歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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(校正中)『定家十体』考 21号版下

2024-09-21 20:00:00 | 月鞠の会
本稿は、辰巳泰子の個人誌「月鞠」21号に掲載される予定です。
21号は、年内発行を予定しております。
この稿のほかに第6号から継続している百首歌がございます。21号は、昭和クロニクルとしての「アイアン・ボトム・サウンド」を掲載。
また、随時エッセイとして、「松木靖夫さん。そして境涯詠のことなど」を掲載。
ご寄稿では、石川実(サンタ)さんの「現代説話集」の掲載があります。
小誌は、創刊号から第5号まで、個人誌でした。第6号から20号までを結社誌(主宰誌)として、ご寄稿の一部の方に実作指導を施すなどさせていただきました。
そしてこの21号(もしくは22号)から、再び個人誌になります。
ご寄稿の皆さんとの関係性を緩やかなものにするために、このようにいたします。

ひきつづきよろしくお願い申し上げます。


………………………………………………



一 はじめに

『定家十体』について一考します。
この著作物は、定家による作なのかどうか疑義が根強いそうで、視野に入れるのをためらっていたのですが、『毎月抄』を読んでいて、このうち「鬼拉の体」について述べるくだりに定家の熱意が感じられ、興味が持たれました。それにしても、「鬼を拉ぐ」とは物騒なネーミングで、和歌の体として異様に感じられたことでした。

和歌における十体とは秀歌の体であり、分類された体は、いずれも美意識のありようでなければなりません。

「鬼を拉ぐ」体の美とは?
『定家十体』には、どのような歌が、収められているのだろう……?

『定家十体』の先行作品に、壬生忠岑による『和歌体十種』があります。壬生忠岑は『古今和歌集』撰者の一人。この忠岑十体に、「鬼拉の体」のような、物々しい名前の体はありません。

しかし室町時代になると、芸能の美のあり方の一つに「鬼」の項目が加わります。世阿弥は能楽を学ぶ者に他の芸能を習うことを禁じる一方で、「歌道は風月延年のかざりなれば、尤もこれを用ふべし」としています。すなわち、能楽以外の芸能で、和歌だけは学び習うのがよいとし、「物学条々」自体にも、九品十体の趣があります。そして「物学条々」において、鬼の演技のあり方を指導しているのです。
『定家十体』は、世阿弥の「物学条々」に先行します。定家の書いた『毎月抄』もまた、初心者への指導書として先行します。
そこで私は、世阿弥の「鬼」の美意識には、定家が「鬼拉の体」において表現しようとした美的概念が、反映されているのかもしれないと考えました。


  〈まづ、本意は強く恐ろしかるべし。強きと恐ろしきはおもしろき心には変はれり。〉〈ただ鬼のおもしろからむたしなみ、巌に花の咲かんがごとし。〉


世阿弥は、鬼の本意は、強く恐ろしいことだといいます。そして、恐ろしいことと趣のあることは、全く重ならないといいます。真実の鬼を、あまりにそのものらしく演じたら、恐ろしいために趣がなくなる。しかし、本意の恐ろしさを演じながらも趣があるとしたら、それは、巌に花の咲くような、滅多にないことだろうと。

この言に、定家の美意識が吸収されているとしたら、定家は、いかなる美意識をもって、「鬼を拉ぐ」体を考え出したのでしょうか。



二 『毎月抄』の十体構想

『日本歌学大系』の『定家十体』と、その例歌数を掲げれば、次のようになります。

「幽玄様」…五八首。「長高様」…二一首。「有心様」…四一首。
「事可然様」…二六首。「麗様」…二四首。
「見様」…十二首。「面白様」…三一首。「濃様」…二九首。
「有一節様」…二六首。「拉鬼様」…十二首。


定家は、『毎月抄』で、次のように述べています。


A 〈もとの姿と申し候は、勘へ申し候ひし十躰の中の幽玄躰・事可然(ことしかるべき)躰・麗(うるはしき)躰・有心(うしん)体、これらの四つにて候べし。〉〈ただ素直にやさしき姿をまづ自在にあそばししたためて後は、長高(たけたかき)躰・見(みる)躰・面白(おもしろき)躰・有一節(ひとふしある)躰・濃(こまやかなる)躰などやうの躰はいとやすき事にて候。鬼拉(きらつ)の躰ぞたやすくまなびおほせ難う候なる。それも練磨の後はなどかよまれ侍らざらむ。〉〈先哲のくれぐれ書き置きける物にも、やさしく物あはれによむべき事とぞ見え侍るめる。げにいかに恐ろしき物なれども、歌によみつれば優に聞きなさるるたぐひぞ侍る。〉

大意…「幽玄体」「事可然体」「有心体」「麗体」が基本の様式。これらを体得してから長高体・見体・面白体・有一節体・濃体などその他の様式を詠むのはたやすい。「鬼拉の体」だけは習得が困難だが、基本ができていれば、詠めないことはない。偉大な先人のいうように、和歌は優美にしみじみとした味わいに詠むべきものであろう。どんなに恐ろしいものでも、歌に詠めば優美に聞こえてくるということはある。


B 〈さても、この十躰の中に、いづれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず。きはめて思ひ得難う候。〉〈また、恋・述懐などやうの題を得ては、ひとへにただ有心の躰をのみよむべしとおぼえて候。この躰ならでは宜しからぬ事にて候べきか。〉

大意…「有心体」以上に、和歌の本質である体は存在しない。この体は、とても体得しがたい。また、恋や述懐のような題では、ただひたすら有心の体として詠むのがよい。この体でなければよろしくないといってもいい。


C 〈さても、この有心躰は余の九躰にわたりて侍るべし。その故は、幽玄も心あるべし、長高にもまた侍るべし。残りの躰にもまたかくの如し。げにげにいづれの躰にも、実に心なき歌はわろきにて候。今この十躰の中に有心躰とて列ね出だし侍るは、余躰の歌の心有るにては候はず。一向有心の躰のみさきとしてよめるばかりを、選び出だして侍るなり。いづれの躰にても、ただ有心の躰を存ずべきにて候。〉

大意…この有心体は他の九体にも及んでいる。幽玄体にも心がなければならないし、長高体にも心がなければならない。残りの体もまた、そうである。まったくどの体でも、心のない歌はよくない。この十体に、有心体として並べてあるものは、他の九体の、どの体にも属さないからで、ひたすら心があるばかりに詠んだ歌を選び出したのである。どの体でも、有心でなければならない。


D 〈さきに記し申しにし十躰をば、人の趣を見て授くべきにて候。器量も器ならぬもうけたるその躰侍るべし。或いは幽玄の躰をうけたらむ人に鬼拉の躰をよめと教へ、また長高様得たる輩に濃体をよめと教へむ事はなにかよかるべき。〉

大意…これまでに述べた十体は、その歌人の素質をみて指導するのがよい。器量のある人もない人も、自分に見合った体がある。幽玄の体を得意とする人に鬼拉の体を詠めと教えたり、長高体を得意とする人に濃体を詠めといったりするのは、よい指導であるはずもない。


