ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

やるじゃない!アマゾン

2016-02-14 09:51:18 | 暮らし

 アマゾンから荷物が届いた。注文から2日、速い!これだもの、なんだかんだ不満はあっても、止められない。まして、地元じゃてんで手に入らないものだったりすると、勝負あった!の感が強い。さらに、さらに、さらに、安い!心の奥に引っかかりを抱えつつも、アマゾン依存症は重度になって行きそうだ。

 地域の本屋さんが減っていくとか、地元商店の品揃えがやせ細って行くとか、アマゾンに対するわだかまりは多々あるんだけど、その一つに、包装の問題があった。そう、過剰なんだよ、アマゾンは!たった本1冊送ってくるのに、仰々しく段ボール箱に入れてくる。すかすかなので荷が踊らぬようラップしたビニールを底に糊付けしたりして。なんなんだよ、たかが本1冊!もっと荷造りのしようはあるだろうが?

 不満は過剰包装だけじゃない。注文のページには、複数の注文品をまとめて送るか、手配のついたものから順次送るか、こちらの要望を尋ねる項目がある。よほどの急ぎで無い限り、一緒に送ってよ、をクリックする。その都度送ることによる段ボール箱の無駄や配送の手間を省きたいからだ。なのに、気を利かせたつもりなのか、ばらばらに送ってくるってこともしばしばだった。ちょっとはエコの視点も入れろよな!ってことだ。だいち、アマゾンの箱って柔だし開けやすさ主眼に作ってあるから、再利用がしづらいし、もうまったく!アマゾンからの荷が届くたびに、欲しいものが手に入ったという喜びと同時に、やれやれまた使えないゴミが増えた!とうんざり感に襲われていた。

 今回届いた荷物、なんだよ、こんなでかい箱に入れて!アマゾン流エコ無視配送しやがって!これじゃがばがばだろう、中身。

 やれやれとため息尽きつつ開封してみた。あれっ!注文品、一度に全部入ってる!ワッフルメーカーに絞り袋に、文庫本2冊!これは、凄い!いや、ワッフルメーカーと絞り袋が同梱は当然だ、分野が調理で同じだから。でもそこに本が一緒に入っているとは!

 アマゾンの商品保管と配送のシステムがどうなっているかは知らないが、常識的に考えて、同一分野のものは一括して管理されてるはずだ。調理と本、これが同じスペースに保管されてるなんて考えにくい。なのに、一つの荷物として送られてきた。以前には考えられなかったことだ。同じ分類の品物でさえ、ばらばらに配送されたりしていたんだ。それなのに、カッパ橋と紀伊国屋が一緒になってる!こりゃぁどえらいことだ。そう言えば、本だけ届く時も、いつの頃からか、段ボールから封筒タイプに変わってた。うーん!

 アマゾン、考えてたんだなぁ。きっと、荷造りについて、クレームが寄せられていんだろう、資源を大切にしろって。あれほどの物量をすばやく間違いなく捌くシステムを構築したことだって途方もないことだ。そこにはどうしても避けられない無駄な部分もあちこちに生じざるを得なかったと思う。仕方ないじゃん、お客さん、速く速くって言うし、商品違っちゃ大変だし、汚れたり壊れたりした大事(おおごと)だし、言い逃れに閉じこもるのって当たり前だと思う。なのに、どんだけ巨大なものか想像もつかないが、莫大な商品の管理・配送システムを保持しつつ、さらにエコロジーへの配慮も取り組んでいく、この姿、この力、やっぱ、アマゾンの一人勝ちは当然のことなんだよな。

 今回の荷物、異分野商品が一緒に届いたことは、大きな一歩。でも、まだ箱ががらがらのすけすけ、ここらもぜひその飽くなき開発力でなんとす解決してもらいたいもんだな。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地味だって、価値はある!

