アーカイブ『市民派アート活動の軌跡』

「アートNPO推進ネットワーク通信」
小冊子「アート市民たち」

挨拶 我が絵画コレクション人生


2016年04月06日 | YTアートコレクション
『好きな絵に囲まれ思索する至福のひととき』



 「私は今、書斎&サロンで、マーラーを聴きながら読書している。流れる曲はルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でも使われた交響曲5番第4楽章“アダージョ”である。好きな絵に囲まれ、珈琲を飲みながら思索する。最高に贅沢なひと時だ。

 コレクション人生も30年を超える。何故絵など買うようになったのだろう。昭和40年代前半に損保業界に入り、高度経済成長時代を生きてきた。仕事は充実感もあり、概ね満足できる会社人生であったが、もう一つの自分の世界を築き上げたい願望を常に心の隅に感じていた。そんな時、ブリヂストン美術館でルオーの『郊外のキリスト』を見て感動、それからである、私のルオー探索と現代美術コレクションが始まったのは・・。

 特にコレクション哲学などという立派なものはないが、私にとっての美術品コレクションは一言で言うなら、“心の贅沢と知的な冒険”ということになるだろうか。芸術とは崇高かつ難しいものである。西洋の古典絵画について言うなら、ヨーロッパの歴史観やキリスト教に関する知識は必須であり、学ぶことも重要である。一方、現代美術は作家自身の生き様の表出であり、作品鑑賞には人間理解や想像力、時代認識が必要である。

 つまり、私にとっての絵画コレクションとは“人生探求の旅”なのかも知れない。私は表面的な美しさより、知的で深い精神性を感じさせる絵に魅かれる。絵の見方も、目に見えるものを見るというより、絵全体を包む空気を感じたり、作家の思いを読み取ったりすることを楽しみにしている。ジャコメッティの彫刻に漂う空気感に魅かれ、長谷川等伯の『松林図屏風』やリ・ウーハンの作品に余白の美しさを感じる。“絵は見るものではなく、読むもの”だと思っている。“絵を読む”とは“思索すること”、もっと言うなら、“本当の自分と向き合うこと”であり、“人間や人生について考えること”に他ならない。(山下透)  

『YTアートコレクション展のこと』

2016年04月06日 | YTアートコレクション


 忙しい仕事の息抜きに絵を見ることを楽しみにしていたが、いつの間にかちょっとしたコレクションになってしまった。元々、個人コレクション展など如何にも自慢げで、私の美学に合わなかったが、尊敬する美術評論家大倉宏氏のお誘いであったので、喜んで開催することとした。大倉宏氏は、画廊新潟絵屋の代表、かつ、新潟市から昭和初期の建物(元日銀支店長邸宅)砂丘館でのアート企画の委託を受けてNPO型のアート活動を続ける美術評論家である。

こうして私は、2009年7月、この砂丘館で、約40点の作品を運びこんでのコレクション展『絵は僕を思索に誘う』を開催することとした。出品作品はルオー版画の他、リ・ウーハンや草間弥生、松田正平など現代美術作品であったが、大変好評であった。大倉さんに感謝!

『おわりに』…アートNPOの旗を降ろす時

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
 私は、2002年4月、“アートNPO活動の提唱”を掲げて、『アートNPO推進ネットワーク』を立ち上げた。当時は仕事も多忙を極めていた上、妻が重い病に倒れるなどのアクシデントが重なったので組織設立の中止も考えたが、支持者も多く、是非やりましょうとの声に押され旗揚げすることとなった。

 この団体は元々NPO法人化を前提にスタートしたのであるが、組織作りよりまず活動することに意味ありと考え、法人化手続きは先送りして、コレクション展や若手作家紹介展などの企画を先行実行した。その結果、我々の活動はささやかではあるが一定の評価を頂戴し、日経新聞や美術年鑑、月刊ギャラリー、アートコレクター創刊号などの美術雑誌にも紹介され、順調に発展してきた。

 しかし、時間が経過するなかで幾つか問題も見えてきた。一つはNPO法人化についての、代表である私と他の役員との温度差。中核役員はそれぞれ仕事を持つ働き盛りで組織運営の余力はなく、私は対外的なことから会報作成・WEB情報発信・会員管理その他事務運営に翻弄されてしまった。任意団体の儘ならこれでもよいのであるが、NPOといえども法人であり、法人化すれば企業・団体と同様にマネジメント業務は役員の必須任務となる。アート企画も重要な仕事ではあるが、こういう苦労を共にする覚悟がなければNPO法人化は無理と考えるようになったのである。

 元々、私のアートNPO立ち上げの目的は美術の世界に“新しい風”を起こすことにあり、代表を長くやる気はなかったので、早い時期から後継者へのバトンタッチを考えていたが、そんなわけで後継者選びも諦めた。こういう経過を経て、私はNPO法人化計画を断念、かつ既に定着していた組織名の変更をも決断したのであった。

 しかも、偶々、人間ドッグで癌の診断を受け入院手術、順調に回復したのであるが、その後も再入院や検査が続き、再発・転移の可能性を抱えたままでの組織拡大は、いずれ会員に迷惑をかけかねないと考えるに至った。こうして熟慮を重ねた結果、組織は任意団体のままとし、場合によったら、これを機会に活動の段階的縮小せざるを得ないだろうと覚悟したのである。
結局のところ、NPO法人化という当初計画を断念することになったのは私の責任である。ならば、この何年かご支援いただいた会員の皆様に報いる意味を籠めて、とりあえず年会費を徴収しないかたちでの組織運営に移行しようと腹を固めたのである。そして昨年11月、活動の縮小と残った予算による小冊子作りを提案した次第である。
 
 私のNPO型アート市民運動の夢はいまだ道半ばであるが、美術の世界に“新しい風”を起こすことだけはできたのではなかろうか。この5年間一緒に活動していただいた役員や、趣旨にご賛同かつご支援いただいた方々に感謝しながら、ここに『アートNPO推進ネットワーク』の旗を降ろすこととしたい。
感謝!!
(2006年12月 代表山下透)

7、《アートNPOの趣旨にご賛同とご支援をいただいた方々》

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
『平井智重』さんは主婦だが、都立高校書道科講師の経験あり、教育現場から芸術・実技が減りつつあることに危機感を抱くお一人。書を中心としたアート活動をすすめる。

『林美佐子』さんは通信教育で学芸員の資格を取り、東京国立近代美術館にボランティア登録、アート活動をしている。写真家であるご主人の作品を中心とした個人美術館を開設。

『友利淳子』さんは食と農に関するNPO団体を設立し、コーディネーターとしてご活躍。食を楽しみながらの農作業ボランティア、食と農の講演会など市民運動を推進している。