『毎月抄』のこれらの記述から、『定家十体』が本人の手で構想されたことは、間違いがないでしょう。定家は、どのような意味において、「鬼を拉ぐ」としたのでしょう。
文章Aの後半は、「鬼拉の体」を中心とした文脈を形成しており、「恐ろしき物」とは、その題材をいうと見当をつけられます。そして、恐ろしいものを「優美なさまに詠んだ歌」が「鬼拉の体」の成功作であろうことにも見当がつけられます。加えて文章Dでは、「鬼拉の体」が「幽玄の体」と対比されていることから、この二者は、その意味合いが真逆であるととらえることができます。すなわち、「幽玄の体」をとらえることが、「鬼拉の体」をとらえる手がかりとなりそうです。
定家は、文章Bで〈さても、この十躰の中に、いづれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず。〉と述べ、有心体に、和歌の究極の本質を見ています。そして文章Cでは〈さても、この有心躰は余の九躰にわたりて侍るべし。〉と述べ、ここから『定家十体』のそれぞれの体は、べたっと同じ次元に並べられているのではなく、序列ないしグループ分けされていることがわかります。私は、「有心」という大きな集合のなかに、すっぽりと、それぞれの体の集合があると考えることで得心がいきました。つまり、有心という大きな集合があって、そのなかに、秀歌である他の九つの体のそれぞれの集合が、含まれるのです。そして、秀歌でありながら他の九つのどの体にもあてはまらない、すなわち「有心でしかない」の歌を、十体分類上での「有心体」としていると、私は考えました。



三 異様の体

まず、『定家十体』上で、「拉鬼様」「鬼拉の体」とされた歌に、どのような共通点があるのかを見ていきましょう。
『定家十体』の「拉鬼様」12首を、便宜上、作者ごとに並び替えたものが以下です。さらに、『新古今和歌集』入集歌に★印、原歌を含め『万葉集』入集歌に☆を付けました。


・天神御歌(菅原道真)
★ながれ木とたつ白波とやく塩といづれかからきわたつみのそこ

『新古今和歌集』では「雑歌下」に入集。「ながれ木」と「白波」は海水に浮かんでいるもの、「やく塩」は浦にあるもの。そのどれが塩からいかといって、どれも、「わたつみのそこ」に沈んではいません。つまり、道理が立ちません。
宇多天皇の時代、唐の国情が思わしくないため、菅原道真の案によって遣唐使が廃止されました。その後、醍醐天皇の時代に逆臣の汚名をきて道真は失脚、左遷。道真は大宰府という異郷で孤独のうちに絶命しました。道真の死後まもなく、醍醐天皇は、日本で最初の勅撰和歌集『古今和歌集』を編むよう紀貫之らに下命し、道真の歌は、二首しか入集しませんでした。道真は、和歌も漢詩もその才能は当代一流でした。それが、非業の死を遂げたあとにまで、『古今和歌集』にことごとく落とされたのです。それからというもの、都にさまざまの怪異・天変地異が発生しました。これらを鎮めるために、朝廷は、道真を、天神として祀るようになりました。
この歌は、道真が、配流の地での自らの苦境を詠んだとされています。道真は、道理の立たないまでに、ありえない苦しみを味わっていたのでしょう。自分はどん底に沈められているのだと、ネガティブな感情の極限が映しだされて、恐ろしい感じがします。


★あしびきのこなたかなたに道はあれど都へいざといふ人ぞなき

『新古今和歌集』では「雑歌下」に入集。「あしびきのこなたかなた」とは、山の中のけものみちでしょう。そのどの道も、都へとはつながらない。さあ京へ帰りましょうと、手を差し伸べてくれる人がいないのですから。樹海を独り徘徊するような精神世界を描いて、この歌も、ネガティブな感情の極限を詠んでいます。


・大伴家持
★☆唐人(からひと)の舟をうかべて遊ぶてふ今日ぞわがせこ花かづらせよ

曲水の宴を詠む歌。『新古今和歌集』では「春歌下」に入集。原歌は『万葉集』の「からひともいかだ浮かべて遊ぶといふ今日ぞわがせこ花かづらせよ」。もとは万葉歌ですから、「から人」のニュアンスは、文化と技術をもたらす優秀な外国人。万葉の時代の人々は、外国人を、宮廷生活の身近に感じていたでしょう。しかしながら、国風文化の時代を経て新古今の時代の人々に、このような情景は現実のものではありませんでした。つまり、この歌が選ばれるのは、おおらかだった万葉の時代への憧憬が本意でしょう。「恐ろしき物」は、どこにも見当たらないといえます。


・聖武天皇御製
立田河もみぢみだれてながるめりわたらば錦なかやたえなむ

『古今和歌集』の「秋歌下」に「よみ人しらず」として、平城天皇の御製である可能性を示しつつ入集。御神渡りを想起させます。定家が、『古今和歌集』で秋歌に入れてあるものをわざわざ拉鬼様に入れたのは、『古今和歌集』への抵抗でしょうか。あるいは、秋歌とされていることへの抵抗でしょうか。この歌に、神霊による何らかの奇蹟が詠みこまれていると見てとったのであれば、定家のいう「拉鬼」には、超常的、超自然的なニュアンスがこめられていたかもしれません。


★☆妹に恋ひ和歌の松原見わたせば潮干の潟にたづ鳴きわたる

『新古今和歌集』では「羇旅歌」に入集。旅の途中で、妻が恋しくなって和歌の松原を見わたせば、鶴(作者の妻)も夫(作者)を待つのか、恋しい恋しいと、鳴きながら浦を渡っていくというのです。妻を「妹」と呼ぶのはいかにも万葉歌。「わかのまつばら」に先行作品〈わが背子をあが松原よ見わたせば海人乙女ども玉藻刈る見ゆ〉(『万葉集』三野石守)が重ねられ、「吾(ここでは妻に成り代わっていうのでしょう)が待つ」の「わが」という濁音を追加してくるからです。濁音の多さも万葉歌ならでは。


・後京極(藤原良経)
★濡れてほす玉串の葉の露霜に天照る光幾代へぬらむ

『新古今和歌集』では「賀歌」に入集。「玉串の葉(たまぐしのは)」は「櫛の歯(くしのは)」を隠しています。「玉串の葉」も隠し置かれた「櫛の歯」も「天照る光」も、強力な霊的浄化の象徴であり、この浄化力によって「賀歌」に分類されているのでしょう。であればなおさら、「鬼を拉ぐ」などという血なまぐささと相容れません。定家はなぜ、美的概念を示す体の一つに、このような血なまぐさいネーミングをおこなったのでしょうか。


・慈円
明けばまづ木の葉に袖をくらぶべし夜半のしぐれよよはの涙よ

夜が明けたら、比べてみよう。夜のあいだ、冬の冷たい雨に濡れて紅葉を深めた木の葉と、私の血の涙に濡れていた袖とを。どちらがより赤く染まってるだろう。この歌が「鬼を拉ぐ」のは、「血の涙」が詠まれているからでしょうか。それだけなら恋の歌の多くが鬼を拉ぐことになってしまうでしょう。この歌の型破りなところは、ふつう上の句で「木の葉→露」と叙景し、下の句で「袖→涙」と抒情するのに、上の句で「木の葉」「袖」と濡らされるものをまとめ、下の句で「しぐれ」「涙」と濡らすものをまとめているところです。こうした言葉の繰り出し方は、破戒的です。歌の意味ではなく型破りの構成に、定家は、「鬼を拉ぐ」ものを見たのでしょうか。