2016-02-13 09:14:19 | 農業

 今日は地味な話題だ。

 ほら、写真だって、地味そのもの、色も地味なら形状も地味、って、言うよりなんだかわからない。建設現場の砂置き場か?遺跡発掘現場の残土か?墓場の土饅頭か?興味は皆無、感心絶無、およそ面白い話しなんて書けそうもない。そう、詰まらんとは思うが、ぼかしの話しだ。

 12月末、米ぬかと油かすと土を交互に積んで作り始めたぼかし、最初はこんな様子。

 よく見れば、米ぬか?そう言われれば、色が白っぽいかな?これにビニールをかけて置いておくと、不思議や不思議!ぽっぽと湯気が上がってくる。そう、発酵が始まるんだ。土の中の微生物が、ぬかや油かすの栄養をむしゃむしゃ食って分裂し、増殖し、子を作り、孫を作り、己が王国を築いて行く。勢力を伸ばしていくには、食い物だけじゃ足りない。息が、息が、息が苦しぅぅいぃぃぃ!そうとも、生きてるんだ、呼吸をせねば。

 途中、3~4回の切り返しをおこなう。そう、空気の補給と微生物の拡散だ。米ぬかばっかり固まってたって微生物は入り込めない。同じく土の塊じゃぁ、栄養が足りない。これをかき混ぜて、土の微生物様が思う存分活躍できる環境を作るわけだ。切り返し作業と呼ぶ。

 すでに3回行って、いよいよ、これが最後、4回目の切り替えしを行った。ビニールをはぐると、

 ごろごろと月か火星の表面のような有様。この塊、微生物集団が凝集して固い絆で結ばれたものだ。その団結力たるや、鋼鉄の結束力!は、大袈裟だが、固い、ほんとうに固い!スコップで底のさらさら部分を掘り出し、空気を送り込みつつ、この塊を手でほぐして行くのだ。

 かれこれ1時間、一つ一つ、手にとっては叩きつけ、ほぐし、手のひらで揉んでさらさらの粒子に仕上げて行く。こうしないと、目的を果たせない。そう、ぼかしは米の育苗用の肥料なのだ。育苗箱に土や籾殻燻炭と一緒に混ぜて詰め、そこに種を播く。均一に肥料分が行き渡るためには、どうしたて、つぶつぶさらさらでなくちゃならないわけなのだ。

 しかも何より大切なことは、微生物が存分に活躍し、米ぬかや油かすの有機成分が微生物菌体に置き換わっていなくてはならないことだ。生の有機質は種籾や根っこを腐らせる。だから、どうしたって事前の発酵作業が欠かせない。米ぬかをまき、土をかぶせ、油かすで覆い、さらにぬかをまき、土を、・・・と繰り返し、1~2週間おきに切り返しては丁寧に発酵を手助けして2ヶ月、万遍なく微生物の細かな塊となってはじめて使用が可能となる。

 地味な作業だ。日の当たらぬ仕事だ。退屈な繰り返しだ。積もった雪を掻き分けて旧鶏舎にたどり着き、作業を行ってきた。こんな人目につかない、語っても興味も引かない、面白くもない作業の積み上げが、元気な苗を育み、すくすくとした生長を約束し、豊かな実りをもたらすのだ。農業ってこんな営みだ。地味な作業の積み上げが成果を生む。でも、そりゃどんな仕事だって同じかもしれないな。

 地味だけど、大切!地味だけども欠かせない!地味だけど、そこがキモ!世の中、そんな地味で成り立っている!おっと、人だって同じことかもね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一人暮らし、漬け物事情

2016-02-12 08:48:38 | 暮らし

 まさかこんなに漬け物にはまるとは思ってもみなかった。ほんと、最近のことだ、食卓にいつも漬け物のある暮らし。年取って味覚が変わった?それもある。発酵食品をとるよう心がけてる?それもある。暇ができた?それもある。以前は好きな方じゃなかった。テーブルに並んていても、手が伸びるのはお付き合い程度、そのまま知らんぷり、なんて失礼なこともちょくちょくあった。

 手作りが基本の我が家だから、添加物どっぱりの漬け物を買ってくるなんてことは、論外も論外!となれば自家製でとなるわけだけど、神さんの作る漬け物はどうも、美味くない。たまに作って出されても、なんか漬け物の本性をはき違えているような、漬け物に失礼なような、漬け物もどきでしかない。当然こちらは手を出さない。と、ああ、嫌いなのね、作るのばからしい、止めた、とくる。こんな行き違いが何度か有って、我が家から自家製漬け物は追放されてしまった。で、退職、金無し暇有り食い意地有り、の身分となって、ほんじゃまぁ、僕が作るわ、となって現在の漬け物どっぷり暮らしになった。

 この厳冬、食卓に上がる漬け物は、白菜キムチに赤蕪漬け。夏を制した糠漬けは、今はオフシーズン、冷蔵庫の中で高貴な糠味噌菌を絶やさぬよう、鋭気を養いつつ眠っている。もちろんほったらかしになどできない。低温環境にあっても、悪玉酪酸菌は折りあらばと手ぐすね引いているから、毎日攪拌の手入れは怠れない。大根やキャベツなど漬け込んでも美味しいのだが、今や、時の勢いは完全にキムチにあるので、無謀な戦いは手控えている。