『新井侑竹』さんは桑原翠邦に師事した書家。ここ数年は墨アート作品に挑戦、展覧会「雲湧く」「淙々」を開催。アートNPOイベントにもボランティアご参加いただき、感謝。

『千葉加音』さんは書燈社出身の近代詩文書の書家で、毎日書道展・神奈川県立美術館などでご活躍である。最近イタリアミラノでも作品発表の機会があり、海外進出にも意欲的。

『鈴木玉恵』さんは横浜青葉台に暮らす明朗で素敵な奥様。千葉加音さんの愛弟子でもあり、書燈社出身の近代詩文書家として活躍中である。毎日書道展などで入賞を重ねる。

『木元栄子』さんはフリーランスライターの他、キャリアアップ研修講師としてもご活躍。教育新聞に小生及びアートNPO紹介記事を掲載していただき、お世話になった。

『鈴木瑛子』さんは、長く大手生保の営業に携わったキャリアウーマン。母方の家系には画家やノリタケ磁器関係者がいる芸術に造詣深いファミリー。趣味はモダンダンス。

『高橋千鶴子』さんは歌舞伎がお好きな素敵な奥様、特に片岡仁左衛門の熱狂的なファンである。日本画家手塚雄二講演会や上野憲男展覧会のボランティアご支援を頂戴した。

6、《画廊など美術専門家の立場から応援していただいた方々》

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
『柳渭珍』さんは朝鮮李朝文官の由緒正しい家柄の末裔で、個人的お付き合いは30年以上になる。韓国青瓦台の現代美術画廊『珍画廊』の会長でもある。豊かな人脈に恵まれ国際的に活躍するが、英語・仏語・日本語の達者な知性溢れるキャリアウーマンである。

『土倉有三』氏は現代美術画廊『ギャラリー東京ユマニテ』の代表である。絵を商うといったところのない、人間的魅力を感じさせる誠実な人柄の画廊主で、お付き合いも長い。 企画画廊一筋に、宮崎進、加納光於、野田裕司など質の高い作家の作品を扱う。

『池田一朗』氏は現代版画専門画廊「ギャラリー池田美術」の画廊主。私が若い頃ルオー版画を探して始めて入った銀座の画廊だ。扱うのは榎倉康二、北川健二、山口啓介など本格的作家ばかりだ。痩せ我慢ですよ・・と言いながら企画画廊を続ける姿は尊敬に値する。

『椿原弘也』氏は京橋「ギャラリー椿」のオーナー。開光一、望月通陽、小林健司、山本麻友香など扱うが、特に抒情的でポエティカルな作品を紹介するファンの多い画廊だ。ここ数年、韓国や中国アートフェアにも作家紹介をするなど海外進出にも意欲的である。

『佐々井智子』さんは「ギャラリー・アートもりもと」の役員、実力もキャリアもある素敵な女性ギャラリストだ。著名な洋画家、彫刻家の作品を扱う。アートNPO会員として変わらない声援を頂戴したが、コラボレーション企画も実現できず恐縮している。感謝。

『白水真子』さんは「ギャラリー・しらみず美術」のオーナー、扱うのはミズテツオ、木下晋など実力作家。アートNPOは横田海や岸田淳平コレクション展などの共同企画でご支援をいただいた。元々は音楽家志望、今はポルシェを乗り回すお洒落なレディーだ。

『後藤眞理子』さんは「ギャラリーゴトー」の女性オーナー、若手作家の紹介を中心に頑張っている。最近銀座中央通りに移転したばかりだ。アートNPOとの間では、上野憲男展、渡邉早苗展などの共同企画によるコレクション展が実現、お世話になった。

『矢澤園子』さんは、最上階の天窓から自然光が差し込む瀟洒な3階建てビルで、『ごらくギャラリー』を経営、前田昌良など質の高い作家を扱ってきたが、休業となり残念。

『内藤純子』さんは新小岩の自宅と銀座で『純画廊』を主宰。テーマはピュアな作品の紹介とのこと。芸術文化への思い深く、『クリスマス・イン・ピース特別展』にも参画。

『望月章子』さんは甲府にて洒落た構えの『アサヒ・ギャラリー』を経営、扱うのは渡辺ゆう、小川待子、菅原健彦など人気の高い作家たち。趣味は朝鮮李朝家具の収集など。

『渡辺己代司』氏は岐阜で日本画画廊『ゑぎぬ』を経営する。昨年は日本画家手塚雄二の“花月草星全国巡回展”の広報事務局長として活躍されたが、その企画の一環としてアートNPO宛て『手塚雄二&仮屋崎省吾講演会』主催のご提案をいただき、お世話になった。

『金井允』氏は『金井画廊』の画廊主。実直かつ信頼できるお人柄でファンも多い。蔡国華、森幸夫、鷲森秀雄などを中心に油彩画作家を扱う。アートNPOのコレクション展『ぼくらの浅見哲一展』への会場提供など全面協力をいただいたが、大変好評であった。

『梅野茂』氏は『画廊轍』を経営、人気作家の作品を幅広く扱うが、特に山口長男、山田正亮などを自らコレクションしてきた目利き画商である。昨年11月、アートNPO主催の『市民派コレクターによる山田正亮展』では会場提供をいただき、お世話になった。

『野崎悦子』さんは武蔵小金井の閑静な住宅街で『ギャラリー・テムズ』を経営、若手作家を中心に作家支援を続けている。話の端々に美術への熱い思いが滲む、女性オーナー。

『杉原伊津子』さんは神戸六甲で『ギャラリーむん』を主宰、若手作家中心の展覧会活動を進めてきた。関西地域におけるアートNPO活動の中核にと期待した方である。

『故・磯良卓志』氏は『ギャラリー汲美』を経営、アートNPO推薦作家でもある横田海、上野憲男、森本秀樹や若手作家を育ててきたが、今年亡くなられた。ご冥福を祈りたい。

*その他、日本画画廊『戸村美術』戸村正巳氏、若手作家を扱う『羅針盤』岡崎こゆさん、『アートサロン叢』塩田真弓さん、『ギャラリー宗美』辻美佐子さんにもお世話になった。


5、《ビジネスの世界から応援していただいた先輩・友人たち》

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
『大森恭智』氏は小生の会社時代の元上司。専門はシステムプランニングだが、ロンドン子会社役員として外国営業部門で活躍したキャリアを持つ。現在は損保代理店を経営。