・よみ人知らず
★☆神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に

『新古今和歌集』では「羇旅歌」に入集。原歌は『万葉集』。夫の旅寝を妻が案じています。伊勢の国では荒々しく吹く神風が、浜の荻をぼきぼきと折って、夫に寝所を用意するでしょう。でも、そんな強い風の吹く浜辺で、愛する人が安らいで眠れているとは、とうてい思われない。「神風」「荒き」といった言葉に「恐ろしき物」が見えますが、主題は「神風」ではなく、夫の旅寝を案じる妻の繊細さでしょう。そこへ「神風」のような、とびきり強そうな言葉を織りこんだことを、『新古今和歌集』、また『定家十体』では、それを一つの工夫とみて評価したということでしょうか。


・神祇伯顕仲
★かもめゐる藤江の浦の沖つ洲に夜舟いさよふ月のさやけさ

『新古今和歌集』では「雑歌上」に入集。十六夜の月のでる時間帯ですから、すっかり暗いはず。ですので、「かもめゐる」は、沖の中州にかもめのねぐらがあるという意味で、かもめをこの目に見ているわけではないのです。しかし、このように初句に置かれることで、その白い形象が、まず脳裡に浮かびあがります。十六夜の月に照らされ、きらきら輝く海面と、かろうじて目視できる遠くの釣り舟と。あえて冒頭に「かもめゐる」と形容することで、現実の光景と、真っ白なかもめの飛翔する絵が二重にクロスします。この幻想的な光景に、「恐ろしき物」を見たというのでしょうか。


・藤原家隆朝臣
★思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風

『新古今和歌集』では「恋歌四」に入集。「かねごと」は約束事。すさまじい山風がきのうまでの雲を跡形もなく吹き散らし、過ぎ去っていきました。山風とは台風ですから、最大級に強く恐ろしい風。去ったあとは、そこかしこに爪痕を残します。それとおなじように、心に深い傷を負わされて、恋が終わっていきました。恋の終わりは、恨みに恨んで、血の涙を流し、身を揉むようにうたうものです。それなのにふっきれて、爽やかですらあります。未練をも取り払ってしまう「山風」のはげしさに、「鬼を拉ぐ」強さを見たということでしょうか。この山風は、はかないものをかき消してしまう非情さよりも、解放感や嵐のあとの蒼天の爽やかさが際立って、印象的です。
この歌は、『毎月抄』文章Aにある〈先哲のくれぐれ書き置きける物にも、やさしく物あはれによむべき事とぞ見え侍るめる。げにいかに恐ろしき物なれども、歌によみつれば優に聞きなさるるたぐひぞ侍る。〉の記述に、合致します。

・能因法師
★ねやの上に片枝さしおほひそともなる葉びろ柏にあられ降るなり

『新古今和歌集』では「冬歌」に入集。寝所を覆うように片枝を差し出し、外にも柏の広い葉が張り出している。その葉をめがけるように、氷雨が音を立てて降ります。寝所にいるのですから、夜でしょうし、あられですから氷の粒で、葉にあられの当たる音が寝つこうとするところを責め立てている気がします。でもそれは、拉鬼様と思って味わおうとするからかもしれません。作者の意図としては、音のおもしろく聴こえる景物を、誇張してあるだけではないでしょうか。「さしおほひ」「そともなる」「葉びろ」と、樹形をおどろおどろしげにわざわざいうところが、誇張なのです。誇張表現のおもしろさは、また別の体になるのではないかという気がしてきます。


・宮内卿
★片枝さすをふの浦なし初秋になりもならずも風ぞ身にしむ

『新古今和歌集』では「夏歌」に入集。「なりもならずも」は、民謡「東歌」を踏まえます。「をふの浦」の梨の実が、成ったか成らなかったかは知らないが、海辺の風が身にしみる。夏はもう終わってしまうのだな……と、耳に聴こえる感じはさらりとしていますが、べとべとした冷たい潮風に吹きつけられて、夏から一足飛びに、海辺の冬の厳しいことが予感されるのでした。民謡の素朴さと実直な生活感が、意図的に万葉調ですが、この歌も、鬼を拉ぐ強さを、どこにも見出すことができません。

このように、「拉鬼様」の例歌は、万葉調だったり、言葉の繰り出し方において破戒的であったり、意味や、惹起する感覚刺激において、恐ろしさ、強さ、はげしさ、すさまじさがあったり、あるいは恐ろしいものなど含まれもしない歌だったりしました。
一言でいって、これらの歌に一貫した美意識があるといえない状態です。
定家は、『毎月抄』に述べたように、とても恐ろしいものでも、歌にすることで自然と優美に聞こえる歌を、念頭においたはずです。
それなのに、この統一感のなさは、どうしたわけでしょう。
なぜ定家は、この体に、「鬼を拉ぐ」などという血なまぐさいネーミングをしたでしょうか。

私たちが物事の分類を試みるときには、まずそのものがたくさんありすぎて、整理することが目的でしょう。そのとき、共通点のあるものをまとめるのが、分類という行為です。
入れ物を並べ、内容にあったラベルを意識します。それから、入れ物に対して内容物が多くなりすぎるとき、さらに分けたり、少なくなりすぎるとき、まとめたり、バランスを考え配分します。そして、バランスを考えるうちに、そのものについてもよく吟味しますから、分類の概念もまた、ブラッシュアップされていくのです。
「有心体」を例にとりましょう。『定家十体』では、「有心」であることはすべての秀歌に共通するとし、「有心」を一つ上の階層に掲げました。そのうえで、他の九体のどれにも属さない、ひたすら心があるばかりの歌を「有心体」というのだと述べるところに、分類の概念を吟味にかけたことがうかがえます。
その一方で、「鬼拉の体」はどうでしょう。初めに歌ありきではなく、初めに入れ物とその名前ありきの感が拭えません。
『毎月抄』文章Aの〈先哲のくれぐれ書き置きける物にも、やさしく物あはれによむべき事とぞ見え侍るめる。げにいかに恐ろしき物なれども、歌によみつれば優に聞きなさるるたぐひぞ侍る。〉の記述によれば、定家は、ただ恐ろしいばかりのものが歌にすると優美に聞こえる、そういう歌を格納しようと思っていたはずでした。
すると、やはり、家隆〈思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風〉が、手がかりになってきます。定家は、この歌を、他の歌の叙情のあり方と一つにはまとめられないと思い、この一首を取り立てて、中心とした入れ物をこしらえようとしたのではないか。それなのに、異様な名前の入れ物を用意したばかりに、統一感をなくしていったのではないでしょうか。
そして、誂えた入れ物のネーミングの物々しさに、ある種の自己顕示欲を見てしまうのは、私だけでしょうか。



四 『幽玄様』の問題点

『定家十体』の、その他の体は、どうでしょうか。「鬼拉の体」のような不統一感、ネーミングの不自然さなどがあったりしないでしょうか。
ここでは、藤平春男氏の校注訳(『毎月抄』『新編日本古典文学全集』小学館)をもとにしています。さらに、他の体の意味合いについて、同書における藤平春男氏の校注を引用します。

