぜだろう?』タイプです。『なぜだろう?』タイプと『どうやろう?』タイプは仕事の話をしてもかみ合いません。例えば『なぜだろう?』タイプが、「なぜ仕事が上手くいかないのか?」と『どうやろう?』タイプに聞くとしますよね? すると『どうやろう?』タイプは「このようにすれば上手くいくのではないですか」と答えます。これは本当に良くあります、一見すると繋がっているようにも見えます。ただし、この会話には『どうやろう?』タイプが絶対にできない意思決定が隠されているのです。皆さん何か分かりますか?

さて、話を戻しましょう。
つまり、自身の意思決定を『なぜだろう?』からつなげるのが拡大型であり、『どうやろう?』からつなげるのが維持型であります。ここで一つ疑問に思う事は、それぞれがもう一方のタイプになれるのかどうかです。私は『なぜだろう?』タイプですので、『どうやろう?』タイプになれるのか? そもそもなるべきなのか? このジレンマは私が常に考えていることです。

意思決定を自分で「選択」したい、人に「選択」してもらいたい。これについて考えてみましょう。
これは簡単! 自分で「選択」したい人が『なぜだろう?』タイプで人に「選択」してもらいたい人が『どうやろう?』タイプだと、そう皆さん思いましたね?……はい違います(笑)基本的に『なぜだろう?』タイプは自分で「選択」したくないのではと私は思っています。結果として自分で「選択」せざるを得ない状態になっている人は大勢いますが。基本的には「選択」したくは無いはずです。そう考えると『どうやろう?』タイプの方が「選択」することが多いですね。何故なのでしょうか? そもそも「選択」とは何か、私は「選択」とはピラミッド型をしたものであると考えています。つまり『どうやろう?』タイプの「選択」と『なぜだろう?』タイプの「選択」は全く違うものです。そう考えると先週書いたトップマネジメント、ミドルマネジメント、スタッフの意思決定の話にやはり戻りますね。

人の足りないものを補うことをするべきか?
私もこれは耳が痛く、お節介にも程があるレベルでどうやろう?タイプの人も『なぜだろう?』タイプの人も関係なく、盛大に『なぜだろう?』タイプの考え方を説いています。そっちの方が絶対に楽しいと思っているので盛大に説けるのですが、果たして『どうやろう?』タイプの方がそれを聞いてどう思うか? 「ためになったわ~」と思うでしょうか? 私は思わないと思います。そんな簡単なことで人の本質が変えられるのであれば人材育成はもっと楽な気がします。私は自分の考え方を盛大に説くのは、基本的には自分が楽しいからやるようにしています。

その様に考えてはいるのですが、ただ人と向かい合うとなると難しく、相手のできていない部分にばかり目がいってしまいます。私は『どうやろう?』タイプができていない場合に、もっとこう考えれば良いのにと思ってします。ただこれは逆もしかりで他人は必ず私のことを『どうやろう?』タイプの考え方を持てば良いのにと思っていることと思います。つまり人を見て足りないものを補わせるのでは、その人の本質によって左右されてしまうので、それを判断の基準にしてはダメなのです。では何を判断の基準にするのか?

私が『なぜだろう?』タイプとなったのは、偶然ではなく必然であると考えています。何故か? 『どうやろう?』タイプで抜きに出るには相当の努力が必要で、その努力の量によって抜きに出れるかどうかが変わってきます。私は未経験で当社に入ったその瞬間から他社の10年戦士に勝とうと思っていましたから、必然的になぜだろう?タイプに流れたのですね。どうやろう?タイプは経験があるから成り立つものという思いが強かったのだと思います。

ただ、会社の枠が決まってその枠の中に水を満たすステージに入った今は、どう効率的に水を満たせるか……つまり『どうやろう?』タイプが少しでも多く必要になっています。水が満ちたらその枠を少しずつ広げるために『なぜだろう?』タイプが少しずつ必要になるけれど、それはもう少し先ですね。

今回は、抽象的なことを『なぜだろう?』タイプと『どうやろう?』タイプという表現を使って書いてきましたが、足りないところを補う事が良でも、強みを生かすことが良でもなく、個人ではなく会社を見ながら柔軟にやるべきことを考えていくことが良なのだと再確認しました。