『松本義則』氏は若き時代の同僚であり友人。なかなかの文学青年で、酒酌み交わしながら大江健三郎など語り合った仲だ。専門は損害賠償実務。趣味は山登りと読書。

『栗盛雅敏』氏は若い頃損保会社で一緒に仕事をした仲だが、故郷である大館市に戻り家業を継いだ素封家の跡取りだ。JA役員や市教育委員長を歴任、地方貢献の人生を送る。

『佐藤俊雄』氏は弘前という遠い地から声援を送ってくれた友人である。公務員を経て病院管理職の地位にあるが、若い頃はボクシングを志した変わった経歴の持ち主だ。

『土佐育也』氏は大手損保会社のシステム部長として業界システムの開発にも貢献、現在もアドバイザーの仕事に携わる。海外旅行での美術館巡りやボランティアを楽しむ毎日。

『内藤嘉春』氏は野村総合研究所出身であるが、元々は天文学・物理学に打ち込んだ研究肌の人。音楽が好きで定年後の趣味はバッハなどの合唱とゴルフ三昧のシニアライフ。

『根本博光』氏は会社時代の先輩。システム開発一筋の人生を歩み、リタイア後は京都に居を構え、悠々自適人生を目指す。蒸気機関車の模型製作は趣味を超える玄人はだし。

『森川勝彦』氏も会社時代の情報システム部門の同僚。リタイア後、業界の仲間たちとシステムコンサル会社を設立、東奔西走で頑張っている。趣味は美術より専らクラシック。

『村山浩司』氏はシステム開発一筋の人生を歩み、現在大手損保のシステム会社社長である。趣味のドラム演奏が本格化、オジサンバンドを編成、新聞に載るほどの活躍である。

『熊谷和彦』氏はかの著名画家、熊谷守一の本家『屋号藤山』の10代目跡取りである。血筋なのか絵も上手だが、熊谷守一の伝承者の一人として生きたいと抱負を語る。

『高比良正司』氏は『子ども劇場全国センター』やNPO支援団体『NPO推進ネット』の代表理事。NPO&行政協業の第一人者。アートNPOにも声援を送っていただいた。

『福田房枝』さんも『子ども劇場全国センター』役員として、子供系NPOの世界で活躍してきた。世界中の子供たちの抱える問題に果敢に取り組むキャリア女性だ。

『鴻田益孝』氏は『ニューライフ21開発機構』理事長など介護マーケットで活躍中。2003年、山王の高齢者施設でのコレクション展の提案・実行などのご支援を頂戴した。

『大川元一』氏は保険コンサルタントとして損保・生保のコンサルティング事業を営む。 外資参入など厳しい業界だが、持前の明るさと誠実さで頑張る若手事業主だ。

『星佐江子』さんは損生保代理店に勤務する、明るく感じのいい女性である。絵を見るのが大好きとのこと。アートNPOの趣旨に賛同され、会員としてご参加いただいた。

『小森寛一』氏は若い頃からの友人であり、現在は税務会計事務所の顧問。車好きが高じて黄色の“ポルシェ911”を乗り回す。好きな美術は日本画、鏑木清方の名品を所蔵。

4、《コレクターとして活動支援していただいた方々》

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
『山岸勝博』氏の専門はコンピュータサプライ業務。忙しい仕事の余暇に取り組んだ絵画収集は20年を超えるが、好きな美術は50年代から60年代に活躍した画家のモダンでスマートさのある落ち着いた油絵作品という。こうして辿り着いたのが現代美術の山田正亮作品であり、一人の作家に絞ってのコレクション人生は立派である。アートNPOでは、『市民派コレクターによる山田正亮展』を企画推進していただいたが、大変好評であった。

『小倉敬一』氏は純粋かつ地道なコレクターで、絵が好きだった亡き奥様への思いを秘め清宮質文などの作品をコレクションしてきた。しかも、単に作品収集にとどまることなく、年に一度銀座の画廊でコレクション展を開催している。昨年は長谷川りん二郎、今年は水彩専門画家の作品展であった。アートNPO活動については、『コレクターの見る視点展』に毎年ご参加、集治千晶、石居麻耶などの作家を推薦、継続的ご支援をいただいた。

『山本勝彦』氏は損保会社時代の部門は違うが少し年若の同僚である。30年以上画廊巡りを続けるサラリーマンコレクターで、コレクションは大藪雅孝や開光一等の他、若手作家中心に数千点に及ぶ。ここ数年は、自称“アートソムリエ”としてサラリーマンなどの絵画購入支援活動を展開、新聞・雑誌にも紹介される有名人だ。アートNPOにも継続して会員登録いただき、『ぼくらの・・展』などには毎回参加、声援を送ってくれた。

『鈴木忠男』氏は古美術から現代作家の作品まで、幅広いジャンルの美術品コレクターであり、収集点数も相当な数である。特に江戸から明治にかけての幟の本格コレクターとしても知られる。アートNPOの『コレクターの見る視点展』には毎回参加、その独特の鑑識眼で選んだ若手作家たちを、推薦ご紹介いただいた。『美楽舎』会員でもある。

『篠沢潤子』さんは医師で南画の祖父や和歌を嗜む母上の血を受けたのか、趣味は絵画収集と作品制作である。作風は風や雲をテーマにした抽象、ドイツなど海外生活の影響か、鮮やかな色彩が印象的だ。アートNPOについては、コレクション展への作品出品、手塚雄二展ボランティア、展覧会へのワイン差し入れなど変わらぬご支援をいただいた。

『藤本治聖』氏はキャリア20年のコレクター。はじめて購入したのは荻須高徳作品であったが、小林健二、河嶋淳司、岡村桂三郎などに拡大。東南アジアの古裂やインカ古美術にも惹かれ、大手通信会社管理職の海外出張時に各地を探索するなど、幸せなコレクション人生だ。その後中国の現代美術作家である牛歩展を企画、アートNPOも後援した。

『小林盛夫』氏は印刷会社を経営する事業主。25年前に初めて購入したのは西山英雄作品、その後絹谷孝司、前本利彦、大矢英雄などの超人気作家やパリ在住の早川俊二作品などを集中的にコレクションしてきた。美術同好会『ASの会』の会長でもあるが、アートNPO支援のためご参加いただいた。週一回のゴルフは、シングル級の腕前である。

『三浦康栄』氏は日本IBM社のシステムエンジニア。専門は数学なのに芸術文化に造詣深く、数学者藤原武彦流に言えば品格ある人である。美術の才能に恵まれ自ら油彩画を制作するが、人物画・静物画などなかなかの腕前である。山内龍雄や若手作家のコレクターでもあり、『AS通信』に時々掲載される美術展感想も、独特の視点が滲んで興味深い。