・幽玄体…〈俊成の用い方とほぼ同じで余情美の一様相で、崇高への志向性を持つ優美の特殊相〉。
・事可然体…〈意味内容がなるほどと思われるようなものであること。意味的説述性の確かさの感じられる詠風〉。
・麗体…〈一首の表現上の均斉感・調和感の目立つ詠風。整った表現〉。
・有心体…〈深い歌境への沈潜の感じられる詠風〉。
・長高体…〈声調の緊張を保った流麗感が強く感じられる詠風〉。
・見体…〈視覚的な描写性の目立つ詠風〉。
・面白体…〈題に基づく場面構成(趣向)が知性的に巧みに行われている詠風〉。
・有一節体…〈着想の珍しさの目立つ詠風〉。
・濃体…〈複雑な修辞技巧によって情趣美を濃厚ならしめている詠風〉。


『毎月抄』で、基本の体に挙げられたのは、「幽玄体」「事可然体」「麗体」「有心体」の四つです。
藤平氏の校注を、現代短歌の実作になぞらえると、「事可然体」とは、意味において明確な叙述のさまを示す体でしょう。
「麗体」が示しているのは、表現上の欠点がなくそれなりに趣のあるさまでしょうか。
「有心体」は、やはり「心がある」体。
現代人は、これら三つを価値観として共有できそうです。
基本の四つの体のうち、これら三つの体と違って、現代人に、それを美ととらえきることが難しいのは、「幽玄体」の「崇高への志向性」でしょうか。
「幽玄」の美は、あくまでも、物質の滅びを前提としています。平安中期以降、仏教的無常観に裏打ちされた美的概念として、滅びるものの美、はかないものの美を「幽玄」というようになりました。定家の父俊成は、そのものの消えたあとに残る情感、余韻を「余情」として、価値を見出しました。定家はさらに、無常のうちの一瞬の輝きを「妖艶」としました。
現代人は、換金価値こそ価値と考えており、いわば物質至上主義です。滅びの美など、現代人の価値観と真逆のところにあるでしょう。
そのようにして現代人の価値観と異なる、『定家十体』の「幽玄様」にある歌が、どのような歌であるかを特徴づけて示したいのですが、次のような理由により、この体もまた、何者かによって加筆を受けたのではないかとの疑義を持たざるを得ないのです。

まず、他の体に比べて歌数が多すぎること。
加えて、定家本人の選とするには、作者名の分布に疑問が持たれること。

「幽玄様」は美的価値の基本であり、定家自身、この体に思い入れをもっています。
「幽玄様」に入った最多は、俊成女の5首で、次点は4首。内訳は、柿本人麻呂と藤原秀能。父俊成2首、家隆3首、式子内親王3首、西行3首。ここが不自然なのです。人麻呂は偉大な先人であり、多く入っていても不思議はありませんが、秀能は、後鳥羽院の近従として知られた歌人です。後鳥羽院は定家より18歳若く、秀能はさらに若く後鳥羽院より4歳年下です。院と秀能は、単に主従というだけでなく、世代的にも深く共感を寄せ合ったでしょう。
それに比べ、後鳥羽院と定家との蜜月は、決して長くはありませんでした。『新古今和歌集』の完成をみる頃には、竟宴の開催をめぐって温度差がすでにあり、やがて、歌そのもののことでも互いの考えが行き違うようになりました。定家は、ついに後鳥羽院から勅勘を受け、蟄居中に承久の乱が勃発、その頃の定家は、『後撰和歌集』定本(子々孫々に残すための書写本)を作成していました。『定家明月記私抄』(堀田善衛著 ちくま学芸文庫)によると、定家は、その奥書で承久の乱を指し、「紅旗征戎吾事ニ非ズ」(『白氏文集』)を引用しています。『明月記』の治承4年にも、源平の争乱を背景に「紅旗征戎吾事ニ非ズ」を引用しており、戦争とはよほど距離を置きたかったのでしょう。
そのうえ定家は、家意識、身内意識の強い人です。院近従であるうえ承久の乱とも関係する秀能の歌を、自分の身内よりも多く取り挙げる理由がありません。さらにいえば、後鳥羽院その人の歌が『定家十体』に入っていません。それなのに、近従の歌がこのように多いのは、不自然すぎます。
『定家十体』は、承久の乱の以前に定家本人によって構想された。成立は、乱と相前後する。これらのことは、確かでしょう。しかしそのすべての歌が、定家本人の選であると考えにくいのは、「幽玄様」が最たるものです。
いずれにせよ、『定家十体』に挙げられた歌のなかから、定家本人によって挙げられた可能性の高い歌を、探し出さなければなりません。



五 『定家十体』の検証

定家本人によって、『定家十体』構想の所期に挙げられた可能性の高い歌を、いかにして、探し出せばよいのでしょうか。
『定家十体』にひもづけて書かれた『毎月抄』とほぼ同時期の、別の著作物で、定家本人が秀歌として認めていた歌であれば、構想所期の『定家十体』にも、積極的に採り入れていた可能性が高いのではないでしょうか。

㋐ 『定家十体』と『近代秀歌』の異同を見る。
定家本人が『定家十体』に明確に触れているのは、『毎月抄』においてです。『毎月抄』は、宛所などに不明点があるものの、1219年7月2日に書かれたことがわかっています。であれば、定家が『毎月抄』で示している「十体」の価値観とは、『毎月抄』の頃か、もしくはその以前の秀歌例に示した価値観でしょう。すると『近代秀歌』(1221年頃に成立。原形本は1209年とされる。承久の乱は1221年。)が、『毎月抄』の頃か、もしくはその以前の秀歌例にあたります。

㋑ 『定家十体』と「小倉百人一首」との異同を見る。
定家の編んだ秀歌例には、『近代秀歌』のほか、承久の乱後の成立とされ梶井宮尊快親王へ献進するために書かれた『詠歌大概』などがあります。『詠歌大概』については、〈『近代秀歌』の前半を占める和歌史批判の論が欠けており、定家の開拓、「者的な主体的志向が影をひそめている点は看過できないであろう。〉(藤平氏による同書解題)という見方があるため、定家一人の好みでしがらみなく選ばれている、晩年の「小倉百人一首」との重なりをみていくのがよさそうです。『定家十体』の歌でまず『近代秀歌』と重なる歌、「小倉百人一首」と重なる歌、手がかりが不足するようなら『詠歌大概』にも選ばれている歌であれば、『定家十体』に後から継ぎ足された歌であったとしても、本人の手による継ぎ足しである可能性をみることができ、定家の主体性が維持されるからです。

では、『定家十体』のそれぞれの体について、『近代秀歌』にある歌(○)と『小倉百人一首』にある歌(●)、晩年の秀歌選である『詠歌大概』にあるもの(▼)を以下に掲げます。『近代秀歌』については、「八代集選抄」、及び原形本「付録」を併せた九二首を照合に用いました。

・( )内の算用数字は全体の歌数。「幽玄様」は全五八首ということ。
・○…『近代秀歌』にあるもの。
・●…「小倉百人一首」にあるもの。
・▼…『詠歌大概』にあるもの。

