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京都駅での大惨事、兵隊を乗せた臨時列車の見送り人が将棋倒し―昭和九年

2006-03-22 03:33:34 | Weblog
京都駅での大惨事、兵隊を乗せた臨時列車の見送り人が将棋倒し―昭和九年

一九三四年(昭和九年)は、前年の暮れから新年にかけて“帝都”には流行性感冒が大流行。街頭には、からす天狗のようなマスク愛用者が氾濫する。一方、家庭内では一家の全員が枕を並べて寝込んで熱とセキの競演・・。そんな状況下にあった。毎朝、木刀で鍛えているはずの荒木貞夫陸軍大臣も感冒にやられ、末次信正連合艦隊司令長官は、軍艦を降り荻窪の自邸で寝込む。派出婦、看護婦は払底。のど飴が売れ、解熱剤やセキの薬が売れに売れで薬屋は大繁盛といった状況だった。この年は三月二十一日に函館大火、九月二十二日に室戸台風と大災害が続く多難の年であった。ところで、この年には新年早々に京都駅で大惨事が発生している。

一九三四年(昭和九年)が明けたばかりの一月八日のこと。京都駅で、入営する兵隊を乗せた午前十時二十二分発臨時列車が出発する際、数千人の見送り人が一時に入場、跨線橋から乗降場に折り重なって墜落するという事故が発生する。この事故で、乗客や見送り人七十七名が死亡、百十三名が重軽傷を負った。翌日の東京朝日新聞は「京都駅修羅場化す」「入団兵見送りの大群衆が将棋倒し」という見出しで、この大惨事を報道している。
このとき、現場近くに朝日新聞の記者がいて、事故の報道とともに「事の起こり 一人の転倒」というタイトルの目撃記が掲載されていた。この目撃記により事故の概要を追ってみよう。臨時列車出発が近づいた午前十時を過ぎたころ、見送りの青年団のブラスバンドが国歌「君が代」の演奏をはじめる。多数の見送り人で、わきかえるような騒ぎの中、第三プラットホームに通じる跨線橋からホームへ降りてくる群衆のうちの一人が転倒した。その上に、次々と折り重なるように人波が崩れ落ちた。「人が死んだ、あとへさがれ!」と叫ぶ憲兵警察官。やっとのことで、群集を後へ下がらせ救出活動に入った。駅員の休憩所は、運ばれた死傷者でたちまち満員、プラットホームの上には多数の死傷者が横たえられる。在郷軍人たちが、水をかけたり人工呼吸をしたりと活動した。
臨時列車には、京都、金沢、富山、敦賀、福井、津各連隊管内の呉海兵団入団者七百十五名が、付添人三百名が乗車していた。即死者のなかには、入団者二名がいた。

京都駅を予定時刻から大幅に遅れて出発した臨時列車は、同日夜十一時十二分に大阪駅に到着、ここでも熱狂的歓迎を受ける。出発は十一時十六分。その間隙を縫って、朝日新聞の記者が二十二歳の入団兵にインタビューを行う。その概要が「大阪電話」として一月九日付東京朝日新聞に掲載されている。事故を間近に目撃した若い入団兵は、「ブリッジ(跨線橋)付近のホーム上は大根を押し重ねたように人が積みあがった地獄絵そのもの。物凄い叫びは、まだ耳に残っています」と語っていた。