朝の段階で、特に本日は、これといった話題が見つかりません。年に何回かはこうした日があります。
それでも、何かを書こうとすると、それなりに見つかるものです。
放課後には、全校第九合唱練習を行っていました。
学校というところは、日常と非日常が、繰り返し行われるところで、日常が授業、班活動といった課外活動であれば、非日常は、学校行事や各種大会だと思うのです。学校でも、民俗学の概念であるケ(日常)とハレ(非日常)が繰り返されると言っていいでしょう。
学校というと、どうしてもこのハレの様子を中心に語られがちですが、私は、日常の様子(ケ)も、この校長日記では、記述していきたいと常々思っています。
それは、以下に記す日本民俗学を学生時代に専攻したからでもあります。
先日の佐久市民新聞のインタビューで、私の大学進学のいきさつを語りました。
本日の校長日記は、その続きの意味合いがあります。
上の本は、大学の1級上の先輩が書いた本です。
柳田國男(やなぎたくにお)は、皆さんご存じだと思います。日本史や倫理の教科書にも記述のある日本民俗学の創始者です。その弟子の一人が千葉徳爾先生で、私の大学時代の恩師の一人です。私が日本民俗学を専攻しようと最終的に決めたのは、千葉先生との出会いがありました。
先生は、信州大学で教鞭をとられていたことがあり、信州出身の学生には、長野県の様々なことを事細かに教えてくださいました。先生の著作『地域と伝承』は、信州の民俗について触れられた論考集で、学生時代、何度も読み返しました。
先生は、私の大学2年生の時に、退官され、明治大学に移られましたが、当時の学生に多大な影響を与えた偉大な研究者であり、かつ、偉大な教育者であると、私は思っています。
退官後も、先生とは交流があり、研究会で会うたびに、「田澤君、今は何を研究しているのか」と問われ、こちらが研究していることについて話をすると、その分野の示唆を与えてくださる先生でもありました。
たまたま、佐久に別荘を造られ、そのことでお手伝いをしましたので、先生が佐久の別荘においでになると、必ず顔を出すことにしていました。その折りには、奥様も交えて、様々な話をしましたが、機会があれば、また、記すことにします。
岩村田高校で担任をしていたときには、私のクラスで、2度にわたり、生徒に講演をしていただきました。その内容が、本書の表題に関わる内容でした。
当時の教え子たちが、この校長日記を読んでいるとしたら、そのときのことを、どのように覚えているか、また、その後の人生にどのような影響を与えられたか、気になるところではあります。
以下の本は、先生の遺稿集です。この中にも、岩高での講演の内容が含まれています。
私も、先生の書かれた信州関係の論考整理に少しでしたが、協力しました。
ここで、本校の生徒諸君に、申し上げたいのは、大学というところで、是非、先生方や友人と学問的な交流をもってほしいと思うのです。アルバイトとサークル活動で、大学生活が終わったということのないようにお願いしたいものです。
先日、何人かの教育実習生の先生方が、電話をしてくださったり、わざわざ教生の授業を見にいらっしゃったのには、正直驚きました。密かに、先生方とよき交流をしているのだなぁとも思いました。そんな学生のことを思ってくださる先生のいる大学に、進んでほしいものです。
本日は通常授業。2学年男子の内科検診が午後ありました。放課後の様子は、前述の通りです。
私は、4名の先生方と面談を行いました。
話は変わり、昨日の放課後、3年生の教室を回ってみました。日輪祭の準備をしていました。楽しそうでしたよ。「やるときはやる」、これが大事なことです。写真を撮って回っていると、「校長先生、新聞記事読みましたよ。」と何人かの生徒に声をかけられました。高校生も、私の記事を読んでいることに少し驚きました。「ありがとう。これからも、北高のことを書くからね。」と言いながら、写真を撮らせてもらいました。
午後になり、岡学園トータルデザインアカデミー長野プロデュース科推進室アドバイザーの倉田先生が、校長室にいらっしゃいました。倉田先生は、諏訪に勤務していたときに、諏訪実業高校の校長先生でして、清陵の石城校長と3人で、諏訪市内をはじめ、諏訪圏域の高校の発展のために、何かと相談した仲でした。今回、学校の宣伝にお見えになったわけですが、しばし、様々な話をさせてもらいました。
懇談中、生徒が2名、校長室を訪ねてきて、「合唱コンクールの審査員」を依頼されました。すかさず、倉田先生が、「田澤校長先生の得意な歌は何か」と生徒たちに質問し、答えも生徒たちに話していましたが、ここでは、その点は省略します。以前と変わらず、生徒に対しても明るく接してくださる倉田先生、ありがとうございました。
倉田先生のご所望で記念写真を取りました。