幽玄様(58)
●わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ  元良親王
○思ひ川たえず流るる水の泡のうたかた人にあはで消えめや  伊勢
○●有明のつれなく見えしわかれよりあかつきばかり憂きものはなし  壬生忠岑
○●秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ  天智天皇御歌
○さを鹿のつまどふ山の岡辺なるわさ田はからじ霜はおくとも  人麻呂
○わくらばにとふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶと答えよ  在原行平
○●今こむといひしばかりに長月の有明の月をまちいづるかな  素性
○●花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  小野小町
○つつめどもかくれぬものは夏草の身よりあまれる思ひなりけり  よみ人しらず

長高様(21)
●このたびはぬさもとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに  天神御歌
○かづらきや高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てややみなむ  顕輔

有心体(41)
●玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする  式子内親王
○●ながらへばまたこの頃やしのばれむうしと見し世ぞいまはこひしき  清輔

事可然様(26)
○すみわびて身をかくすべき山里にあまりくまなき夜半の月かな  俊成
○▼あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風たちぬ宮城野の原  西行(新古今・秋上)
○▼かぎりあれば今日ぬぎすてつ藤衣はてなきものは涙なりけり  道信
○▼あけばまた越ゆべき山の嶺なれや空行く月のすゑの白雲  藤原家隆(新古今・羇旅)

麗様(24)
○うづら鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮れ  源俊頼
(→『近代秀歌』では最も年代の早い原形本で、「幽玄の面影かすかにさびしきさまなり。」とある。)
○●立ちわかれいなばの山の峯におふる松としきかば今帰り来む  在原行平
○さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫  よみ人知らず
●君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ  仁和御門御歌

見様(12)
●村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ  寂蓮

面白様(31)
○●憂かりける人をはつせの山おろしはげしかれとは祈らぬものを  源俊頼

濃様(29)
○●月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど  大江千里
●わたのはら八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよ海人の釣り船  小野篁

有一節様(26)
○立ちかへりまたも来てみむ松島やをじまのとまや波にあらすな  藤原俊成
●瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれてもすゑにあはむとぞ思ふ  崇徳院


拉鬼様(12)
○思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風  藤原家隆


ここからわかることは、『定家十体』は、肝心の『近代秀歌』と、驚くほど重ならないということ。
価値観や嗜好は人にひもづき、短期的な変化で変動しにくいものです。秀歌選が、純粋に文学的な動機で、同じ一人の作者のもとで編まれていたのであれば、だいたい近い年代にある秀歌選とも、よく重なるはずなのです。
重なる歌の少なさを考えると、『定家十体』の全体像は、定家以外の誰かが後年に継ぎ足した可能性がやはり、浮上してきます。
そして、少ないながらも、『毎月抄』で定家が各体について触れるときには、「○」が付いた歌、すなわち『近代秀歌』と重なる歌が念頭にあった可能性が高いと見てよく、つまり、「○」が付いた歌は、定家自身による十体分類を受けた可能性が高いということです。
拉鬼様(鬼拉の体)についていえば、『毎月抄』の美意識と合致する「思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風」の一首が、『近代秀歌』の選と重なるため「○」を付けられます。定家本人の選によるものでしょう。定家が、『定家十体』に「拉鬼様」にまず格納したのは、やはり、この歌ではないでしょうか。



六 「鬼を拉ぐ」というネーミングの背景

ここでは定家が、古人の十体考の先行作品からかけ離れて、「鬼拉の体」という異様のネーミングを着想した背景を考察します。

①超自然への親和性
久保田淳氏は、『新古今歌人の研究』(東京大学出版会)のなかで、〈おそらく、かれが最初に経験した歌合らしい歌合として、我々はやはりこの別雷社歌合を挙げねばならないであろう。〉として、次のように記します。
賀茂別雷社歌合は一一七八年、定家が十七歳のときでした。定家は、次のような歌を詠んでいます。

   霞
神山の春のかすみやひとしらにあはれをかくるしるしなるらむ

   述懐
ふかからぬ汀にあとをかきとめてみたらし川を憑むばかりぞ

奉納歌合ですから、神様をたたえる歌を、誰でも詠みますが、定家はここで「神様が、ひそかに(自分に、あるいは自家に)なさけをかけてくださるに違いない」と詠んでいるのです。「霞」の題ですと「賀茂社頭に霞を配することによって神威を高めようという意図に留ま」るのが一般的であったなか、定家一人、神様のご内心にまで踏みこんで具体的な期待を表出していることに、久保田氏は着目し、次のように述べました。

  〈述懐の歌が賀茂の神慮を憑む心をうたっているのは、奉納歌合の性質上当然であろう。けれども、霞の歌においても「神山の春の霞」と見て、神の庇護を期待する心を表白していることに、我々は注目してよいと考える。〉〈のびのびと単純な叙景歌としてこの題を消化しそうな十七歳の青年である定家だけが、『ひとしらにあはれをかくる』と詠んでいるのである。〉

それから、一二〇〇年。定家が三九歳のときです。
定家は、『正治二年院初度百首』なる百首歌詠進の選に漏れました。その際、家の日記(『明月記』七月二六日)に怒りをぶつけ、八月一日、北野天満宮に起請。天満宮といえば天神社、菅原道真を祀る社です。そこへ「祈願申事」がありました。その後、俊成から後鳥羽院へと丹念になされた『仮名奏状』なる嘆願があって、九日には定家の望みがかなうこととなりますが、定家は、十三日、重ねて北野天満宮に参詣。「自歌一巻」を奉納し、久保田氏の訓読をもとにすると「先日参詣、心中の祈願已に以て満足、仍りて重ねて詠進する所なり」というのです。(『藤原俊成 中世和歌の先導者』久保田淳著 吉川弘文館)
ここで氏は、〈一日参詣した時、起請したのは、やはり百首作者に加えられるようにとの祈りであったと知られる〉としています。「起請」とは、単にお祈りするのではなく、起請文を書いて誓いを立てることで、その誓いを破ったときは神罰を覚悟するというものです。
また、同書年表には、定家が一二〇三年三月、七日に『新古今和歌集』の撰歌奏進を指示され二九日に北野天満宮に参詣し、撰歌のことを祈念していたことが記されています。
定家が、神を身近に感じ、自分の味方をしてくれるものと信じていたことがうかがい知れます。
とはいえ、定家だけではなく、この時代、和歌を神社に奉納する行為は、誰の手によっても非常に頻繁になされていました。『古今和歌集』序にも、スサノオノミコトの詠まれた「八雲立つ出雲八重垣妻こめに八重垣つくるその八重垣を」を和歌の起源としていますから、和歌は、仏教伝来の以前から、日本古来の神々と結びつくものと考えられてきました。

写本学の提唱者・藤本孝一氏は、「国宝『明月記』と藤原定家の世界」の「第九章 本地垂迹説からの独立と古今伝授」において、古代から中世にかけての神道と仏教との関係を概括し、次のように述べます。

  〈一般的な神道理解は、アニミズム(animism)といわれる山や川などの自然や自然現象に霊が宿るという原始宗教的な要素が強い。神道は、自然界に八百万の神が居り、その神が暴れると災害等が起きると考え、その神を鎮めることを目的にしていると思われる。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社である。〉