まずは苦手な「こつこつ」を少しずつ頑張ります。

お読み頂き、ありがとうございます。

仕事の質

2013年06月10日 | その他
こんにちは、メキシコ駐在員の片瀬です。

仕事の質はその人の役職によって変わります。そしてその役職は基本的には3つのパートに分けることができるのです。1. トップマネジメント、2. ミドルマネジメント、3. スタッフ、そしてこの3つのパートがそれぞれ正常な役割を担っているからこそ、組織は健全に動くのです。ただ、海外では駐在員1人がスタッフからトップマネジメントの役割全てを引き受けなければならないのですが、多くの方はこの当たり前のことができないのです。完成された組織であればスタッフ時代に専門性を磨き、ミドルマネジメント時代にマネジメント能力を身につけ、トップマネジメントにおいて組織を作り拡大する。さらに分かりやすく3者の役割を分けると、1. 専門性、2. マネジメントに分類することができるのです。当社は独立しても成功する人材を育成していますが、独立しても成功する人材とはどのようなものでしょうか? これについて、多くの方は、マネジメント能力がある人材が独立して成功する人材と位置付けていますが、これは正直なところ不正解であると私は思っています。

どういう事か?
まず独立することを想像してみてください。独立する段階で一番大切になることは何ですか? それはお金を稼いで生きていくということです。ではどうすればお金を稼げるのか? それは商品を売ることです。では何を売りますか? ここが非常に大切で、商品とするものはあくまでも「専門性」以外にはないのです。マネジメントも専門性に変えてしまえば商品になりますが、マネジメントそれ自体はお金を生み出すものではないのです。ここが本当に難しく多くの経営者が陥ってしまう罠なのです。

海外に駐在していると、他社の駐在員とマネジメントの重要性について話し合うことが多いです。そして、その会話の中でマネジメントが重要であり、業務が上手くまわらないのはマネジメントが上手くいってないからだという認識を持つようになります。その様に刷り込まれていきます。ただ、製造業と我々会計事務所ではその商品が大きく違います。製造業は日本の技術(つまり自分たちが過去に経験してきた技術)を商品としますが、我々会計事務所は所在地国の技術を商品としなくてはならないのです。日本の技術を商品とする場合、専門性(過去の経験)は既に担保されているのですが、所在地国の技術を商品とする場合には、その専門性は一つも担保されておりません。専門性がなければ、独立や海外で成功することは非常に難しいのが現実です。専門性を持つこと、一つにこれが基本だと私は考えています。

ただし、専門性が無くても成功する場合があります。それは専門性を他者に移譲する場合です。専門性を切り出して外注にだす場合のことを考えてみることにします。この場合は、専門性を切り離して考えられるために、専門性が無くてもビジネスは成り立ちます。ただし、当社にチェック機能は存在しないために成果物に存在するリスクをどう取り扱うかが課題となります。ただでさえ外注を使い割高な料金設定にならざるを得ないのに、リスクまで料金に組み込んでしまったら、まず受注ができません(競合他社がいなければ別ですが)。つまり外注を使う場合には、専門性ではなく、価格設定とサービス提供範囲、リスクの管理等に関し最善を導ける交渉力・営業力が必要となるのです。また、お客さんの要望を正確にとらえ、それを形にして外注先に正確に伝えられる語学力(ビジネスレベル)と構成力(これは現地国における専門性はいざ知らず、最低でも日本での専門的な経験が無ければお客さんの要望を形にすることができません。)も併せて必要となります。この場合の基本は営業力と語学力となり、これも基本の1つだと考えていす。専門性を切り離すと言いましたが、言ってしまえば営業力も語学力も我々が持つべき専門性の一形態に他なりません。

ビジネスの形態によって必要となる専門性は変わりますが、どの様な会社でも専門性が無くビジネスが成功することは絶対にありません。これを認識し、自分のビジネスに必要な専門性が何なのかを考えないのであれば残念ながら海外で成功する訳はありません。これらの基本(専門性)は本当に大切です。「自分はどの様な専門家になるか」と決めることがビジネスの基本であり、最初にやるべき事だと私は考えます。専門性を、自分の核を作ってしまえばそう簡単には人は折れません。まずは自分の足で立つこと、海外でこれができなければすぐに撤退を余儀なくされます。

私自身、日本人は勤勉だとは思いますが、その勤勉さが良い方向に向かっているとは全く思っていません。確かにスキルアップの為に時間を割く方は多いですが、これが、どうしても時間の浪費に思えて仕方ありません。これはおそらく、その日本人のスキルアップが何の為に行われているかが、私自身には全く見えてこないためだと思います。やはり日本人は満たされすぎてしまったのでしょう。日本人は生きる為に仕事をしなくなり、車や洋服等のステータスの為にも仕事をしなくなりました。果たしてこれは良いことなのでしょうか?