『木村悦雄』氏はご夫妻での二人三脚コレクターとして有名である。物故作家を中心に、明治以降の著名作家の作品を体系的にコレクションするという本格的なものであるが、このところ草間弥生など現代美術にも広がりつつある。美術同好会『わの会』の会員でもあり、ゆくゆくは千葉のご自宅で“わたくし美術館”を開くのが夢とのことである。

『平井勝正』氏はコレクター・アーティスト・画廊主の三つの顔を持つ。始めて購入したのはカール・コーラップ、その後上野憲男、横田海などを収集。自ら制作するのは、パウル・クレーを思わせる詩的な水彩作品。その絵好きが最後に辿り着いた港が『アートスペース・ポルトリブレ』、新宿の雑踏街のここにだけ文化の香りが漂う、そんな画廊である。

『楢崎卓茂』氏は若い頃美術を志した経歴の持ち主で、その才能を生かしたインテリア事業を経営。コレクションは難波田龍起や現代作家作品などジャンルを問わず幅広い。アートNPOにも会員参加、『高齢者施設マイコレクション展』などに作品出品いただいた。

3、《事務局ボランティアなどのご支援をいただいた方々》

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
『相馬美穂』さんは損保会社財務部門のベテランOL。多忙な仕事の合間でアートNPOの会計&会員管理などのご支援をいただいた。好きな絵はフェルメールとモジリアーニ。

『伊藤和子』さんはWEB系システムのエンジニア、アートNPOニュースの掲載などサイト運営管理にご尽力いただいた。アーティストでもあり、時々抽象作品に挑戦する。

『白石好恵』さんは私のベンチャー企業時代の同僚である。フリーのデザイナーでもあり、アートNPOのロゴや組織立ち上げ時のパンフレット制作などのご支援をいただいた。

『小林まどか』さんは多摩美出身の若手日本画家で、作品は力強く独特の世界だ。高校の美術教師も務める。アートNPOの展覧会DMのデザイン制作で大変お世話になった。

2、《理事・相談役など役員としてご支援をいただいた方々》

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
『マコト・フジムラ』氏は米国バックパネル大学卒業後、東京芸大で日本画を学び、その後NYで作家活動を続けるアーティストである。作品制作だけでなく、ホワイトハウスの文化担当顧問に就任したり、NYのアーティスト団体“トライベッカ・テンポラリー”の中心的存在として幅広い活動を続けている。私は東京芸大時代からその信条や作品に惹かれ、お付き合いしていたが、アートNPO立ち上げの際、その思いを語ったところ、「素晴らしい活動ですね」とそのミッションに賛同され、特別会員になっていただいた。こうして2003年、アートNPOとマコト氏が主宰する『アイアムの会』との共催展覧会『クリスマス・イン・ピース展』が実現したのであるが、大変嬉しいことであった。

『大倉宏』氏は東京芸大美術学部卒業後、新潟市美術館学芸員を経て、フリーの美術評論家として活躍中であるが、著書『東京ノイズ』は氏の故郷新潟や作家佐藤哲三への思いが滲む、感性溢れる評論集である。その後、NPO型画廊『新潟絵屋』を立ち上げ現在に至る。アートNPOには発足当初より相談役としてご参画いただき、その後、冨長敦也、森本秀樹などのコラボレーション展覧会を共同企画として開催することができた。感謝。

『綿貫不二夫』氏は南青山でギャラリー&編集事務所『ときの忘れもの』を経営。かつて『現代版画センター』を設立、80人もの作家の版画制作の他、アンディ・ウォーホル、草間弥生の展覧会を企画したキャリアを持つ。編集者としても、『資生堂ギャラリー75年史』『瑛九作品集(日経)』などを制作、現在も『版画掌誌ときの忘れもの』を刊行中である。文化の香りのする人で、アートNPO設立に際しても快いアドバイスを頂戴した。

『相澤吉勝』氏は現在中部大学の経営情報学部教授としてシステムの講義を担当している。我が出身会社とも縁が深い『野村総合研究所』の現役時代、情報システム構築に関するプロジェクトで一緒に仕事をしたが、その後も個人的交流が続いている。アートNPO立ち上げに際しても当初から理事及び監事としてご参画いただき、ご支援を頂戴した。趣味は美術より音楽が中心であり、クラシック全般、特にチェロ演奏に造詣が深い。

『赤塚元』氏は『凸版印刷』のICビジネス本部の部長などを歴任。私が経営に携わったベンチャー企業の出資会社の一社であったことからのお付き合いであるが、芸術・文化への造詣も深く、人間的見識を感じさせる。アートNPO立ち上げ時からご支援を頂戴した。

『ヨシタミチコ』さんは『カラースペースワム』の代表。我が国の色彩プランナーの草分け的存在であり、街並作りや病院・高齢者施設における色彩提案、色彩にかかる人材育成、セミナーなどの活躍を続けている。パートナーの『色彩美術館』館長菅原猛氏は、小野木学・山田正亮など現代美術の一級コレクター、美術評論家として知られる。『市民派コレクターによる山田正亮展』に際して、貴重なコレクションを特別出品していただいた。

『中田久尚』氏は旅行業・ホテル業など幅広いキャリアを経て、現在『(財)佐藤国際文化育英財団』の常務理事として美術館経営に携わる。アートNPOの法人賛助会員としてご参画いただき感謝に堪えない。岡村桂三郎展や万葉種子展の支援程度しかお役にたてず残念であったが、今後も公立美術館とは違う特色ある企画での益々のご活躍を期待したい。

『鈴木才子』さんは南青山の彩画廊を拠点とする『NPO法人アートトラスト』の会長であり、芸術文化振興へのミッションを掲げ、アート運動を推進している。里見勝蔵やご主人である鈴木保画伯作品などをコレクション展示する美術館作りが夢とのこと。若い頃は宮本百合子を慕い文学を志したり、ファッションデザイナーとして活躍して来た。

『大塚まりこ』さんは、自由が丘の所有ビルの一角に、若手作家のためのアートスペース『もみの木画廊』を経営している。アートNPOの『コレクターの見る視点展』のために継続的に会場提供をいただくなどのご支援をいただいた。玉川奥沢会役員として地域文化の興隆にも尽力、又青山学院大学の馬術部監督など、幅広い活躍を続けている。

『北條和子』さんは新橋に画廊『閑々居』を構え、山田昌宏、竹内啓、武田訓左、小滝雅道、間島秀徳など新しい日本画をめざす作家たちの支援を続けている。若い頃は演劇や文学を志したり、現在茶道宗偏流の家元を継承するなど多才な女性である。『社会福祉法人鎌倉清和会』の理事など社会貢献活動にも意欲的で、尊敬に値する人生だ。