ここで、心に留めておかなければならないことがあります。それは、当時の祈りの質実が、現代と違ってどうだったかということ。抗生物質もワクチンもない、電気もガスも農薬もない時代に、人々は何を祈ったでしょうか。現代とは計り知れない隔たりがあったでしょう。
『病悩と治療』(瀬戸まゆみ著 倉本一宏監修 臨川書店)が、王朝時代に処方された薬名を挙げています。内科的には、生薬やスパイスの他に柿、大豆、蓮など。外科的には、患部に溜まった悪血をヒルに吸わせるなど。三条天皇が抜歯を受けていますが、王朝時代の医療行為の最高水準とは、このようなものでした。その他には、病魔退散をひたすら祈祷するしかありませんでした。
思うようになることなぞありはしない時代、人々は、ことあるごとに神威をたたえ感謝を示しました。つまり、人々は、超自然的な存在を、現代人よりはるかに畏れ敬い、暮らしていたはずです。
そんななかで、定家は、自分が取り立てられますように、自分の家が栄えますようにといった生々しい現世利益を、和歌に託して願うのです。定家の宗教的態度は、神様は願えば叶えてくれるものだという、あまり畏まる気配のない、一方的な親しみの態度であったともいえるでしょう。
定家は、超自然に対し誰もが持つような距離感を、持たなかったのではないか。それは、一方的かもしれなくても、自己に疑問を持たずにいられる親和性です。それゆえに「鬼拉の体」なる、超自然めかした名前の体を着想したのではないかと考えます。

②ブランディング
定家が、「鬼拉の体」という異様の体を着想した背景に、ライバルであった六条藤家から線引きしたいという願望、ブランディングの野心があったのではないでしょうか。
定家は父俊成から、父に早逝された俊成は歌の師である源基俊から、和歌の手ほどきを受けています。当時、和歌のバイブルであった『古今和歌集』の解釈をどうするかが、すなわち「古今伝授」をどうするのかが、和歌の家では一大事でした。「古今伝授」とは、『古今和歌集』の解釈を、仏教的世界観からいったん切り離し、神道的に解釈し直そうとするものです。ここで大切なことは内容ではなく、「うちはこうする」という、その家なりの形式でした。定家は、神に誓う儀式として古今伝授をさらに神事化しています。源基俊から始まったとされる古今伝授は、六条藤家、そして御子左家でもおこなわれるようになります。ライバル同士の両家は、歌合の場などで、何かにつけて火花を散らしました。

藤本氏は、「国宝『明月記』と藤原定家の世界」や「本を千年伝える」において、古今伝授はまだ血縁上の一子相伝に限らなかったことを示したうえで、定家が、嫡男為家への古今伝授の際、為家に起請文を書かせたばかりでなく、為家もまた、雅有に伝授の際、起請文を書かせたことを取り上げます。そして、定家に始まる、古今伝授の際に起請文を書くというアクションが、これよりさらに後代に及ぼした影響の大きさを訴えます。
藤本氏は、定家が、和歌を神道と結びつけることによって古今伝授を、ひいては家なり自己なりをブランディングしたと述べています。

〈歌人の定家は、和歌が神との通話の言葉であったことを認識していた。鎌倉時代中期以降、定家は、伊勢神宮に対して起請文を書くことにより、『古今和歌集』の源基俊の注釈から選び、神道解釈をした切紙を用いて古今伝授を秘伝化にした歌人として認識されていたと思われる。〉(「国宝『明月記』と藤原定家の世界」)

ブランディングについて、私は、以下のように考えました。

まず、御子左家に先んじて、六条藤家が自家をブランド化していました。定家は、これに対抗したと思えるのです。
佐佐木信綱氏の『日本歌学大系』解題によると、源道済『和歌十体』の全部を、歌論書『奥義抄』(1124~1144年)は引用します。『奥義抄』の作者は、六条藤家の歌学を確立した藤原清輔です。道済の十体は、壬生忠岑の『和歌体十種』に倣います。これらのことから、六条藤家では、『和歌体十種』の系譜をテキストとして重んじたととらえられます。壬生忠岑は『古今和歌集』撰者の一人ですから、六条藤家は、自家を『古今和歌集』の系譜におくことで、和歌の家としてのブランドを確立したのです。
そして『和歌体十種』は、古歌体[古体]、神妙体[神妙]、直体[直体]、余情体[余情]、写思体[写思]、高情体[高情]、器量体[器量]、比興体[比興]、華艶体[花体]、両方体[両方]の十体をそれぞれ五首[二首]ずつ。([ ]内は道済十体)。道済十体にも忠岑十体にも、「鬼拉の体」のような、自己顕示的な名前の体は含まれません。オーソドックスです。
早くに歌学を確立した六条藤家と違って、御子左家では、俊成の父が早逝したため傾き、後ろ盾を得るのにたいへん苦労しながら、俊成がこれを立て直しました。定家は、六条藤家が『古今和歌集』の系譜であることをアピールするのを意識し、御子左家は『古今和歌集』を超越して新風であることをアピールしたのではないでしょうか。
独自の十体構想をひっさげ、名前の目立つ入れ物で、差別化を図る。「鬼を拉ぐ」という恐ろしい名前には、神でも鬼でも借りられる威力は借りてやろうという野心が、見え隠れするように思われます。


七 各体における美的定義の考察

ここでは、『定家十体』それぞれの体の美について、考察を深めようとしています。
『定家十体』の、『近代秀歌』に採られた歌、すなわち定家本人によって壮年期までに分類されたと考えられる歌(○)と、「小倉百人一首」採られた歌(●)、晩年の秀歌選である『詠歌大概』に採られた歌(▼)を以下に再掲し、見出しを①幽玄―鬼拉の対比、②長高ー濃の対比、③基本の体、④その他の体のように分けて、『毎月抄』の記述や藤平氏の校注を参照しつつ、読みを深めていきます。

①幽玄様と拉鬼様の対比軸を考える
文章Dで、幽玄の体が鬼拉の体とが対比されています。二つの体に共有しうる対比軸とは、何でありましょうか。
次のような歌は、描かれた景物の扱いにおいて、対比されうると思われます。

幽玄様
○●有明のつれなく見えしわかれよりあかつきばかり憂きものはなし  壬生忠岑(古今・恋三)
○●今こむといひしばかりに長月の有明の月をまちいづるかな  素性(古今・恋四)
○●花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  小野小町(古今・春下)

拉鬼様
○思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風  藤原家隆(新古今・恋四)

ここには、「幽玄」美として有明の月、花。「鬼拉」の趣に風といった自然物が描かれています。
長い雨に降られ、なすすべもなく、花は見ごろではなくなってしまいました。有明の月は、夜が明ければ、日輪の輝きにかき消されてしまいます。
幽玄美は、強いものの作用に従うほかなきものの側にあります。滅びのイシューを幽玄美として実現した体が、「幽玄体」。
これに対し、「鬼拉」に描かれた自然物である風は、強く吹くことで雲を吹き払いつつも、そのもの無常の象徴です。ですので、「鬼拉」もまた「幽玄」と同様に、滅びを含みおくのです。
つまり、これら二体の対比軸とは、両体ともに滅びを扱うことにあります。
鬼拉の体は、「滅ぼす体」。幽玄の体は、「滅ぼされる体」。
詠み手が、滅ぼす者をよく描くとき「鬼拉」の詠み手となり、滅ぼされる者をよく描くとき「幽玄」の詠み手になるということではないか。
対比軸を挟んでどちら側になるかは、個人の資質によります。
そして、すべての幽玄や鬼拉の歌が、このように対比可能だというわけではないでしょう。
次の歌も、定家が主体的に、「幽玄様」に選んだ可能性の高い歌ですが、これらの歌にかき消す作用、滅ぼす作用を与えるものが登場するわけではありません。

