ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いおやじの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

美しきセルジュ

2021年03月12日 | なつかシネマ篇


『いとこ同士』にも登場しているジャン=クロード・ブリアリとジェラール・ブランがキャスティングされているシャブロルの監督処女作品。舞台に選ばれたクルーズ県サルダン村は、レジスタンスだった父親の元を離れ祖母に預けられ育ったシャブロルの故郷でもあり、自伝的要素が強い作品と云われている。ブリアリ演じるフランソワが病弱だったり、ブラン演じるセルジュの第一子が死産という設定も、シャブロルの実人生をなぞっているのだろう。


カイエ・デュ・シネマ仲間のトリュフォーが本作を評して「10年も映画を撮り続けているかのよう。映画全体がコントロールされている」とほめちぎってはいるが、ヌーヴェル・ヴァーグの威光も消え失せた現在においては、音楽の使い方やカメラワーク、編集やシナリオ、すべてにおいて“粗さ”が目立つというのが正直な感想だ。ゴダールの『勝手にしやがれ』で多用されたジャンプ・ショットを本作の中で発見できるのも、今にして思えば小津の切り返しショットにヒントを得たその“傷隠し”だったのかもしれない。


『いとこ同士』や他のシャブロル作品にも共通している(LGBTとは異なる)男同士の固い友情が本作の中心テーマになっている。できちゃった結婚で片田舎に閉じ込められ酒浸りの日々を送っているセルジュを救うべく、結核療養のため里帰りしてきたフランソワが一肌ぬぐというストーリーは、巨匠ロッセリーニにダメ出しをくらってシャブロルが書き直したものらしい。セルジュ更正の邪魔をする美しき性悪女マリー(ベルナデッド・ラフォン)とは対照的に友人を思いやるフランソワには、シャブロルを周囲で支えたカイエの仲間意識が反映されているに違いない。


さて、問題はエンディングの出産が何を意味しているかである。雪の降り続く中、産気づいたセルジュのカミサンであるイヴォンヌのために、家にも帰らずどこぞで酔い潰れているセルジュを探し回るフランソワ。地元の神父に「自分が苦しむだけだから村を出た方がいい」と言われても、「(セルジュを救うためには)態度で示さなければダメだ」と村に居座り続けるのである。難産の末産まれた未熟児は、シャブロルが初めて監督として苦労しながら完成させた本処女作品のメタファーだったのではないだろうか。


美しきセルジュ
監督 クロード・シャブロル(1958年)
[オススメ度 ]




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