『佐藤潤』氏は経営コンサルタントである。若い頃パリに渡り、ソルボンヌ大学や映画学校にも通い、映画制作に従事した経験を持つ。帰国後は『シード・コンサルタント』を設立しご活躍である。仙川の『東京アートミュージアム』代表の伊藤容子さんなど、アート関係の人脈も幅広い。好きな画家はゴッホで、世界各地の美術館で作品鑑賞してきた。

1、《アートNPOの中核としてご活躍いただいた方々》

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
『原田俊一』氏はサラリーマンコレクターの草分け的存在である。一貫して新しい日本画に関心を持ち、東京芸大など美大の若手作家との交流を深めてきた。コレクションは河嶋淳司、マコトフジムラ他、いまや中堅実力派として活躍している作家たちの作品ばかりだ。アートNPO立ち上げを最初に相談したアートの世界の友人であり、苦労を共にしてきた同志的存在である。『クリスマス・イン・ピース展』、『コレクターの見る視点展』など提案・実行いただいたアート企画は、いずれもアートNPO活動の歴史に残るものである。

『伊藤厚美』氏は『アスクエア神田ギャラリー』代表であるが、美術業界の現状についても率直に語ることができる新しい時代のギャラリストである。読書家でもあり、名著のこと、経済や社会のことなど話題も豊富で楽しい。日常のなかに生きている美術といったことに関心を持ち、アート市民時代の到来に期待を寄せる。アートNPOにおける理論派でもあり、メディアへの紹介など継続的支援を頂戴した。現在、京都造形大学の環境美術講師として教壇に立つなど活動の幅を広げている。美術同好会『ASの会』役員でもある。

『御子柴大三』氏は大手百貨店の外商の仕事の傍ら、絵画コレクションを続けて30年。若い頃松田正平や野見山暁治の絵に惹かれ、小貫政之助の作品を購入した経験から、無名作家の発掘こそ収集の道との持論を展開するこだわりのコレクターである。アートNPOにおいては『ぼくらの・・展』を提案、森本秀樹など好きな作家のコレクション展を実現させたが、これらの企画はアートNPOの事業の一つに育ち、会の発展にも貢献した。

『立島恵』氏は佐藤美術館の学芸部長である。『(財)佐藤国際文化育英財団』の選考委員、或いは東山魁夷記念日本画大賞推薦委員として若手作家育成など幅広く活躍中である。学芸員として取り組んできた日本画家マコトフジムラや岡村桂三郎研究については高い評価を得ている。アートNPOにおいては常務理事としてご尽力いただいたが、特にマコト・フジムラ氏の『アイアムの会』との共催展覧会『クリスマス・イン・ピース展』を成功裡にやり遂げることができたのは、立島氏の力量と佐藤美術館のご支援によるものである。

『黒田裕一郎』氏は、私が定年間近の時期に経営に携わったベンチャー企業時代以来の若き友人である。アートNPOの理事を快く引き受けていただいた上、各種アート企画の裏方的任務にご尽力いただいた。専門は出版業界の広告・営業であるが、個人的にはTOEICに挑戦し続け、700点を合格した努力家である。弘法大師空海を敬愛し、毎年大晦日に真言密教の道場である京都東寺を訪ねる旅を続けている。

『中谷孝司』氏とは、私が理事をしていた『(社)長寿社会文化協会』時代以来のお付き合いだが、美術と音楽のコラボレーション実現のため理事をお引き受けいただいた。音楽の世界で豊かな人脈を持ち、その後、『国立楽器』の代表取締役に就任、サロン・ド・ノアン主宰や一橋大学兼松講堂での大規模コンサートを推進している。業務多忙のため美術&音楽の企画は実現していないが、役員として変わることのないご支援をいただいた。

『廣川和徳』氏は家業である工務店経営の傍ら、『日本民家再生リサイクル協会』理事や街おこしボランティアなど幾つもの活動に関わっている。アートNPOにおいては『コレクターの見る視点展』に毎回参加、藤倉明子など若手作家を紹介する他、アート街作りの提案や、クリスマス・イン・ピース展のオークション入札箱製作など裏方としても貢献していただいた。古民家や伝統建築の魅力を熱っぽく語る、気さくな人柄の好人物だ。

『太田信之』氏は若い頃からの我が尊敬する先輩である。某大手建材メーカーを定年退職後、早稲田大学の特別研究員&講師の他、環境保護の視点からの木造建築・伝統的工法の重要性を世に問うべくNPO法人『建築市場委員会』を設立、事務局長として活躍中である。アートNPOでは監査役としてご尽力いただいた。三味線・小唄などの趣味人で、蓼流玉和会の幹事でもある。いずれ辰巳芸者の古き街で津軽三味線の流しをやるのだそうだ。

『市民派アート活動をご支援いただいた人々』

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
 人間一人の力で出来ることは小さい。かつて或る易学者が私の運勢を占ってくれたことがある。生涯通じての全体運は“境遇運がいい人生”、つまり“人に恵まれる星まわり”とのことであった。その通りだと思った。不思議なことに私の周囲にはいつも人がいて、仕事では優秀な同僚・部下に恵まれ幸運な会社人生を全う、個人的にもよき友人たち、よき家族に囲まれて生きてきた。

  アートNPO立ち上げ時にも同じことを感じた。美術愛好家は別にして、市民派アートも現代美術もよくわからないけど、「わかった、協力するよ」と義理と人情で会員になってくれた友人も多い。そんな訳で大勢の人に支えられ、予想以上の活動が実現した。この冊子はそんな方々へのお礼の気持ちから企画したのであるが、以下は、組織立ち上げに共に取り組んでくれた友人たち、展覧会企画に参画してくれたコレクターたち、趣旨にご賛同とご支援をいただいた方々、そんな会員お一人お一人のひとこと紹介である。(アートNPO推進ネットワーク代表 山下透)

※それぞれクリックすると1~7のお一人お一人の紹介文が読めます。

1、《アートNPOの中核としてご活躍いただいた方々》
2、《理事・相談役など役員としてご支援をいただいた方々》
3、《事務局ボランティアなどのご支援をいただいた方々》
4、《コレクターとして活動支援していただいた方々》
5、《ビジネスの世界から応援していただいた先輩・友人たち》
6、《画廊など美術専門家の立場から応援していただいた方々》
7、《アートNPOの趣旨にご賛同とご支援をいただいた方々》