○思ひ川たえず流るる水の泡のうたかた人にあはで消えめや  伊勢
○●秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ  天智天皇御歌
○さを鹿のつまどふ山の岡辺なるわさ田はからじ霜はおくとも  人麻呂
○わくらばにとふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶと答えよ  在原行平
○つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり  よみ人しらず

ここにあるのは、泡といい、露といい、霜といい、病葉といい、蛍といい、特に作用を与えなくても、いずれ必ず消えてなくなってしまう存在です。そのはかなさは、生命であればなおさらです。
強い作用を与えなくても、おのずから、滅びる定めにある者たち。
「滅ぼされる」美、もしくは「滅びる」美であることが、幽玄体の重要なイシューなのです。
イシューが存在するとは、すなわち、その美のなかに、逃れがたい定めをいかに受け止めるかいう問いが存在するということです。
生命は、滅びの定めから逃れることができません。千年昔の蛍も、平安貴族も、現代人も、時空を超えて、この同じ一つの問いを、抱え持つのです。
美が、生命への問いそのものであるとき、妖艶の輝きを放つのではないでしょうか。
藤平氏が、幽玄体の美を、〈崇高への志向性を持つ優美の特殊相〉と表現するのは、それが単に事物の趣ではなく、美のなかに、普遍の問いが含まれているからなのでしょう。


② 長高様と濃様の対比軸を考える

『毎月抄』の文章Dで、長高体と濃体も、対比されています。

長高様
●このたびはぬさもとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに  天神御歌(新古今・羇旅)
○かづらきや高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てややみなむ  顕輔(千載・春上)

濃様
○●月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど  大江千里(古今・秋上)
●わたのはら八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよ海人の釣り船  小野篁(古今・羇旅)

藤平氏の校注によると、長高様は、〈声調の緊張を保った流麗感が強く感じられる詠風〉。
濃様は、〈複雑な修辞技巧によって情趣美を濃厚ならしめている詠風〉。
この二つは、何を軸に対比されているのでしょうか。
私は次のような場面を考えました。歌舞伎を観に行きますと、席によって見えやすくなるもの、見えにくくなるものが違います。長高様はいわば、主役の演技にかぶりつき。緊張感ともに迫力満点。その一方で、囃子方の皆さんの奏でる音楽や、なにげなく置かれた小道具の意味など、舞台を支えているものが相対的に目立たなくなります。二階席や桟敷ですと、また、違ってきます。
「このたびは」の歌は、神がかりなまでに美しい紅葉が眼前に迫る光景。「かづらきや」の歌で「高間の山のさくら花」は、雲さえ突き抜ける高所に咲き、その花を遠目にちらっと見るだけで済ませることはできないというのですから、対象に迫っています。
このような長高様と違って、濃様には、環境を含めた視界の一つ一つに思いを致すところがあります。「わが身ひとつの秋にはあらねど」は、「自分一人の秋ではないけれど」の意。「わたのはら」の歌は、迫るよりはむしろ、岸から沖へと「八十島かけて」遠ざかることで、「海人の釣り船」の視界が開けてゆくさまを描きます。
長高様が、迫ることで緊張感を保つ体であるとしたら、濃様は、その緊張がほどけて、視点は後ろに退り、細部・背景までをこまやかにとらえ得る体といえそうです。
カメラのズームインが長高体。ズームアウトが濃体。対象とのあいだの距離感が、対比軸となっていそうです。
これが、長高様と濃様の対比について、思うことです。


③ 基本の体

『毎月抄』の文章Aで基本の体に挙げられたのは、「幽玄体」「事可然体」「麗体」「有心体」の四つであり、「幽玄体」以外の三つの体であれば、現代人が価値観を共有できるのではないかと前述しました。

有心様
●玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする  式子内親王(新古今・恋一)
○●ながらへばまたこの頃やしのばれむうしと見し世ぞいまはこひしき  清輔(新古今・雑下)

「有心体」とは、ただひとえに心だけがある体。『毎月抄』の文章Cに、歌はどの体も有心でなければならないが、もっぱら有心体である歌を、狭い意味での有心体として十体の項目に列ねたとあります。そのように、ここに描かれているのは、もっぱら心の世界。他の物は詠みこまれておらず、ひとえに作者の訴えのみが表出されています。そして、文章Bでも述べているとおり、恋・述懐の、ひとえに有心であるところを秀歌例として挙げています。『毎月抄』の記述と合致しています。

事可然様
○すみわびて身をかくすべき山里にあまりくまなき夜半の月かな  俊成
○▼あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風たちぬ宮城野の原  西行(新古今・秋上)
○▼かぎりあれば今日ぬぎすてつ藤衣はてなきものは涙なりけり  道信
○▼あけばまた越ゆべき山の嶺なれや空行く月のすゑの白雲  藤原家隆(新古今・羇旅)

藤平氏の校注によると、〈意味内容がなるほどと思われるようなものであること。意味的説述性の確かさの感じられる詠風〉。「すみわびて」の歌は、身を隠すべき山里なのに、隠れるところがないほど月が明るい情景。上の句と下の句とが逆接でつながります。「あはれいかに」の歌は、「いかに」は疑問を表す副詞。「かぎりあれば」の歌の「藤衣」は喪服。「あけば」の歌とともに、「ば」が、「~(した)ので」の意味。順接確定条件。辞書さえあれば辞書義のとおりに内容を受け取ってよく、不明なところがありません。
『毎月抄』の文章Aではこの体を、習得すべき基本の四つに挙げています。基本の体に挙げられるということは、まず習得すべき体として、重んじられたということです。しかしながら、事可然様は、定家の好みを表す「小倉百人一首」と全く重ならず、親王に献進の指導書『詠歌大概』と多く重なりました。和歌は、散文のように説明的になれば、最上級の美からは一段、劣るのです。そうはいっても、言語表現はやはり、意味内容の伝わるように描くことが基本ですから、定家は、まず意味の通ることを、身につけるべき基本として重んじたのでしょう。

麗様
○うづら鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮れ  源俊頼
○●立ちわかれいなばの山の峯におふる松としきかば今帰り来む  在原行平
○さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫  よみ人知らず
●君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ  仁和御門御歌

藤平氏の校注によると、〈一首の表現上の均斉感・調和感の目立つ詠風。整った表現〉。麗体とは、美しく、目立つ欠点がなく、バランスのとれた体をいうのでしょう。「うづら鳴く」の歌の「浜風」は強いものですが、夕日に照らされるススキの原を波打たせて、ススキはきらきらと輝いており、滅ぼされるものも滅ぼすものも、描いてはいません。「立ちわかれ」の歌、「さむしろに」の歌に描出された、待つ女のもとへ急ぐ男は、恋を育てようとしています。「君がため」の歌は、生命が一斉に生長しようとする春の香気にあふれます。この歌の消えゆく「雪」は主題ではなく、生命感あふれる春の引き立て役でしょう。つまり、麗体は、滅びのイシューを持たない点で、幽玄体と区別されるのでしょう。幽玄美の極致である妖艶からも、滅びのイシューを抜き去れば、麗体になるのかもしれません。


