ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

どんな時代でも、人は様々に生きている。

2016-02-20 08:45:51 | 世の中へ

 5月の菜の花座公演では、満洲開拓の話しを書きたいと思っている。なぜ、満洲?なぜ、開拓?かつて、農本主義的な心情に惹かれた時期があったからかもしれない。一から自然と向きあって農地を切り開く、開拓ってものに、ほのかなロマンを感じ憧れてもいた。岩手大学在学中は仲間とともに、前森山の集団開拓農場に調査活動に入ったりもしたし、那須のアジア学院を何度か訪れたのもその意味合いが強かったんだと今は思う。もちろん、その気持ちの軸、農業が大切って信念は変わっちゃいない。だから、どんなに忙しくとも、田畑を作る仕事はせっせと続けている。

 でも、今、満洲を書かなくっちゃって気持ちは、それとはかなり違う。今、世界がぶち当たってる課題、それを先取りした大変な苦難の体験だったと思うからだ。難民!そう、満洲に移住した数百万の日本人が、シリア難民と同様の悲惨な逃避行を強いられた。もちろん、違いはある。住み慣れた土地を戦乱で立ち退かなくてはならないシリアの人たちに対して、満洲からの難民は無理矢理押し入った他人の土地を追われた人たちだ。避難の先が他国なのか自国なのかも大きな違いだろう。でも、難民問題をさらに難しくしている宗教や民族、国家の問題を見据えると、満洲の悲惨な体験は考えねばならない多くのことを埋もれさせているように感じるのだ。

 また、昨今の嫌韓、嫌中感情の盛り上がり、その裏返しとしての美しき日本主義、にもしっかり向き合える論拠も多々見い出すことができるに違いない。ただ、今のところ、なにをどう書くか、まったく未知数だ。決まってるいるのは、女性を書く、それだけ。これは、悲惨な逃避行を強いられた大多数が女と子どもであったことや、日本に帰還できた比率が女性の方がはるかに低かった事実などもあるが、もっと現実的な制約、菜の花座は女性中心の構成だってことが大きい。2ヶ月近くにわたって関連の本を読んできて、いよいよ、構想をまとめる段階、どんな風に転がって行き、どんな風に突き当たるのか、楽しみでもあるが、きっと苦しい作業になるだろう。

 さて、資料を読んでいて、なるほど、知らなかったという事実にそちこちでぶち当たっているのだが、その中で、あっと驚いた事実を紹介して終わりにしたい。それは、敗北の翌年、新京(旧満洲国の首都、現長春)での出来事。帰還を待つ女性たちの中で、なんとダンサーに採用され、中国人上流階級相手に踊り手を努めたり、麻雀のお相手をして日々の糧を得ていた人たちがいたという事実だ。以前から生業としてきた女性たちではなく、難民の中から応募して採用され、一週間の訓練の後、ダンスホールに雇われた女性たちなのだ。手に入れた着物をドレスに仕立て、それを着て紳士淑女のお相手をしたと言う。ただし、そんな姿で行き帰りを歩けば、暴漢に襲われる恐れも大いにあったので、仕事が終われば、垢と埃でずたずたぼろぼろになって布きれをまとって帰路についた。

 我々が知っている避難民の様子と言えば、食うものもなく、寒さに震えながら、狭い避難所で死の恐怖と戦っている人々の姿だが、同じ町の中、同じ収容所に暮らしていても、こういう生き方をしていた人もいた。また、少年たちの中には、中国人商店主に気に入られ飯店の使い走りをしたり、床屋の弟子になってその日その日を過ごしていた者たちもいた。ロシア兵や中国の暴民に狙われる恐れがあるからと避難民から強く勧められ、仲良し女学生5人全員中国人と結婚して難を逃れたなんて話しも知った。

 あんな極限状態の中にあっても、人々はそれぞれ知恵を絞り、勇気を奮い起こして、その場を生き抜くすべを見いだしていたという事実に改めて驚く。当然と言えば当然なのだが、ともすれば我々は典型の中にすべてを埋没させてしまいがちだ。難民ならこんな暮らし、中国人ならこんな対応。そのように割り切って決めつけることでわかったつもりになっている。だが、現実は実に多様で多彩だ。そのとりどりの生き様を一つ一つ大切にしていく、それが今世界がぶち当たっている難問解決の糸口になるんじゃないかとも思っている。 

 

 

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