『画家の立場から』藤岡泠子 

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 2003年、韓国で開催されたリ・ウーハンの回顧展を観るツアーに参加しました。当時、友人の家でみた彼の若い頃の数点の素描が頭を離れず、初期の仕事をみたいと思っていました。8人のこじんまりとしたツアーで、そこに山下氏も参加しておられ、美術館、画廊巡り、作家訪問、おいしい韓国料理と贅沢な三日間を過ごしました。その山下氏がアートNPOの活動をしておられることを知りました。活動の主旨をうかがっても描く立場にいる者として今ひとつピンときませんでしたが、コレクター達の展覧会に参加してみて、会員の方それぞれがそれぞれの形で参加され、ひとつの運動を盛り上げておられる様子は実に楽しそうでした。特に独学で絵を学んだり、団体に所属することなく独自の世界に挑戦しつづける画家たちに注目する、その視点に新鮮なものを感じました。私の見る展覧会はほとんどが知っている人たち中心でかなり狭い範囲に限られていて、絵を楽しむというより仕事の一部になっている気がしています。若い時は好き、嫌い、で見ている事が多かったと思いますが、年と共に別の見方ができるようになったとはいえ、まだ自分の枠の中で見ている事が多いと感じました。

 私は絵を描いていますが、画家といえるのかどうか疑わしいと思っています。知り合いの年配の女流画家に「絵で生計をたてていて始めて画家といえるのです。貴女のようにご主人に生活をみてもらっているようでは、ただ趣味の人ですよ」と言はれ続けています。確かに一理ありますが、絵が売れるという事は、いい絵だからとは限らないと思います。「いい絵とは?」となるとこれも難しい事です。描く側と見る側との心が響きあったとき、見る人にとってその作品は好きないい絵となるのだと思います。アートNPOの活動の根底は、ここの所を大事にしているのだと思います。

 大学、大学院と美術系の大学を卒業して、私がフランスへ渡ったのは26才の時でした。当時としては微妙な年頃でしたので、両親の反対も強くかなりの決心で出かけました。まず驚いたのは空気が澄んでいる事、物の見え方がまるで違うのでした。そして日本ではさほど気にならなかった自分が女である事を、常に認識していなければならない事でした。これはとても煩わしく疲れる事でした。緊張を続ける自信もなく、1年で帰国する決心を早々にして、見る、吸収するに徹し、パリを拠点にあちこち歩きました。帰国後、家庭に入り札幌で10年、澄んだ空気の中、常に自然を身近に感じて過ごしました。中央画壇の動きも全く耳に入らずのこの時期は自分の心の中をみつめる貴重な時だったような気がします。今も年1度は北海道を訪れ、自然の中に身を置き同化していく・・・風の音がきこえ、雪の降る音がする、氷がきしむ・・・・自分の心に響く自然の息ずかいを表現したいと思っています。そして見る人の心の中で又大きく世界が広がっていく、そういう作品が描けたならと思います。

 作品を制作する者と鑑賞者、立場は違いますが、共に美術を愛する者として、いいお付き合いができることを楽しみにしております。
                                        
(画家 国画会会員)
 

『山下さんと私、そして中国陶瓷器研究のこと』水上和則 

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』
1、山下さんと中国陶瓷器との出会い
 山下透さんと初めてお会いしたのは、今から13年前の1995年の早春であった。文京区春日にあった“ギャラリー繭”の現代作家の作品展会場でのことであったと思う。その頃の山下さんは現役の損害保険会社の部長さんであり、すでに現代絵画のコレクターでもあった。

 私のほうはといえば、大学の非常勤講師も6年目に入り、いささか生活にも疲れ、学問への目標も定まらぬままにギャラリーで出された茶を飲み中国陶瓷を見て、某かの感想をもち気持ちを自由に漂わせて再び椅子に座るという、要するに怠惰に時間を浪費していた時期であった。

 その日、ギャラリーの主人に山下さんを紹介された。私は現代美術のコレクターと会うのは初めてのことでもあって、「存命の某現代作家の作品値段は、ずいぶん高いのでしょう」などと、間抜けな質問をしていた。山下さんは、ギャラリー主人のプライベート中国陶瓷コレクションを見ながらも、現代作家の作品が気になる素振りであった。私の山下さんに対する第一印象は、現代美術の収集には精力的な、どの様に現代を表現するかのテーマに強く興味をもっている人で、立体造形品のもつ形状の美しさにあまり興味を示さない人のようだ、というものであった。今から思えば、初めての中国陶瓷に大いに戸惑いがあったのであろう。

2、香港骨董街古陶瓷探索の旅
 この年の6月のある夜、そのギャラリーで山下さんと顔を合わせたが、この日は私の2度目の香港行きから帰った翌日の事であった。旅行は香港の友人に会いお願い事を託し、美術館と書店を回り 楽しみにしていた古董街での買い物をして帰国したもので、ギャラリー主人依頼の古董品の買い物である漢時代陶屋の梱包を解いていたときであったと思う。私が、私自身のマイコレクションである子供の俑(人形)3体を、自慢げにテーブルに並べていた時である。踊っているような仕草の子供の俑は3体ともに高さ7・8cm程で、造形的にしっかりしたものであった。山下さんは、「可愛いですね、これ、お譲りいただけませんか」と、突然言われた。中国陶俑のもつ面白さは、西洋雕刻のもつ解剖学的正確さとは異なるもので、その魅力は、人物や動物の特徴をより強調する特徴の取り上げ方の妙にある。しかも、佛像雕刻にもつような多くのテクニックの萌芽がすでに漢代に見られる等である。山下さんは開眼したのか、以来中国の俑を中心に、奥さんのための茶器など中国陶瓷の良品を探されるようになった。

 その年の暮れ12月、山下さんとギャラリー主人、そして私、他の中国陶瓷愛好家等と共に小さな旅行団を組み、香港古董街をぶらりと歩く旅に行くことになった。古董街の坂道を、掘り出し物を求めて昇ったり降りたり、数十軒の店を覗いた。陽も暮れ、みな、手に手に獲物を持って、疲れた足をホテルのレストランに休めた。中華料理の舌鼓と共に、各人の収獲品の自慢話も絶好調に進む。年の瀬の迫った香港の飯店では、金色に塗られた3mを越える樹に紅い歳玉の袋が無数にぶら下げられており、「發財」の豪華な飾り付けが中国の正月気分を、それこそ、この上もなく盛大に盛り上げていた。非日常の中華世界と古董品のお買い物、気の置けぬ仲間との香港旅行を私たちは心より楽しんだ。

