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普遍的な徳目が教育勅語の中にあるだけで、教育勅語が普遍的なわけではない。

2018-10-08 20:49:01 | 社会思想の終焉

こんにちは

 道徳教育のことなら、私にお任せ。

普遍的な徳目が教育勅語の中にあるだけで、教育勅語が普遍的なわけではない。
 NHK記者の質問に答えた柴山昌彦文科相の発言が、朝日などで問題視された。

「(教育勅語を)現代風に解釈されたり、アレンジしたりした形で使える分野は十分あり、普遍性を持っている部分が見て取れるのではないか。同胞を大切にするとか、国際的な協調を重んじるとかいった基本的な内容を現代的にアレンジして教えていこうという動きもあると聞くが、検討に値するのかなと考えている」

 だが、帝国憲法下における臣民の心がけは普遍的な倫理ではなく、当然、柴山昌彦文科相はそれを念頭に言ってない。彼は、教育勅語に示されたいくつかの徳目は普遍的で、新たに教育に加えられるのではないか、と提起したのだ。(あとで義務教育ではなく、民間のものとしてと付け加えた) 天皇への忠義が普遍的で、道徳で教えるべきとは一言もしてないのだ。よって、問題発言にならない。

 教育勅語とは、明治頃の徳をまとめ、天皇の名において発布したものだ。よって普遍的な倫理集ではない。普遍的とは、戦後、人権に使われたように、社会制度や慣習で長く使えることを意味する。科学の公理や法則のように真に永遠でどこでも適用できるものにはあまり言わない。普遍的という言葉を使っている時点で、法則に劣るというニュアンスがある。

 日教組や左翼はその中の一部を時代錯誤とする。天皇の危機のために馳せ参じろというのは、天皇に忠誠を誓うもので、皇軍の思想だと。確かに、原文のまま道徳で教えるのは、国民主権の憲法にあわない。

 本当に、教育勅語に普遍的な徳目があるか? 

 教育勅語は12の徳目が示される。

(1)父母への孝行(2)兄弟姉妹の友愛(3)夫婦の和(4)友達の信(5)謙遜(6)博愛(7)修学習業(勉学に励み職業を身につける)(8)智能啓発(知識を養い才能を伸ばす)(9)徳器成就(人格の向上)(10)公益世務(世の中のためになる仕事に励む)(11)遵法(じゅんぽう)(12)義勇(国難に際しては国のために尽くす)
(WIKI 教育勅語より)

 儒教の思想が数多く混じる。孝行、友愛、夫婦の和、友達の信。博愛は仁からきている。勉学などなど。教育勅語は、当時の徳目で大切なものを集めた。江戸時代が終わった頃のもので、儒教の影響が残る。儒教の徳目は2500年も支持されてきたもので、普遍的である。

 江戸幕府が終わり、明治国家となった。国というものに慣れない当時の人のために、国民としての生き方を示してもいる。公益や遵法精神、愛国義勇である。ただ国家のために、という考えは大勢が理解したわけではない。大名や将軍などへの忠孝の精神は強く当時残っていた。それでは幕藩体制が残り、国がバラバラになる。明治政府は代わりに天皇に忠を尽くすようにした。天皇への忠誠は日本独特で、近代国家の制度ではないものである。

 そういう天皇に関する箇所は、普遍的ではなく、そのまま国民主権の現代に通じるものでもない。

 もちろん、民主主義国家において、大統領、首相に尽くすのは、国民が自分たちの国を守るということで、普遍的なものだ。が、民主国家になってから、形ばかりで、現憲法では象徴として名を残す天皇や、統治しないイギリスやタイの国王は、真の代表とはいえなく、国民が忠誠を尽くすべきかは、議論がある。左翼は無政府主義者でないから、選挙で選ばれた国家の長に従うのは同意するが、国王や天皇など前近代的な地位にある者への忠誠は拒む。この点について、疑問を呈している。

 その天皇崇拝を文科相は念頭においてはいない。それ以外の儒教的な徳目については、何千年も支持されてきた。現代の日本では、人を人と思わないようないじめが蔓延して、友情も知らない。父母に孝行する人はなく、切れやすい若者が跋扈する。それら倫理性の低下した日本人を立て直す道徳教育に必要な資質(徳目)が教育勅語の中に含まれている、と大臣は考えたのではないだろうか。

 教育勅語の徳目を一部、新たに道徳教育に加えるべき必要はないともいえない

柴山大臣の提案は、教育勅語の普遍的な徳目を追加するは、道徳教育に新たな風を吹き込むのだろうか? よくよく考えてみよう

 平成の道徳の徳目を見てみよう。

道徳の内容項目(小学校の学習指導要領(平成29念告示)解説 特別の教科 道徳編)

小学校低学年
A 自分自身
善悪の判断-自律-自由と責任、正直-誠実、節度-節制、個性の伸長、希望と勇気、努力と強い意志、真理の探求
B 人との関わり
親切-思いやり、感謝、礼儀、友情-信頼、相互理解-寛容
C 集団や社会生活との関わり
規則の尊重、公正-公平-社会正義、勤労-公共の精神、家族愛、家庭生活の充実、よりよい学校生活-集団生活の充実、伝統と文化の尊重-国や郷土を愛する態度
D 生命や自然、崇高なものとの関わり
生命の尊さ、自然愛護、感動-畏敬の念、よりよく生きる喜び