メキシコに来てみると、皆生きる為、家族を守る為、社会的ステータスの為に常に上を目指しています。常に金を稼ごうとしています(金を稼ぐ極端な例を言いますと、「勝手に車のフロントガラスを拭いて、拭いたのだから金をくれ」や「レストランに勝手に入ってきて強引に雑貨を売り始める」そんな具合です。皆生きる為に必死になっています)。ラテンの特徴として不真面目で怠惰で努力嫌いではありますが、常に上を目指しています。はっきり言って日本人の方が自己のスキルアップの為に使う時間は格段に多いですし、格段に真面目ですが、それでも今後発展する国はどちらかと聞かれると私はメキシコと答えてしまいます。日本が戦後世界第2位の経済大国に上りつめた事は、当時の日本には今の発展途上国において感じられる熱気と日本人特有の勤勉さを併せ持っていた為、つまり目的と手段がしっかりと絡み合っていた為でしょう。勤勉であることはあくまでも手段であり、手段には効率性の追求ということにしか議論の余地がありません。

独立する、また、海外で成功するためには、自社が会社運営のどこのフェーズにいて、何をするべきなのかを認識する必要があります。設立初期については、業務マネジメント(ミドルマネジメントの一機能)と専門性だけを持っていれば良く、トップマネジメントの知識はほとんどいりません。売上があがると同時に自分の下に人を雇います。1人、2人、3人と。ただこの時点でも業務マネジメントと専門性だけで問題ありません。この時点で必要な事は、自信の知識(専門性)の深堀りです、この時点では組織を作る事を考える必要はありません。自分の知識の専門性が高ければ高い程に売上があがり、売上高に応じて勝手に組織はできていくのですから。ではどの時点でトップマネジメントの能力が必要になるのでしょうか。それは、業務が自分の手から離れた瞬間・自分自身で直接管理することができなくなった瞬間からです。この状況となった段階で更に組織をでかくするためには、トップマネジメントは全ての業務を自分の手から離す為にはどうすれば良いかを考えなくてはなりません。この時おそらく多くの場合には売上は減ることとなるでしょう。上記で経営者が陥る罠と言ったのは、この売上が減少する事象を甘受し、組織を作る事だけに取り組める社長は多くは無いと思ったためです。売上が減少する事を甘んじて受け入れる、自分の命を他人に預けて戦場に出るような感覚に襲われる事でしょう(ただ実際に売上を減少させるような凡庸な社長ではいけませんが、あくまでもそのような感覚です)。上に立つ程忙しくなる社長はミドルマネジメントをしており、上に立つ程暇になる社長はトップマネジメントをしています。トップマネジメントの仕事は意思決定、5秒で判断できる仕事ばかりです。仕事の全てが5秒で片付けば、一日仕事したとしても10分です。まぁ言ってしまえば暇ですね。その為に多くのトップマネジメントはこの暇な時間を人との交流に使っているのです。

弊社の社員の週報で印象に残ったものがありました。その内容は40歳以降の他者との交わりについてであり、「実力が拮抗してくる40歳以降は仕事以外の場で本音を探るようになった。」ととある方から聞いたそうです。これが凄く心に響き、いろいろと考えるきっかけとなりました。そこで、まず本音とは何かを考える為に、「真意(本音と意義)」に関して先週週報を提出し、そして今週は実力が拮抗してくる40歳以降に関して週報を利用して考えました。私は、40歳以上は実力が拮抗してくるのではなく、一般的な会社では40歳を契機に仕事の質が変わるのだと考えています。40歳を超えて管理職になれば、意思決定を行うことが仕事になります。これは専門性を競っていた20代~30代からマネジメントを競う40代以降への突入であります。ただし前述の通り、マネジメントはそれ自体がお金を生み出すものではりませんので、他者との比較可能性が専門性に比較し著しく劣ります。そのために他者との差が一目には分からなくなり、この「とある方」は実力が拮抗してくるという表現を使ったのだと私は考えています。

管理職となり、意思決定を行うようになった。がむしゃらに「追求」していた時代から、適切な「決定」をおこなう時代となった。では、意思決定(適切な「決定」)を仕事とする上で一番必要な要素とは、何だと思いますか?

