1932年~35年の間、満州事変の進展、満州建国と国際連盟の脱退による国際的危機、軍需工業の急速な育成、大陸の大開発などによる軍備の大拡張、などで財政は急膨張、巨額の公債発行などが続いたが、35年位迄、大蔵省・日銀がしきりに恐れていたインフレ現象は、まだ起こらなかった。それは、恐慌克服対策として各国がとっていたリフレーション政策の代用的作用をしたからであった。ところが35年秋頃より、インフレの兆候が現れ始め、翌36年二・ニ六事件を境に、インフレは急速に進んだ。これまでは設備労力に多大の遊休があったが、その後はこれらが完全操業となった。しかし35年後半頃よりゆっくり設備拡大投資が始まり、二・二六事件を境に軍部は軍拡にはしり、2・3年年先までの軍需の発注を予約して、内地および大陸における軍需工業の拡充を半強制的に促し、大投資の幕が切って落とされた。そのひずみはまず国際収支に上に表われ、支那事変(37年7月)の勃発で一挙に拡大した。まずは国際収支の調整に重点を置いた経済統制時代に急転した。
しかし経済統制そのものは全く新規のものではなかった。すでに世界恐慌克服の施策として、各国はすでに、その貿易を統制し、国内経済に対しても、一種の強権的統制を多かれ少なかれ実施していたから。ただ二・ニ六事件以降軍部によって強要された統制経済は、反資本主義的性格の強い全体主義統制であった。経済界のショックは大きく、抵抗もあったが、結局両者は相互に譲歩し妥協したものになったが、軍部の資本家不信ないし資本主義不信は最後まで強く、そうした色合いの少ない戦時統制に移行していった。資本家の自主的協力と創意工夫を活用する代わり、軍人や官僚が指導監督するものだった。戦時経済統制の頂点では素人の軍人が支配的地位についた。その為国際収支の破局防衛から、軍需品を優先的に確保し、民需品の輸入を制限することであった。先ずは為替管理令の強化(輸入為替を許可制)が図られ、支那事変が起るや①輸出入品に対する厳重な統制、②資金面からの統制(政府が時局上不急不要と見做した用途に対して一切の資金供給を禁止)を実施、民需品の供給不足から物価騰貴に跳ね返り、次いで物価統制が重要課題となった。当時日本は軍事工業ないし軍事需要に応えるため巨額の輸入が必要とされたが、その為には輸出の増大が不可欠であった。しかし物価騰貴のため輸出価格が跳ね上がり、これを押さえて輸出するとダンピングだと見做され禁止関税が課される形勢であった。背後には日本の対支侵略戦に反感を持ち、各国が対日経済封鎖をやろうとする情勢にあった。したがって最初に物価統制の対象になった商品は、綿製品その他の、当時日本における輸出重要品であった。その方法は製造業者の売価に最高価格を公定し、これを守る義務を団体に課し、その代わり輸入原料の配給権を与えた。この方法は需要を調整する手段がなかったので、供給不足が顕在化、闇取引が横行し始めた。
当時、物価問題が朝野の大問題であった。こうした背景の下に、38年4月物価委員会令の発布、39年4月物価統制の大綱、8月物価統制実施要項が答申され、戦時物価統制の体系を整えた。戦時経済統制の網は、38年頃より急速に広げられた。例えば、39年5月国家総動員令の実施、6月物資動員計画の閣議決定、7月新聞雑誌の用紙使用制限令。また、39年3月賃金統制令と従業員雇人制限令の発布、7月国民徴用令の公布(軍需関係に対する労務調達の強制)。
39年7月アメリカは日米通商条約の破棄通告、9月第二次世界大戦が欧州で勃発、この両者は、物資輸入を著しく制限することとなり、外国貿易依存の下に組み立てられていた従来の戦時経済統制は、さらに徹底的改編に追い込まれ、40年9月日独伊三国同盟の締結によって、それは決定的になった。経済運営は著しく困難となり、経済統制が一段と強化され、国民の最低生活を確保するための統制が、軍需調達に劣らず重大課題となるに至った。
1930年代は新秩序の模索の時代だと近代日本政治史を専門とする山室信一京大名誉教授はいう。「世界恐慌で幕を開けた1930年代は、31年9月に満州事変、37年7月に盧溝橋事件が起き、39年9月のドイツのポーランド侵攻によってヨーロッパでは第二次世界大戦へと突入していく危機の時代となった。それは恐慌への対策として進んだブロック経済圏の形成に対し、「持たざる国」としての日本やドイツなどが、ヴェルサイユ・ワシントン体制を打破することを「新秩序」の形成として正当化し、国際秩序の再編成を要求するものであった。・・・さらに、資本主義体制の危機に直面する中、国家改造、東アジア広域秩序構想、国際政治・経済体制の改編など様々なレベルで新たな秩序のあり方が模索されたのが30年代でもあった」と。当時の歴史を善悪抜きで概括すると、山室教授の視点はわかり易い。1938年11月第一次近衛内閣は東亜新秩序建設という声明を発表(帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す)。1940年7月第二次近衛内閣は基本国策要綱を閣議決定(皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り)。これにより大東亜共栄圏の建設が政策となった。