高学年と中学生
A 自分自身
自主-自律-自由と責任、節度-節制、向上-心個性の伸長、希望と勇気-克己と強い意志、真理の探求-創造
B 人との関わり
思いやり-感謝、礼儀、友情-信頼、相互理解-寛容
C 集団や社会との関わり
遵法精神-公徳心、公正-公正-社会正義、社会参画-公共の精神、勤労、家族愛-家庭生活の充実、よりよい学校生活-集団生活の充実、郷土の伝統と文化の尊重-郷土を愛する態度、我が国の伝統と文化の尊重-国を愛する態度、国際理解-国際貢献
D 生命や自然、崇高なものとの関わり
生命の尊さ、自然愛護、感動-畏敬の念、よりよく生きる喜び

 教育勅語の徳目は、道徳ですでに教えられているものがいくつかある。

(1)父母への孝行と(2)兄弟姉妹の友愛(3)夫婦の和は「家族愛」で教えられる。(4)友達の信は「友情-信頼」で。(5)謙遜はみつからないが、かわるものがないこともない。(6)博愛は「公正、公平」の中で「誰に対しても分け隔てせず、公正、公平な態度で接すること」として教えられる。(7)修学習業(勉学に励み職業を身につける)は、ない。が、学業の大切さは学生の心得なので、道徳以外でしっかりと教えられる。(8)智能啓発(知識を養い才能を伸ばす)は技能や実技を学ぶことと同じ。が、知識を増やすことは試験勉強でいい成績を残すために、盛んだ。が、各種才能を伸ばすことは、小中学校では強調されない。そこは個性を伸ばすことで少し教えるだが、現在は弱い。(9)徳器成就(人格の向上)は「よりよく生きる喜び」で(10)公益世務(世の中のためになる仕事に励む)は公共の精神もしくは、国を愛する態度で教えられる。(11)遵法(じゅんぽう)は「遵法精神」で(12)義勇(国難に際しては国のために尽くす)は「国を愛する態度」で教えられる。

 つまり、現行の道徳で教えないのは、謙遜と修学習業のみである。が、勉学の重要性は、学校で最初に習うことであり、道徳の徳目にないとしても、教えていないわけではない。教えていないのは、「謙遜」のみだろう。その他はすでに教えられている。

 あえて今更、明治半ばの倫理を、もってくる必要はないと思える。すでに道徳教育で、儒教の徳目はそのままではなく、研究されて、新しい理論にされて、教えられているからだ。

 父母への尊敬、孝行はすでに教えている

 保守や右派で、教育勅語を学校で教えよう、とよく言う人がいる。彼らは、教育勅語の父母への尊敬をまず道徳で教えようと考えている。が、それは道徳教育の現状を知らない議論である。孝行、父母への敬愛は道徳ですでに教えている。ややぴんぼけである。

 教育勅語の徳目を道徳で新たに教えようと言う人達は、すでに教えられることを知らないのである。またそれに徳目を道徳でこれから教えることに反対する人も、道徳教育を何も知らないのである。なお、後者は道徳を否定する者たちで、教えてもいない天皇崇拝を教えるという見当違いな反対を行う。彼らは道徳を教えないほどに、人間性は低下する。その結果、いじめや地下犯罪が蔓延した。そういう問題意識に欠けている。

 柴山大臣は、多くの保守主義者たちが考えるように、現代の若者は儒教的な面が弱体化していることに危機感をいだいたと推測する。父母や友を大切にしないから、そういう家族の関係をもっと強めるような人間性を養いたい、と。現状、親孝行の見本のような美談はなかなか聞かれない。人間関係は希薄になった。それを回復させる手立てを講じるのはよいだろう。私も、今の道徳教育には不満がある。父母への尊敬や孝行だけではなく、高齢化社会においては、祖父母や親族にいたるまでの関係をより親しくなるものとしたほうがよい。

 柴山昌彦文科相は、おそらく道徳教育をよくごぞんじないのだろう。教育勅語よりもさらに高度なものが、戦後の道徳で教えられている。 忠孝は、すでにずっと前から道徳で家族愛、父母への尊敬として教えられている。教育勅語の普遍的なものは、まだ教えられていないという認識と、そう思わせるような言い方はよくなかった。

 また左翼が問題視する「天皇への忠誠」は教えないと明言しなかったことが、左翼のつけ入る隙を与えてしまった。

 まとめ
 教育勅語は、天皇のために、という箇所が問題視されるが、それは民主国家の日本で再び教えられることはない。それを心配する者は国民主権の民主主義国家たる一員ではない。現状は、天皇を外して、国民国家のために、と教えられる。

 教育勅語を復活させるかどうかなどは、道徳教育の現状をまったく知らない者の議論である。天皇に関する箇所は当然、民主国家では教えない。教える場合は、象徴への敬意の範囲である。天皇へ不遜な態度をするのを放置するはよくないので。残りの12徳目はすでにほとんど道徳教育で教えられる。親孝行もだ。現代人の倫理として必要な徳目は、とっくに復活している。

 残すは「夫婦の和」と「謙遜」、「修学習業と智能啓発」である。明治の道徳集をひっぱり出して、それをもとに教える必要はない。徳目は純粋に研究されており、その最新の成果を現代的に教えるべきである。

 これら徳目が必要かは、日本人に欠けている資質かどうかで判断すべきだ。教育勅語(明治にもてはやされた徳目)の中に含まれているかどうかに関係なく。日本人の人間性、倫理観、特性を義務教育でさらに高める必要があるかどうかは、過去にとらわれずに議論すべきである。

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