そう。それは「情報」です。

だから仕事の仕方までも変わるのですね。

情報は40歳以上だから必要なのではなく、意思決定を行う者のために必要なのです。そのため、社長は年齢に関係なく情報を集めるのだと思います。多くの情報の下の意思決定が、組織を作っていくのです。社長は多くの情報を集め、適切に意思決定を行い、組織をよりよい方向に導いていかなければなりません。そう、決して組織が途中で止まらないように。

週報について

2013年06月03日 | その他
こんにちは、メキシコ駐在員の片瀬です。
週報とは凄く良いものですね。自分の考えを皆さんに伝えられる事はもちろんのこと、人の考えを聞くことができるものです。仕事で繋がりのある人でも、なかなかその人の「真の考え=真意」を聞く機会には恵まれません。特に上下の関係となってしまうとなおさらです。
もちろん週報を書いている人は、何のために書いているかという意義をしっかりと持っている方々ばかりだと思います。もちろん私も何のためという意義はしっかりと持っています。意義を持っている方は、自分の本音を修正して皆さんに伝える事が多々あります。ただ、私はこの意義にプロテクトされた週報を読むのが凄く好きなのです。

「真意」とは?
週報を書いている人は意義の設定を、誰、いつ、どこ、何においているのか。そのことを意識しながら週報を読むことによってその人の考えているもの、目指しているものがなんとなく見える気がします。書き方においても、自分の言葉で意義を伝える人、人の言葉を借りて意義を伝える人など伝え方ひとつとってもその人の人間性が見える気がします。その人の文章の中からその人っぽくない箇所(意義を持っている方は基本的に文章を意義で固めます)や裏のテーマがその人の本音であることが多い気がします。読み方を覚えるとその文章1つでそれを記載した人の事をいろいろと知ることができるものです。私も文章を書くのは好きなので意義の中に本音をまぶすことや裏のテーマを持って書くことは多々ありますが、文章をこの様に読む方も少ないので、分かる人だけが分かってくれているのだと思っています。これがブログや週報の良いところですね。書籍化されるとこうはいきません。さて、この本音が「真意」か、この意義が「真意」か、一体全体どちらでしょうか?皆さんは自分の上司、同僚、部下が持っている本音又は意義のどちらの考えを聞きたいですか?私は基本的には意義を大切にします。それは意義が未来を表し、本音は過去を表わすと私は考えているからです。

それでは意義が「真意」なのでしょうか?
ここが難しい部分であり、意義は確かに「真意」に近いものであると思いますが、それを達成することができるかどうかの実行可能性は、本音にあるのだと私は考えています。本音が意義を束縛してしまうことが世の中には往々としてあります。それでは反対に、いつも意義を主張している人が、ふと本音を漏らしてしまった場合には、それはその本音が「真意」だったのでしょうか?その本音が緩衝材になって、意義のスピードを完全に止めてしまったのであれば、それは確かに「真意」なのかもしれません。ただ、意義のスピードが完全には止まらずに再び意義が動き出した場合には、それは「真意」ではなかったと思うのです。その本音によって誰かに何を言われようとも、それは「真意」ではなかったことを理解し、意義のスピードを正常に戻す為の手伝いをするべきなのではないかと私は考えています。つまり「真意」とは、その意義と本音を含めた総合的な考え方、その人が持っている考え方それ自身が「真意」なのだと思うのです。そして部下から本音を言われてしまった時に悔いるべきは、本音を言わなければならない状況を我々が作ってしまったことなのだと。私を含めるシニア、アシスタントシニアは社員の本音の部分を観察できる機会を多く作り、その本音を支える存在にならなければなりません。前提としてしっかりとした意義を持っているか否かは重要ですが。時に他者の本音は自分に対しては痛く、耐えがたいもののこともあります。そして人は他者からの本音を受け入れることは容易にはできません。かくいう私もこの様に記載して、かつ、人とは本音で交わりたいと思っています。……が他者から本音をぶつけられてしまうとそれを受け止める事がおそらくできません。絶対にイライラします・笑。つまり世の中は、あたりまですが本音で語るようにはできてはいないのです。良く本音と建前と言いますが、私は、建前は2つに分類できると思っており(意義のあるもの、意義のないもの)、その1つが意義のある建前であり、上記ではこの意義のある建前を「意義」と記載させてもらっています。そして私が考えるべきことは、他者の本音をいかに意義とシンクロさせていくかだと考えています。まず、意義を持つこと、そしてその意義まで本音を引っ張りあげること。本音が勝手に崇高たる意義に代わることは絶対にありません。そのため、まず仕事に意義を持たせるために朝研などの仕組みが必要なのです。

