丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

幼稚園

2009年01月18日 | 個人史
幼稚園の通園期間は小学校就学前の1年間だけ。まあ団塊の世代の直後で子どもの人数は爆発的にも関わらず受け入れる箱が少なかった時代だったし、複数年通える保育園などには経済的にも行けるはずがなかった。

池田市立K幼稚園は、同名の小学校の敷地の中にあった。配置図を述べると、
北側に塀が続いていて、中央やや東寄りに小学校の正門がある。そこから入ったすぐ東側に入学式や発表会、講演会が行われる講堂が建っている。東の端に突き当たって、渡り廊下が東端に続いて、「ボーン校舎」と呼ばれる木造2階建ての校舎があった。南側にたぶん4階建てだったと思うが鉄筋の校舎があり、その中央付近で南側の通用門が隠れていた。南側西寄りに15mのプールがあり、プールに面して幼稚園のクラスがあった。西の端は幼稚園用の遊具施設があったと思う。そして通用門を置いて西側に一番古い校舎が南端まで建っていた。

幼稚園は紅組・白組の2クラス。各担任教師と主任教師、園長先生の計4人の先生がいたと思う。
1年間だけの通園期間という物は、行事に対して慣れがない。たとえば誕生会が毎月あるのだが、4月生まれというのは損なもので、どうして良いかわからないままで過ぎてしまった。最低2年いたのなら翌年にはどう行動して良いかわかったのに。行事全てが初めてのことばかりなのであせることだらけ。結局何をやって1年過ごしたのかほとんど覚えていない。

市内幼稚園合同の音楽会というのがあった。幼稚園別に発表があるのだが、このときだけ紅白のクラスの垣根を越えて合同練習があった。僕は園全体で2名だけのシンバルの係になった。この時以来パーカッションとの関わりがけっこう強い。

運動会や学習発表会などは小学校と一緒だった。同じグラウンドや講堂を使って同じ日にやっていた。

幼稚園の思い出でどうしても忘れることのできない記憶がある。ある意味トラウマになっているのだが。

学習発表会の練習の時だった。みんなで講堂に行ってレコードに合わせてお遊戯をするのだが、その移動の時、先生が持っていたタンバリンを引ったくって駆けだしたとき猛烈に怒られてしまった。
タンバリンの中にレコードの針が入っていて、それをぶちまけてしまったのだった。

昔はレコードというのを使っていた……などということぐらいは誰でも知っていることだが、当時はレコードをかけるのに、1回毎にレコード針を交換することを知っている人がどれくらいいるだろうか。後には「ダイヤモンド針」というのができて、ほとんど交換の必要がなくなったのだが、昔は針は消耗品であり、1枚かけるとすり減って使えなくなるのだった。だからレコード針のセットというのがあって、100本くらいの単位なのだろうか、画鋲入れのケースのようなものにたくさん針を入れていた。

そのケースをタンバリンに入れて先生が持っていたのだが、それを知らないでタンバリンを奪い取って叩いた物だから、針がすべてこぼれてしまって、プールサイドにぶちまけてしまっていた。先生にきつくしかられ、すべて拾い集めるように言い渡され、とりあえず拾える分だけの針を持って先生は行ってしまった。

レコード針の大きさは想像がつくと思うのだが、広範囲にばらまいた針を拾うのは砂浜で石ころを集める作業とほとんど同じ。泣きながらいつ終わるともわからない作業をたった一人でやっていた。すべて拾えるはずもない。どれくらいの時間がたっただろうか、自分にとっては永遠の時間にも思われた後、ようやく先生が迎えに来てくれた。もちろんすべての針を拾えたわけではない。

幼稚園の思い出というとこれがすべて。後は何も思い出せない。