ウキペディアによると「大東亜共栄圏は、「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域」を指す。第2次近衛文麿内閣の発足時の「基本国策要綱」に「大東亜新秩序」の建設として掲げられ、国内の「新体制」確立と並ぶ基本方針とされた。これはドイツ国の「生存圏(Lebensraum)」理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する」 その内容は高橋亀吉氏の著書に依ろう。「当時日本が掲げた思想は、太平洋戦争における南方諸地域の占領について、米英仏の植民地を日本の植民地にするという旧思想的目的でなく、相互扶助的な大東亜共栄圏の樹立という、一段高い目的であった。そうでなくては、南方諸地域諸民族を日本の味方とすることは出来ない。むろん、世界当時のブロック経済思想を発展させたものであるが、植民地ではなく一個の独立国として、大東亜共栄圏の一員とする考えであった。しかし、その思想はいまだ漠然たる抽象論に留まり、その具体的原理、政治、経済、文化などの構想は用意されていなかった。その研究に乗り出したのが国策研究会が乗り出した。」「大東亜共栄圏の具体的構想の研究につき、42年2月私(高橋亀吉)がそのまとめ役を引き受けるよう交渉を受け、常務理事・調査局長の名において、担当することになった。」「各方面の識者、専門家を動員して、分科会を設けて成案を練ったが、この間、軍部からは何の注文も掣肘もなく、約一カ年で成案を得て3~4冊の本にまとめたが、手元のものはGHQに持っていかれてない。記憶によれば、その共栄圏構想の骨子は、中核体に日本を置く思想はあったが、その運営は植民地的搾取ではなく、共栄圏全体の相互扶助的繁栄を期することが眼目だった。もっとも、当時現地において現実に実行された施策は、戦時の物資不足のため、占領地からこれを徴発するという搾取的性格の強いものであったことは否めなかった」と。さらに高橋はコメントする。「イギリスなどの政治経済論議に、世界のため、という言葉がしきりに現れた。ところが大東亜共栄圏の具体的構想を研究するにあたって、常に大東亜全体としての視野でモノを見、考えた。その人、その国の置かれた位置によって、モノの見方や考え方が、狭くもなり広くもなることを、改めて痛感した」と。
しかし経済統制そのものは全く新規のものではなかった。すでに世界恐慌克服の施策として、各国はすでに、その貿易を統制し、国内経済に対しても、一種の強権的統制を多かれ少なかれ実施していたから。ただ二・ニ六事件以降軍部によって強要された統制経済は、反資本主義的性格の強い全体主義統制であった。経済界のショックは大きく、抵抗もあったが、結局両者は相互に譲歩し妥協したものになったが、軍部の資本家不信ないし資本主義不信は最後まで強く、そうした色合いの少ない戦時統制に移行していった。資本家の自主的協力と創意工夫を活用する代わり、軍人や官僚が指導監督するものだった。戦時経済統制の頂点では素人の軍人が支配的地位についた。その為国際収支の破局防衛から、軍需品を優先的に確保し、民需品の輸入を制限することであった。先ずは為替管理令の強化(輸入為替を許可制)が図られ、支那事変が起るや①輸出入品に対する厳重な統制、②資金面からの統制(政府が時局上不急不要と見做した用途に対して一切の資金供給を禁止)を実施、民需品の供給不足から物価騰貴に跳ね返り、次いで物価統制が重要課題となった。当時日本は軍事工業ないし軍事需要に応えるため巨額の輸入が必要とされたが、その為には輸出の増大が不可欠であった。しかし物価騰貴のため輸出価格が跳ね上がり、これを押さえて輸出するとダンピングだと見做され禁止関税が課される形勢であった。背後には日本の対支侵略戦に反感を持ち、各国が対日経済封鎖をやろうとする情勢にあった。したがって最初に物価統制の対象になった商品は、綿製品その他の、当時日本における輸出重要品であった。その方法は製造業者の売価に最高価格を公定し、これを守る義務を団体に課し、その代わり輸入原料の配給権を与えた。この方法は需要を調整する手段がなかったので、供給不足が顕在化、闇取引が横行し始めた。