3、白山の仕事場での古陶瓷談義
 その後 山下さんとの付き合いは緊密になった。その頃私は、文京区白山に小さなアパートの一室を借りていた。昭和初期の建物で 木造三階建て、各室出入り口の扉にはひし形の目隠しガラスの入った、住民は年寄りばかりのアパートであった。使い古された階段の手すり、磁器でできた電気のヒューズ、共同の流しに共同のトイレ、「三丁目の夕日」セットにも使えるような昭和レトロ棲家であった。
 山下さんの私への訪問は、現役バリバリの先輩が、ウダツの上がらぬ後輩を元気付けるために訪ねる姿を想像されるだろう。何の用事でのご来訪か、もうすっかり忘れてしまったが、私は「おやっ!」と思ったことを記憶している。建物全体のもつ昭和の雰囲気と、誰に認められるのでもない私のコツコツ続けられる中国考古学雑誌の調査と、画像データベース作成から完成への努力が、山下さんの「男気」を刺激したのであろう。弱肉強食の世界に生きる山下さんが、私自身に興味を示してくれたのだ。以来しばしば、私のアパートを訪ねられては、近所のお好み焼き屋で鉄板を囲み、データベース進捗情况を訊ねられ中国陶瓷の話で熱がこもった会話が繰り返された。
 そして、ある日突然山下さんは、私のアパートの2階8畳間を借りることになった。部屋を借りた理由はともあれ、そんな人情の厚いところのある山下さんであった。

4、奥様のこと、明代夫婦傭のこと
  山下さんの中国陶瓷のコレクションが徐々に増えていた頃、私には初耳の事があった。奥様がご病気で、しばしば入退院を繰り返していると言うことであった。病院に近い新宿にマンションを購入され、奥様の友人たちが気楽に集まれる空間を準備された。
 その頃、私は古董雑誌『目の眼』に、中国陶瓷の連載記事を書いており、月一回刊行される雑誌用に中国陶瓷の名品を探していた。山下コレクションに良いものがあることは分かっていたので、写真撮影を予めお願いし雑誌社編集部とカメラマンとで新宿のマンションを訪ねた。たまたま奥様サロンが真っ最中の時で、お邪魔したことを申し訳ないと思いながらも、和室の部屋に照明が設えられ撮影が始まった。あの懐かしい3人の子供の俑が並べられ、そして30cmを越える夫婦の俑が撮影セットされた。極めて出来の良いもので、雕刻を学んだ私はその見事さに息を呑んだ。明代低火度緑釉の美しさ、造形の良さ、どこを取り上げても上級で、そこには作家の意識が強く宿っているようであった。
 悲しいことに奥様は亡くなられた。しばらくは電話もできなかった。落胆振りを思うと、お悔やみも言えない。夫婦の俑と、山下ご夫婦がいつまでもダブった。そして今も、大切な俑は、新宿のマンションに静かに置かれていると思う。
 私は若い頃、中国北京に留学、西安など各地の窯場を訪ね歩き陶瓷器の破片調査に没頭するなど、中国古陶瓷一筋の人生を歩んで来た。そういう私の生き方に、山下さんは関心を示し、評価していただいた。現代美術と中国古陶瓷、世界は違うが、美しいものを求める心は一緒であり、これからも永いお付き合いができればと思っている。山下さんのアート活動にエールを送りたい。

(中国古陶瓷研究家)
 

『画廊の一隅から』谷川憲正

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 人生は、合縁奇縁とはよく言ったもので、人との出会いは実に不思議で楽しいものです。古い友人であるにもかかわらず、どうしてもしっくりと理解し合えない人がいるかと思えば、なんだかつい最近知り合ったばかりなのに、やけに意気投合したりすることがあります。市民派アートコレクターズクラブの山下透様との出会いは、まだ、一年も経っていない。なのに随分と以前からの面識があったように思えてしかたがない。

 私の前身は美術雑誌の編集である、で、画廊の空間に訪れてくれた方々の佇まいで、その人となりを以外と感じとったりするものです。と言うのも、私共の画廊は誰もが気取らずに入れる空間で、“版画に市民権を!”と言うのが画廊設立のコンセプトです。ではなぜ、そう言う発想になったのかといえば、編集の頃、上野の公募展を開館前の2~3時で取材をするのですが、10時になると全国から団体展を見学にやってくる奇特な学校もあるのです。ところが、きまって、先生から、観賞する前に“お言葉”があります。「厳しい審査の末、全国から集まった作品をしっかりと鑑賞(・・)しなさい…!」その言葉が発せられると、遠足気分の生徒達に緊張が走り、順路どうりに従ってのおごそかな鑑賞(・・)が始まるのです。この光景とよく似た経験をしたことがあります。それは、初めての海外取材でヨーロッパへ行ったとき、旅行会社の方の過剰なまでの忠告に海外出張の高揚した気分がいっぺんに緊張に変わったことを思い出すのです。広い公募展の会場で先生は生徒たちへこう言えないものかと…。「沢山の絵がありますが、自分でいいと思う作品を1点」いや1点選ぶことが難しかったら、「好きな作品を3点探してきてください。」と…。

 色々な体験から学び、私共の画廊は常時200点ぐらいの作品を自由に手に取り、触れるようにしています。そんな空間に山下さんがふらりと立ち寄ってくださいました。多くの作品の中から、どの作品に視点がいき、作品とどう対峙されるのかでその方の個性が理解されます。山下さんの絵に対する思い入れと見識はすぐに伝わってきました。少しの立ち話の後に、市民派アートコレクターズクラブの紹介があり、その話の内容は、すぅーっと心を打った。市民派コレクターの皆様が目指す社会貢献と、版画に市民権をと言うコンセプトが共通する部分があるのではと感じたからです。

 神保町の冨山房ビルの地下にある喫茶店・フォリオでコーヒーを飲みながら2~3度、雑談をしたことがあります。話の中に何度か欧米人と日本人の美術への係わり方の違いを口にされた、私も同感だと思う。美術にかぎらず音楽、演劇、その他、芸術文化に理解のない人は有能なビジネスマンとは認めてもらえないのが欧米です。ところが、我が国では、美術の話をしようものなら、今はやりの言葉で言えば“空気が読めない”とばかりに、その場が白けてしまった経験をされた方がこの市民派コレクターの中にもいらっしゃるのでは…。

 美術雑誌の前に、出版社の社長の意向で、政治、経済、文化(美術)で活躍する人々を結びつけるための総合雑誌の編集に携わったことがあります。若い編集者3人は、これは面白い雑誌になるぞ、するぞとそれぞれの得意分野で熱く燃え、社の応接室に泊まり込み原稿を書いた。今、想えばこの老社長は異なる分野の交流をはかり、文化へのサポートをもくろんでいたのだと思えるのですが、しかし、残念ながら2年で廃刊になってしまった。それでも当時の政治、経済で活躍する方々は美術への造詣が深かったように思う。少なくとも今ほどではない。日本はバブル敗戦で、またしても、国の方向性を無くし、個人のバランス感覚を失ってしまったかのようです。