本音の教育とは?
当社の朝研は社員に意義を持たせることはできます。頭のよい方なら朝研で何を伝えたいのか、当社の理念の本質は何なのかを容易に理解し、すぐに意義を見つけるでしょう。ただし、朝研の意義を理解し、当社にコミットしていたはずの人が当社を中退していきます。それは何故なのか?それはその人の本音を教育できていなかったからに他なりません。そもそも本音はその人個人そのものを表すものですので、教育なんてできる類のものではありませんが。それを理解した上で、ただ一つ教育の可能性があるとすれば、それは安心を与える事に他なりません。本来、これらは年の功として年長者が勝手に行ってくれるものですが、当社には年長者はほとんどおりません。そのため戦略的に本音の底上げを行わなければなりません。ただこれを更に難しくすることは、意義の教育とは違い1対全ではなく、1対1での対応となることです。経営者は意義の教育は容易にできますが、本音の底上げを行うことは非常に難しいのだと思います。組織がでかくなればなるほど1対1の対応ができなくなりますから。そのために経営者は安心を与える為の仕組みを作ります(自分を1と考えるのではなく会社自体を1と考えるようになります)。当社でいうCDDやグループ制度などです(もちろん安心を与えることは、これらの仕組みの1つの側面でしかありませんが)。しかし、これらの仕組みも時間が経過すると経営者の思惑とはかけ離れ、独り歩きを始めます。

仕組みが機能しない理由?
それは、それらの仕組みに従事する人が、社員の安心のベクトルを対会社ではなく、無意識に対個人(自分自身)にするべく、活動を行ってしまうためです。これを注意し、意識的に行わなければ安心のベクトルを会社に向けることはできません。そして安心のベクトルが会社に向かったとしたら、その安心のベクトルに報いるのは基本的には会社自体です。会社に向かった安心のベクトルに個人が報いることはできません。人は人と向かいあった時に自分自身を蚊帳の外におくことは無意識ではできません。そのため対個人に向けられた安心のベクトルを対個人が報いるという、会社としてはあまりありがたくない形に落ち着くのも自然の形といえましょう。ただし、意識さえすれば会社が何で(どの様な方法で)安心のベクトルに対し報いているかを伝えることは容易にできます。社員に対し、会社がどの様な形で報いているか、その価値を植え付けることはできます。そして新たな価値が根付くか否かは、説得力があるか無いかにかかっています。

説得力とは?
上記の例に対して答えるのであれば、その新たな価値それを利用したその人自身が成功している(ように見える)か否かです。もっと深いところを言えばその価値に本当に価値があるか否かですが…。さて、ここにいう成功とは相手からみての成功なので、一概に何が成功とはいえないものです。つまるところ、その成功は相手が勝手に作り上げた虚像だとしても良いと言えば良いのです。楽しそうに見えるだけでも、相手は何がそんなに楽しいのだろうと勝手に想像し、勝手に結論付けるでしょう。もちろん虚像である場合には、それが崩れる時がくるでしょうが。ただそんなことは知ったこっちゃない。虚像だとしても、虚像を見せる事によってその人はその価値に触れてみようとするので。そこからはその人の範疇、価値のあるものであれば勝手にその人が変わり、価値の無いものであれば何も変わらないのです。

比較対象の存在
ただ、その価値には、誰もが認める絶対的な価値があったとしても、全く変わろうとしない場合もあります。どの様な場合であると思いますか?それは比較対象がある場合です。つまり多様性の中では、価値は差額で証明するしかないのです。しかし、上記のような無形の価値を評価するにしても、その価値を金額的に評価することは非常にむずかしい。もちろん個人、個人によってその価値の価格設定は異なりますので、画一的な値段がつくことはまずありません。結局は社員の判断に委ねてしまうところがもどかしいと言えばもどかしいところです。ただ、「経営者はこの価値を設定する責務があり、管理者はこの価値を伝達する責務があり、社員はこの価値を判断する責務がある」と私は思います。経営者は意義においてこの価値を設定しますが、社員は本音において判断します。やはりつまるところは本音の教育なのかもしれません。

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