ステージおきたま

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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

肋間神経痛に学ぶ身体の複雑系

2015-05-12 09:47:00 | トレーニング
 階段落ちの後遺症は今日も続く。ここ数日が痛みのピークなんだそうだ。全治は2週間。ひたすら息をひそめて時間をやり過ごすしかない。息ひそめって比喩なんかじゃない。本当に息をひそめてそろりそろりと行動している。静かに腹式呼吸、これが激痛怪獣を呼び覚まさないための大切な武器なんだ。

 身体が緊張でこわばったり、筋肉や筋に力が入ると、肋間神経って奴はとっても機嫌が悪くなる。余計なことすんな!グサッと5寸釘をねじ込んでくる。瞬間、痛みにすべてが急停止、ところがこの緊急停止もまた筋肉をいたく収縮させて、ああっ!止めてくれ!ごめん、勘弁!だからまことに始末に悪い。

 日頃、肩から力を抜いて、とか、ストレッチは息を吐きながらリラックスして、なんどと指導している手前、脱力のコツは掴んでいたつもりだったのたが、甘かったねぇ。こうやってそろりて足を出せば無駄な力は入らぬはず、あっちっちっ!だ、だめだ。息を吐きつつ屈めば靴下だって履けるはず、うぉっ!た、助けて!

 かと思うと、こりゃ絶対力んで激痛怪獣を目ざませるに違いないって動きが、意外や意外、見事に脱力できてたりする。自分の身体だというのに、このわがまま勝手さはなんなんだ!

 激痛怪獣を身体の一部に住み着かせてみてわかったことは、まず人間の動きてのは実にいろんな部分の筋肉が関連して作り出されてるんだってこと。階段を一歩上がるって動作についても、太ももやふくらはぎの筋肉だけでは完成しない。腹筋だったり、背筋だったり、上腕筋だったり、いろんな所の筋肉たちが連動してその動きを成り立たせている。

 歩くなんて一見単純な動きからしてそうなんだから、さらに複雑な動きとなると、これはもう複雑なメカシステム的レベル、いやいや、それらの強度とか方向まで考えたら、機械なんかはるかに越えた複雑系の作業に違いない。

 もう一つのわかったこと。それは、コントロールすることの難しさってことだ。当然と言えば当然だ。めちゃくちゃ入り組んで連携してるのが人間の身体なわけだから。頭で考えるごときのちっぽけさで太刀打ちできるはずがないのだ。なんせ、人間の身体は、意識がなにも命ずることのない睡眠中であっても、心臓は動き、呼吸は一定のリズムを崩さず、血流は体内をくまなく巡り、時には夢なんていう脳内劇場まで準備してしまうくらいなんだから。

 となると、身体不可知、とか身体コントロール不能ってところに逃げ込んでしまいたくなる。どうせ、無駄さ、身体は神の創りたもうたものなんだから、ってわけだ。運動嫌いのよく聞く言い訳。

 しかし、優れたスポーツマンなんか見ると、その無意識の部分まで確実にコントロールできてるって動きにちょくちょく出会う。いや、考えるまでもなく身体のすべてが、目的に向かって総動員されている、それがトップアスリートってものなんだろう。鍛錬の賜物でもある。

 演劇だって同じだ。舞台上の身体を思うがままに操作する。表情や声も含まれるわけだから、ある意味ではスポーツ以上の自己コントロールが要求されるってことだろう。

 まだまだ修行が足りない。身体と心をリンクさせたトレーニングが徹底的に不足している。常に身体全体に意識の伝達網張り巡らし、感覚のセンサーを研ぎ澄ます必要がありそうだ。

 と、まあ、今日も階段落ちの肋間神経痛をネタにしてブログをでっち上げてしまった。
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