 そう、キムチなのだ!12月半ばに1回目を漬け込んでから、ここまで、他の漬け物に付け入る隙を与えていない、ダントツの覇者だ。毎日食べる。毎食食べる。そんなに食べて、塩分過剰とか大丈夫なのか?心配だから、漬け込む塩は極力減らしている。下漬けの時、材料に対して5%のみ、本漬けの際は、付け汁にはいっさい加えず、下漬けの塩分もしっかり絞り落として漬け込む。だから、多分、出来上がったキムチそのものは、塩分濃度1~2%の低塩分になっているはずだ。なのに、過発酵にならない!キムチ偉大なり!それにしても、唐辛子の刺激成分もあることだし、大量摂取は好ましくない。なので、白菜一株を、四つに割り、さらにそれを3等分して、1回分を少量になるよう工夫している。ぺらっぺらの一握り。

 ともかく、朝キムチ、昼キムチ、夜キムチ、キムチとの濃密な付き合いを繰り広げているお陰で、割りを食っているのが赤蕪漬けだ。当初の恥じらい深いピンク色から、熟女の真っ赤に変色しても、あの歯ごたえと味わいは変わらない。だから、今度、今度付き合ってあげるからね、と漬け物瓶を見るたびに慰めの一言をかけているが、キムチの濃厚な魅力についつい引きずられ、今では、じっとお呼びのかかるりを待つのみの寂しく切ない暮らしに耐えている。

 さて、そんな我が愛を一身にうけるキムチだから、1月末には2回目のつけ込みも決行した。前回、たまたま試したあっさり和風味がとても良かったので、今回もアミの塩辛とか煮干しとか一切使わず、鰹出汁ベースで、仕上げはゆずをすり下ろし、うーん、今回もいける。しかも何故か、この配合、酸っぱくなるのが遅い。この調子なら2月いっぱい、楽しみを与えてくれそうだ。

 一人暮らしの食卓、いつだって漬け物あるから、一汁一菜一漬け物で事足りる。それにしても、まめになったもんだよなぁ、漬け物に関しては!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シニアの元気に煽られる!

2016-02-11 09:27:55 | シニア演劇

 2週間前の菜の花座新年会の話しは書いた。ファンとの意見交換会のことも書いた。実はいずれも同じ日に行ったものだった。冬、雪の中出歩くのは厭んだものね、時間ずらして同日開催、ファンの皆さん、ついでのようでごめん!いやいや、行きがかりからすれば、新年会の方が後から持ち上がってきた話。まずは、ファンの集いやらなくちゃ、稽古の始まる前の冬場しかないよね、1月か?じゃあ、新年会もやればぁ、って流れで決まった。

 でも、でも、実はその日はも一つプログラムが組まれてたんだ。来年のシニア演劇全国大会への出場をどうするか?の話し合い。なんと1日に3つもこなしてしまった。実に効率的!こういうの、僕はとってもとっても好きだ。なんせ、日常生活でも、複数作業同時進行を常に心がけているくらいだから。例えば、パン焼きながら、朝飯の後片付けしながら、ブログ書いて、本読んで、みたいな支離滅裂を平気でする。町に出掛ける時でも、用件が一つだったら決して行かない。スーパー寄って、洗濯もの出して、ATMで金下ろして、肉屋で評判餃子買って、あっ、突然ですが、高畠の斎院肉屋の餃子!これぜったいのお勧め。中国本場の味、流行なんて屁とも思わぬ分厚い皮と野菜も肉もこれでもか!とだっぷり入った餡、お試しを!て具合に必ず一度期に3つ4つの仕事を済ませないと気が済まない。