④その他の体

見様
●村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ  寂蓮(新古今・秋下)

藤平氏の校注によると、〈視覚的な描写性の目立つ詠風〉。実際、『百人一首』にも選ばれたこの歌は、視覚だけでとらえうる世界を描いています。定家は、この歌の、どこが好みだったのでしょうか。村雨があがって、乾ききらない露と霧。しっとりとした秋の夕暮れは、視覚表現だけで描写が成り立っているのに、私たちの膚身にも、まといつく霧の冷ややかさが感じられるからでしょう。定家は、感覚刺激の重層する歌を、好んだようです。

面白様
○●憂かりける人をはつせの山おろしはげしかれとは祈らぬものを  源俊頼(千載・恋二)

藤平氏の校注によると、〈題に基づく場面構成(趣向)が知性的に巧みに行われている詠風〉。「はつせの山おろし」は、ここでは冷淡な仕打ちのメタファーであり、技巧と機知に富む部分でしょう。女性からいっそう冷淡にされる男は、それだけの理由を自覚するのでしょう。なお憎からず想い合うカップルのように思われます。相手を大切に思うあまり近づくことができなくなってしまう、世の中には、そんな恋もありますが、定家は、はげしく相思うことを、好んだのかもしれません。はげしく相思いながら、機知にくるんでしまうのを、なお好んだかもしれません。

有一節様
○立ちかへりまたも来てみむ松島やをじまのとまや波にあらすな  藤原俊成(新古今・羇旅)
●瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれてもすゑにあはむとぞ思ふ  崇徳院(詞花・恋上)

藤平氏の校注によると、〈着想の珍しさの目立つ詠風〉。「立ちかへり」の歌では、「松島や雄島」は歌枕ですが、その景物のなかでも旅寝の苫屋を称揚している点が、珍しいといえます。「瀬をはやみ」の歌では、川の流れを、いったん別れた男女がまた結ばれる姿に見立てている点に、着想の珍しさがあるといえそうです。思えば、定家の、御子左家嫡男としての歌業は、いかに時代の最先端となって六条藤家に差をつけるかに焦点が合っていました。それが、着想の珍しいものについて、まず重んじるという、価値観の打ち出し方になっていくのでしょう。



八 さいごに

さいごに、定家が有心体と鬼拉の体を難しいというわけを考えます。

定家は、『毎月抄』の文章Aでは鬼拉の歌を、文章Bでは有心の歌を、詠むことが難しい体として、特に取り上げています。文章Ⅾでは、〈幽玄の躰をうけたらむ人〉や〈長高様得たる輩〉があるように、どの体も作者の得手不得手があって、それぞれに合った詠風があるとも述べています。

有心の体が難しい理由。それは、心がなければ詠めないからでしょう。
たいていの人は、心を殺して日々を送っています。たとえば『明月記』は、家の部類記でありながら、まさしく心をなくして忙殺される中流官僚の、日々の表白でもあります。つまり、有心ーー心がある、といえるコンディションを手にすることが難しいのです。
定家は、心があることに、和歌の究極の本質、あるべき姿を見ました。
「心」とは、何でしょうか。
それは、「余情」の「情」と意味を同じくする「こころ」でもあり、「こころ」を一部分とする自我でもありましょう。
今も昔も、誰もが自我を押し殺して、日々を生きています。
どんなに技術があっても、鉱山に入らなければ、鉱物は採れません。自我を取り戻す環境を、みずから手に入れなければならないのです。

鬼拉の体を詠むことが難しい理由。それは、強いものを主題にとった歌を集めようにも、統一感を得られるほどには発掘できなかったという事実に、示されているのではないでしょうか。
鬼拉の体は、練磨すれば詠めるようになると定家はいいますが、本当でしょうか。
もし、「練磨すれば詠めるようになる」というのが一貫しうる考えであったとしたら、「拉鬼様」に格納される歌に、統一感が持たれているはずです。
『毎月抄』は後代に遺されてはいるけれど、個人(誰か判然とはしないが初心者)に宛てた手紙なのです。定家は、希望を持たせたくて、勢いで、練磨次第と説いたのかもしれません。
定家は、言いました。どの体で詠むか、作者によって得手不得手があると。
この言葉が正しければ、歌を詠むという行為と、その作品の持つ味わいは、背景にある作者のコンディションや生き方――いわば、境涯によるものだということでしょう。いつ吹くともわからない山風に遭って、いかに立て直すかということも、人によって違いのあること。
やはり、歌を詠む人の、コンディションやパーソナリティー次第ではありませんか。

中古中世の詠歌は、題を設定し虚構として詠む、男は女に成り代わって詠む、などといわれてきました。しかし、実際の作品には、現代短歌や近代短歌の私性と同じものが、存在していました。その作者の実人生を背景に、作者なりの感じ方や表し方、他の誰かに代われない主体が浮き彫りにされていく世界があったのです。
境涯をそのまま題材に描くのがよいというのではありません。
虚構と見える作品の背景にも、そのように詠む人の境涯を認めうる。定家は、このように言うのでしょう。
それは、自我を持たないコンピュータに決して到達しえない世界です。
定家の実作論は、歌のなかに、主体としての「こころ」あれと、自我の存在を認め、肯定するものだったのです。



【参考文献】
『定家十体』『和歌体十種』風間書房「日本歌学大系」(編者:佐佐木信綱)
『毎月抄』小学館「新編日本古典文学全集」(校注訳:藤平春男)
『近代秀歌』小学館「新編日本古典文学全集」(校注訳:藤平春男)
『詠歌大概』小学館「新編日本古典文学全集」(校注訳:藤平春男)
『新古今歌人の研究』東京大学出版会(著者:久保田淳)
『無名抄』角川ソフィア文庫(訳注:久保田淳)
『藤原俊成 中世和歌の先導者』吉川弘文館(著者:久保田淳)
『新古今和歌集』新潮社「新潮日本古典集成」(校注:久保田淳)
『古今和歌集』新潮社「新潮日本古典集成」(校注:奥村恆哉)
「国宝『明月記』と藤原定家の世界」臨川書店(著者:藤本孝一)
『本を千年伝える』朝日新聞出版(著者:藤本孝一)
『定家明月記私抄』ちくま学芸文庫(著者:堀田善衛)
『風姿花伝』講談社学術文庫(全訳注:市村宏)
『風姿花伝』筑摩書房(校注訳:佐藤正英)
『病悩と治療』臨川書店(著者:瀬戸まゆみ 監修:倉本一宏)
「小倉百人一首」ベネッセ全訳古語辞典

※表記について、旧字体を新字体とする、句ごとの分かち書きを解消するなど、拙考のなかでの読みやすさを考えて、改めたところがあります。
※『和歌体十種』の偽作説については、定家の時代に忠岑の作と認識されていたこと、もしくは定家に忠岑作と認識されていたことを優先します。









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