当時、物価問題が朝野の大問題であった。こうした背景の下に、38年4月物価委員会令の発布、39年4月物価統制の大綱、8月物価統制実施要項が答申され、戦時物価統制の体系を整えた。戦時経済統制の網は、38年頃より急速に広げられた。例えば、39年5月国家総動員令の実施、6月物資動員計画の閣議決定、7月新聞雑誌の用紙使用制限令。また、39年3月賃金統制令と従業員雇人制限令の発布、7月国民徴用令の公布(軍需関係に対する労務調達の強制)。
39年7月アメリカは日米通商条約の破棄通告、9月第二次世界大戦が欧州で勃発、この両者は、物資輸入を著しく制限することとなり、外国貿易依存の下に組み立てられていた従来の戦時経済統制は、さらに徹底的改編に追い込まれ、40年9月日独伊三国同盟の締結によって、それは決定的になった。経済運営は著しく困難となり、経済統制が一段と強化され、国民の最低生活を確保するための統制が、軍需調達に劣らず重大課題となるに至った。
1930年代は新秩序の模索の時代だと近代日本政治史を専門とする山室信一京大名誉教授はいう。「世界恐慌で幕を開けた1930年代は、31年9月に満州事変、37年7月に盧溝橋事件が起き、39年9月のドイツのポーランド侵攻によってヨーロッパでは第二次世界大戦へと突入していく危機の時代となった。それは恐慌への対策として進んだブロック経済圏の形成に対し、「持たざる国」としての日本やドイツなどが、ヴェルサイユ・ワシントン体制を打破することを「新秩序」の形成として正当化し、国際秩序の再編成を要求するものであった。・・・さらに、資本主義体制の危機に直面する中、国家改造、東アジア広域秩序構想、国際政治・経済体制の改編など様々なレベルで新たな秩序のあり方が模索されたのが30年代でもあった」と。当時の歴史を善悪抜きで概括すると、山室教授の視点はわかり易い。1938年11月第一次近衛内閣は東亜新秩序建設という声明を発表(帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す)。1940年7月第二次近衛内閣は基本国策要綱を閣議決定(皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り)。これにより大東亜共栄圏の建設が政策となった。
ウキペディアによると「大東亜共栄圏は、「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域」を指す。第2次近衛文麿内閣の発足時の「基本国策要綱」に「大東亜新秩序」の建設として掲げられ、国内の「新体制」確立と並ぶ基本方針とされた。これはドイツ国の「生存圏(Lebensraum)」理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する」 その内容は高橋亀吉氏の著書に依ろう。「当時日本が掲げた思想は、太平洋戦争における南方諸地域の占領について、米英仏の植民地を日本の植民地にするという旧思想的目的でなく、相互扶助的な大東亜共栄圏の樹立という、一段高い目的であった。そうでなくては、南方諸地域諸民族を日本の味方とすることは出来ない。むろん、世界当時のブロック経済思想を発展させたものであるが、植民地ではなく一個の独立国として、大東亜共栄圏の一員とする考えであった。しかし、その思想はいまだ漠然たる抽象論に留まり、その具体的原理、政治、経済、文化などの構想は用意されていなかった。その研究に乗り出したのが国策研究会が乗り出した。」「大東亜共栄圏の具体的構想の研究につき、42年2月私(高橋亀吉)がそのまとめ役を引き受けるよう交渉を受け、常務理事・調査局長の名において、担当することになった。」「各方面の識者、専門家を動員して、分科会を設けて成案を練ったが、この間、軍部からは何の注文も掣肘もなく、約一カ年で成案を得て3~4冊の本にまとめたが、手元のものはGHQに持っていかれてない。記憶によれば、その共栄圏構想の骨子は、中核体に日本を置く思想はあったが、その運営は植民地的搾取ではなく、共栄圏全体の相互扶助的繁栄を期することが眼目だった。もっとも、当時現地において現実に実行された施策は、戦時の物資不足のため、占領地からこれを徴発するという搾取的性格の強いものであったことは否めなかった」と。さらに高橋はコメントする。「イギリスなどの政治経済論議に、世界のため、という言葉がしきりに現れた。ところが大東亜共栄圏の具体的構想を研究するにあたって、常に大東亜全体としての視野でモノを見、考えた。その人、その国の置かれた位置によって、モノの見方や考え方が、狭くもなり広くもなることを、改めて痛感した」と。