 えー、何の話しだっけ?あ、そうそう、一日で話し合い、ファンの集い、新年会、と3つ行事をこなしたってことだった。で、その話し合いの具合が、これまた凄い!全国大会って言っても、来年の開催地は、九州は福岡、かかる経費から言っても、滞在日数から見ても、いえいえ、そんなとこまで舞台装置送れるか?って根本的問題からしても、喧々囂々、賛成反対入り乱れての舌戦が展開すると思いきや、行きたい!今から積み立てすればなんとかなるし、いろんな劇団の人たちと交流できるし、ほら博多屋台村屋台村、みんなが賛成なら当然行くでしょ、と、出てくるのは参加に賛同する意見ばかり!でも、装置はどうやって持って行くの?そこは僕の腕の見せ所、装置を使わずとも、あるいは布とか紙とか軽量でコンパクトにできるものでも、舞台の方はなんとでも致しましょう。ってことで、一気に決定!と言っても、主催者側が受け入れてくれるかどうかが問題なんだけど、まずは強力にエントリーするってことで、この話題は終了。文翔館公演が予選落ちだったってことも、そんなら全国って気合いを入れる結果になったのかもしれないな。

 もう一つの提案は、定期的な菜の花座通信を出す、ってこと。新たにホームページは立ち上げて、公演や活動の様子などこまめにアップしてもらえるようになった。毎日数人でもアクセスがあって心強い。でも、菜の花座のファン層を見ると、ネットとは無縁の方たちも少なくなさそう。やっぱり紙で活字でしかも当人に直接届ける便りは必要だろう。幸い、新聞作りが大好きなって奇特な人もいるようだし、座員の紹介や、稽古風景、ゲネプロや楽屋の様子なんかも伝えられれば、もっと菜の花座を身近なものに感じてもらえる。そうやって、一人でも二人でも興味のある人をつなぎ止めていく努力をしないと観客250人の壁は破れない、記事の内容はホームページともリンクして行けば、どちらも充実したものになる。そりゃいいことだ、とこれまた全員、諸手を挙げて、賛成、今年から年4回の発行をおこなうことになった。通信、購読希望の方は、事務局後藤(プラザ)までご一報を!

 シニアの加入で、菜の花座一気に息を吹き返した感じだ。若い人たちと違って、時間もあるし、活動への責任感も強い。ITや広報誌編集などの実務的な能力も高い。そして、何より、シニア演劇で楽しい思いがたくさんできてるって満足感、これがどしどし新しいこと難しいことへのチャレンジへとつながって行っている。シニアの元気、シニアのやる気、シニアの本気、観客としても団員としても、もっともっと多くの人が触れて欲しいものだなぁ。

 写真は昨年シニア演劇全国大会で上演した『とりかえばや もっか 13』のプレ公演記念写真。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入りはよくてもねぇ!二兎社『書く女』

2016-02-10 09:10:30 | 劇評

 ホールは満席!そりゃそうだろう、黒木華が出て平岳大に朝倉あき、だもの。それにキャパも500と小さいしね。聞きはしなかったけど、満員札止めお断りもあったんじゃないかな。だろうと思って4ヶ月も前のチケット発売の2日目にはわざわざ買いに行ったものな。それくらい期待していた舞台、昨年の『鴎外の怪談』に引き続き永井愛さんの芝居が見られる。

 えっ?これが装置?!実にシンプルな抽象舞台。中央に1間弱の高さの踊り場があって、そこから上手前に向かってなだらかな階段。中間点には間口3間弱奥行き2間ほどのスペース。彩色は一色、うっすらと斑模様のグレー。階段を挟む上下にはバトンから床まで届く縦柵。奥は横縞模様がこれも上まで。永井さんの舞台、そんなに見たわけじゃないが、どれもリアルにしっかり作り込んでた気がする。場面の転換は、何種類かの襖を建てて表現する。正直、これ、僕らが作ってるのと同じじゃない?襖を動かして場面設定って、同じようなこと、やったことあるし。うーん、同じようなアイディアで、嬉しいような、残念なような、でも、プロなら、装置や仕掛けや演出だって、唸らせるようなものにして欲しかったなぁ。ピアニストが常時、舞台に出ていて、その都度演奏してるてのは羨ましいけど、これもこまつ座じゃいつもの技。

 さて、芝居の方は途中15分の休憩を挟んでの2幕構成。前半は、樋口一葉の小説家志願の頃の苦闘とその師にして憧れの人?半井桃水との女と男の駆け引き。どうもすっきりしないなぁ。もやもやが晴れない。笑いありの軽快なタッチで進めたいのか、貧窮の中一途に物書きを目指す一葉をひたむきさに描きたいのか、はっきりしない。明らかに笑いが取れる場面やせりふでもことごとく、すべって、というかかすって通過。そこは台詞の間が違うでしょ、とか、その動きするならもっと大袈裟にやらなくちゃとか、差し出がましく心の中でつっこみながらだらだらと時間が過ぎた。前半の最後になって、荒物屋を始めた一葉がコミカルに動き、ラストは客席に向かって、気合いを入れて「行くぜ!」の一言。そう、そんな調子で前半を引っ張ってくれれば良かったんだよ。