 ここで、海外のコーポレートアートを紹介したい、チェースマンハッタン銀行がこの事業に乗り出したのは世界大戦のすぐ後で、当初の年間予算は一億円たらず、この会社の規模からすれば、僅かな出資でしかありませんでした。しかし、日本の企業と違うのは、社内に専門のキュレーターを育成することから、この事業を前進させるのです。そして、継続は力なりと70年近くも経た今、このプロジェクトがもたらす社会的貢献たるや、市民派コレクターの皆様ならすぐご理解いただけると思います。

 日本の場合、この経済敗戦の後、国ならび企業の指導者は、会社の贅肉を切れとばかり、仕事をシェアーすることが常識なのだそうです。もともと、日本のコーポレートアートは外注が多く、企業が経済不振にでもなろうものなら、一番先にカットされ、これでは文化など育つはずもないのです。今、美術業界を支えているのは、個人のコレクターであり、企業の美術へのサポートなど微々たるものであると思う。

 山下様の活躍を、新聞コラム“市民派コレクターたちの挑戦、趣味と社会貢献の合体”で読んだことがある。この活動が目指すものは要約すると、コレクターと言う個人の力を社会の中でどう展開できるかが大きなテーマだと思える。氏は美術と個人の係りもさることながら、さらにその関係を社会の中にどう生かし、位置づけていくかを常に考えておられるのでは、そして、個人の力が行政を動かす力になって欲しい。市民派コレクターの会が大きな流れに成長し、社会の運動となることを心よりお祈りしております。
                            
(海画廊 代表)

『市民派コレクターの草分け・小島烏水のこと』沼田英子

2016年04月06日 | 冊子『アート市民たち』


 私が山下透さんとお会いしたのは、横浜市民ギャラリーでこの秋に開催した展覧会「ニューアート展2007 林敬二と3人のアーティスト 森本洋充、マコト・フジムラ、安美子」に、マコト・フジムラ作《贖いの蓋》をご出品いただいたことからでした。この展覧会は、横浜にゆかりの深い洋画家、林敬二氏の作品とともに、同氏が共感を覚える現代作家3名の作品を紹介するという内容で、具象性と抽象性が融和する不思議なヴィジョンの世界と深い精神性が4人の作品に通底し、充実した展示となりました。

 マコト・フジムラ氏のセクションは、林氏が《二子玉川園》に強い感銘を受けたということから、フジムラ氏と相談して《二子玉川園》を核として10点の作品を選びました。なかでもフジムラ氏が出品を強く希望したのが、芸大の修了制作《二子玉川園》と山下さんご所蔵の《贖いの蓋》です。前者は、100点にも及ぶ二子玉川園シリーズの最初の作品で、画家がキリスト教の信仰に目覚めたときの心情を当時住んでいた土地の風景に託して描いたものです。大きな画面に画家の心の葛藤と信仰に目覚めた喜びが直截的に描かれていて胸に迫るものがあります。一方《贖いの蓋》はやや小さな作品ではありますが、二子玉川で象徴的に描かれた樹木を、天使が静かに見つめている穏やかな作品で、画家の心の平静と信仰の深まりを感じさせます。プライベートな空間で《贖いの蓋》のような作品と対話をし、また気のあった人と感動を共有することは、個人で作品を持つ大きな喜びであることでしょう

 私は、山下さんから「市民派コレクター」の活動の話をうかがい、市民派コレクターの草分けともいうべき、小島烏水のことをご紹介したいと思いました。小島烏水(明治6~昭和23)は、日本山岳会を設立した近代登山のパイオニア、そして『日本アルプス』など紀行文学の作者として知られていますが、横浜正金銀行に勤めながら膨大な浮世絵と西洋版画を蒐集した、サラリーマン・コレクターだったことを知るひとは多くありません。

 少年の頃から浮世絵版画が好きだったという烏水は、登山や旅との関連から広重の浮世絵版画を収集するようになりました。やがて当時優れた浮世絵が大量に海外に流出している状況にショックを受けて、国内に浮世絵の優品を留めることの重要性に気づき、本格的なコレクション作りに取り組むようになります。彼は、また日本人自身が浮世絵の価値を正しく理解する必要性を感じ、独学で浮世絵の本格的な研究を始め、大正3年には日本で初めての実証的な浮世絵研究書『浮世絵と風景版画』を出版しました。晩年、烏水は収集した300点余りの浮世絵コレクションを売り立てましたが、そこには、優れた浮世絵が一人でも多くの個人コレクターの手もとで享受されるようにという思いがあったと綴っています。

 また、大正4年から11年余りに及んだ横浜正金銀行ロサンゼルスおよびサンフランシスコ支店勤務の時代には、西洋版画に出会い、人々が版画を芸術として享受する文化に驚いたといいます。彼は独学でデューラーからピカソに至るまでの歴史を辿る名品500点余りを収集し、帰国後、その内約350点を選んで展覧会を開催して、西洋版画の魅力を日本に伝えました。

 確かに、版画を中心とした烏水コレクションは、同時代の松方コレクションや大原コレクションに比べると小さな規模です。しかし、自分自身の目で見極めて選んだ作品に対する愛情の深さや、日本と西洋の版画芸術を同等に評価し、その魅力を普及しようとする志の高さは、大コレクションに負けないものがあるように思います。そのコレクションの散逸を逃れた部分が、現在横浜美術館に収蔵されていますが、特に体系的に整えられた西洋版画の作品群は、美術館の貴重な財産となっています。

 私は、前任地の横浜美術館で学芸員として長年烏水コレクションの調査をするなかで、次第にコレクターとしての小島烏水の魅力に惹かれてゆきました。彼は、銀行員として勤めを続けながら、帰宅後の時間を使って作品を研究し、休日には画廊や古書店をまわって作品を収集しました。更に登山家として前人未踏の数々の山々に登って紀行文を執筆したのですから、驚くべきエネルギーです。そして、その忙しい生活の中で、彼は深夜の書斎でひとり気に入った版画を手にとって眺めることを無上の喜びとしていたといいます。
 
 山下さんが「コレクションは自己表現のひとつ」と述べておられるように、コレクションとコレクターの関係はさまざまです。烏水の場合は、開港間もない横浜で、常に東西の文化を意識しながら育ったことがそのコレクションにも反映しています。それは日本の伝統的なものを大切にすると同時に、憧れをもって未知なる西洋文化に挑戦する明治の横浜人の生き方そのもののように思われるのです。

(横浜市民ギャラリー 副館長)