 で、後半はこのコミカルムードが乗ってきて、一葉に心を寄せる二人の文学青年、金の工面に明け暮れる母親と妹、文学上の競争相手と生真面目な友人支援者など入り乱れてテンポ良く、快適なペースで進む。さすが永井さんだ!さすが二兎社だ!やっぱりプロだ!と感心しつつ楽しめた。

 いよいよ佳境、物語の中心はとごに転がって行くのか?伝記ものだから、作者が勝手に作り上げて行くわけにはいかない。文学者の半生記となれば、当然、作品をどう読むかに入り込まないわけにはいかない。文学青年たちや中堅作家?との議論、ライバルとのやりとり、そして、最後はもっとも手強い批評家との丁々発止!一気に盛り上がって、終幕へ、と言いたいところだが、残念、飽きた!はっきり言って、もういいよそんなこと、どうやって幕下ろすのよ、って密かに秒読みしてしまった。

 同じく明治の文豪を描いた『鴎外の階段』とは大違い。あちらは、最後に大きな山場があり、そこが観客をぐぐっと惹きつけ魅了した。何故か?それは『鴎外の階段』の方は、大逆事件という時代を急転換させる大きな出来事が中心にあったからだ。時代を強圧的な方向へ引きづり下ろす大事件を前にして、文学者たちはどう応じるのか、一人一人が自分の文学を迫られた。永井荷風は筆を折り、敢えて色街に身を沈めた。事件に影響を与えられる立場にいた大物森鴎外は、苦渋の決断をした。その鴎外を、知ること、見続けることの大切さで救い出したのが、この作品だった。

 さすがに今は、大逆事件ほどの切迫した状況にはないが、そんな辛く苦しい決断を強いられる季節がひたひたと歩み寄ってはいる。そんな嫌な気配を感じつつ、鴎外たち明治の文学者たちの苦悩に立ち会うことができた、その重さが圧倒的な感動となって舞台を覆ったのだ。だから、『書く女』より余程難解で専門的なやり取りが続いても、最後の最後は舞台に引きづり込まれた。終演後の観客の熱狂も大きなものだった。永井さんの本もたくさん売れた。

 『書く女』に関してはどうか?貧困の中でも書くことに命を削った一葉、書くことは生きることだ、捨てても捨てても捨てられぬ厭う恋を書いた、華族令嬢から遊女まで時代の女たちを見つめた、熱涙の陰に冷笑が宿っている、とかいろんな言葉が飛び交っても、あっ、なるほどね、一葉の文学ってそう読めるのね、の域を脱しないのだ。要するに、評論なんだ。一葉の苦闘が、今の時代に突き刺さってこない、少なくとも僕には縁遠い。半井の作品や若き文学者の興奮に朝鮮を支配下に組み込んでいく時代の流れへの抵抗を語らせてみても、それは、この劇の本流とは関係ないものだ。永井さんの言わざるを得ない気持ちはよおっーくわかるのだが。

 そして、最後はタレント主義の芝居作り、客を呼べたのは成功だったかもしれないが、黒木華の一葉はいただけなかったなぁ。もう少し達者な人かと思っていたのでがっかり。貧困と向き合いながら、無理解な母親の罵りを背に受けつつ、女が小説を書くことに対する社会の蔑みを一身に浴びつつ、それでも書く、ひたすら書く、というひたむきさが伝わってこなかった。コミカルな演技もやりすぎたり、足りなかったと、安定せず、歳月とともに変わっていく一葉を演じきれなかった。死と隣り合わせで、斎藤緑雨とやり合うシーンなど、皮肉屋という設定が先走ってか、シニカルな揚屋の若女将みたいな感じだった。

 有名人は使わない『鴎外の階段』は、観客わずか200だった。それに懲りたのかもしれない。でもなぁ、こまつ座の『頭痛肩こり樋口一葉』の時の小泉今日子だって、客は呼べたけど、舞台の方は脇を固めた手練の役者たちに支えられていた。テレビや映画で見知った顔使って客を呼ぶ、いつまでもこんなことやってると、地方の演劇は、文化はますます衰退していくことだろうな。いや、それは日本人の文化的底の浅さってことでもあるなぁ。

 満席の観客、終演後、永井さんの本、売れてなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする