京のたんぽぽ日記

夫婦共にリタイヤした後の生活を
大好きな旅行を中心に綴っていきます。

バルト3国10 リトアニア・杉原千畝旧日本領事館

2016-09-16 00:39:39 | 海外旅行2016 5月バルト3国

バルト3国の旅に、ようやく戻ってきました。
今回は、リトアニアの二日目。
カウナスという街の観光です。

もう、すっかり忘れてしまった方。。
実は私もなのですが

 

バルト3国とヘルシンキ8日ツァー日程

 

リトアニア・ヴィリニュスへ 2ヴィリニュス夕暮れ散歩
3杉原千畝公園・ケルナヴェの丘 4トラカイ城・昼食
5聖ペテロパウロ教会・三つの十字架の丘
  6ヴィリニュス旧市街地観光1
7ヴィリニュス旧市街地観光2 8ヴィリニュス旧市街フリータイム1
9ヴィリニュス旧市街フリータイム2 10杉原千畝旧日本領事館
11カウナス観光1 12カウナス観光2 13シャウレイ~ラトビア
14ラトビア・リガ市内ホテル 15リガ1ユーゲントシュティール建築
16リガ2聖ペテロ教会・市庁舎広場 17リガ3ドゥァマ広場スェーデンの門
18リガ4リーブ広場・中央市場 19ルンダーレ宮殿 20ルンダーレ庭園
21ラトビア伝統料理レストラン 22朝の旧市街地散歩 
23ガウヤ国立公園トゥライダ城 24グートゥマニャ洞穴・スィグルダ城跡 
25ラトビア~エストニア・バースディーパーティー 
26エストニア・タリン・カドリオルク公園 27タリン・アレクサンドルネフスキー聖堂
28タリン・展望台 29タリン・展望台~ラエコヤ広場
30タリン・ラエコヤ広場~カタリーナの小道 31タリン旧市街地観光
32 タリン・昼食フリータイム1 33タリン旧市街・フリータイム2
34 タリン旧市街・フリータイム3
 35 タリン旧市街・フリータイム4
36タリン~フィンランドヘルシンキ・マーケット広場 37ヘルシンキ・市内観光
38ヘルシンキ市内観光フリータイム1 39ヘルシンキ市内観光フリータイム2
40バルト3国ヘルシンキ~関空・お土産と人々  バルト3国を旅して

 

バルト3国9 リトアニア・ヴィリニュス旧市街フリータイム2
の続きですよ。

4月29日(金)   

さて、一夜明けて。。
朝食は、ホテルのレストランでビュッフェ。
たっぷりのお野菜や果物が嬉しいです。

 なんだかんだといっぱい取ってきてしまってますね。。
 

でも、食べられるときに食べておいて、
さぁ、本日の観光の始まりです。

カウナスへ

本日は、カウナス観光。
杉原千畝氏ゆかりの旧日本領事館を訪れます。

 ヴィリニュスから103km、バスで1時間半ほどでカウナス到着。 

 旧日本領事館

ここが、日本のシンドラーと言われた杉原千畝氏が
6000枚の命のピザを書いたという旧日本領事館です。

 

 なんと、ここも、桜の花が満開。 

ピンクの桜の花、綺麗。。
また、ここでもお花見できましたよ。
今年は何回もお花見ができてラッキーです。

なんて、のんきな事を言ってすみません。

ここは、第二次世界大戦の折、
ユダヤ人が命を懸けて必死の思いで並んだ場所なのにね。。

杉原 千畝

ここで、杉原 千畝(すぎはら ちうね)さんのことを少しお話しすると。。

杉原 千畝さんは、大正8年外務省の留学試験に合格。
早稲田大学を中退して、ハルビンでロシア語を3年間学び、
昭和14年リトアニアの日本領事館に赴任します。

その赴任した日本領事館というのがここなんです。

当時は、門扉の間にも領事館の廻りにも柵がありましたが
今は、柵は取り外されていました。

そして、門扉には、日本語で
希望の門命のヴィザの文字が書かれてました。

歴史的な背景

ちょっと話は長くなりますが、歴史的な背景を。。

ナチスがポーランドに侵攻した時、
ユダヤ人は、ポーランドからリトアニアへと逃れてきました。
ナチスに捕まると、ユダヤ人は全て虐殺されてしまうからです。

西のヨーロッパは、ほぼナチスの勢力下に置かれていました。
トルコ政府がビザ発給を拒否した為、
ユダヤ人がトルコから直接パレスチナに向かう道も完全に
閉ざされています。

リトアニアにある各国の在外公館が閉鎖されていく中、
この時点で開いていたのは日本領事館だけ。

ユダヤ人がナチスの虐殺から逃れる唯一の方法は、
シベリア鉄道とナホトカからの海路を使い、
日本経由で国外脱出することだけだったのです。

 

ユダヤ人たちは日本を通過することを認めるビザを
日本領事館に求めました。

(ピザの発券を求めて押しかけたユダヤの人々

そんな折、杉原氏の元に領事館を閉鎖するようにとの
通達が届きます。

杉原氏は急いで外務省に何度もヴィザの発行の許可を求めますが
外務省の答えは、

行き先国の入国許可手続を完了し、
充分な旅費滞在費を有するものだけにビザ発給を許可し、
無条件に難民を受け入れるわけにはいかない」

というものでした。

でも、ナチスから逃れるためポーランドを脱出してきた
ユダヤ人に十分な旅費などあろうはずもありません。

しかし、ここでヴィザを発行しなければ、
ユダヤ人がナチスに虐殺されることは
はっきりと分かりきっているのです。

杉原氏と親しかったユダヤ人も皆殺されることに。。

命のビザ

杉原氏は、悩んだあげく苦渋の思いで、
日本国の指示に背き、ユダヤ人の為
通過ビザを発行することを決断します。

異国の人の為、政府に無断で大量のビザを発給したら、
自分にも家族にも、今後何が起こるかわかりません。

しかし、それでも、杉原氏は命のビザを発行することを
選んだのです。

この領事館のこの部屋で、 

杉原氏が、領事館の閉鎖までに
名目として南米の行先国を設定し、旅費を持たない人にも
書き続けた「命のビザ」は2000枚以上。

ビザは1家族に1枚でよかったので、
6000人のユダヤ人の命が救われました。

そして救われた命は、その子供、孫。。と繋がり
今や20万人の命になったと言われています。

この一枚の紙が、人々の命をつなげたんですね。。

領事館だった建物は、今は博物館として一般に公開されていて、 

杉原氏が2000枚の命のビザを書いた机の椅子には、
誰でも座れて写真を撮ることもできるんですよ。

こちらは、残念ながらビザを書いているのではありませんが。。

その後の杉原氏

杉原氏は、戦後シベリアに抑留された後、日本へ帰国しますが、
本国の指示に背いたことで、外交官のキャリアを
失ってしまいます。

西鎌倉に転居した杉原氏は、

「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、
 金には困らないだろう」

などいわれのない中傷を受け、
さまざまな職を転々とすることになります。

1985年イスラエル政府より、ユダヤ人の命を救出した功績で
日本人では初で唯一の賞を受賞。

しかし、その翌年1986年、杉原氏は
86歳でその生涯を閉じることになります。

名誉の回復

杉原氏のような勇気ある外交官を表彰しないばかりか
追放してしまった日本政府、
彼の名前は教科書にも載らず、伝記にもならず、
人に知られることもなく月日は流れていきました。

そして、2000年、杉原氏の生誕百周年に当たり、
日本政府による公式の名誉回復がなされたのです。

当時の河野洋平外務大臣は演説の中で

故杉原氏は今から六十年前に、
ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において
人道的かつ勇気のある判断をされることで、
人道的考慮の大切さを示されました。
私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたこと
を誇りに思う次第です。

と述べてられます。

ユネスコの世界記憶遺産登録へ

それからは、ドラマ化されたり映画化されたり
杉原千畝さんのことを知る日本人も、ずいぶん多くなりましたよね。

本当は、杉原氏の生前に、もっともっと彼の勇気ある行動に
光が当たるべきだったと思いますが、

アンネフランクのアンネの日記や
ベートーヴェンの交響曲第9番の自筆楽譜などが登録されている
ユネスコの世界記憶遺産へ

今、杉原リストの登録申請がなされているそうです。
来年の登録に期待がおおいに高まります。
ぜひぜひ、登録されてほしいですね。

売店

さて、こちらは、売店。
売店と言っても、本当に小さな部屋なのですが、
こちらで買った記念のチョコレートやグッズは、
お土産の中で、あげた方にとても喜んで頂きました。 

もっともっと、買っておけばよかった。。
と、ちょっと残念に思っているほどです。

日本のシンドラー

スティーブン・スピルバーグが監督し、
アカデミー賞で7部門を受賞したという
不朽の名作映画「シンドラーのリスト」を見られたことがありますか?

チス党員でもあったドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、
ユダヤ人を自分の工場に雇い入れ、
1200名ものユダヤ人の命を救ったといいます。

杉原千畝さんは、日本のシンドラーと言われるそうですが
数からいえば、杉原さんの6000人の方が
ずっと多いですよね。。。

日本のシンドラーではなく、シンドラーの方を
ドイツの杉原って言ってもらいたい気がします。
 

 国外脱出したユダヤ人たち

この領事館前の道を埋め尽くして
命のビザの発行を待っていたユダヤの人々。

 でも。。

そんな、国の指示に背いて発行したビザで、
本当に日本に行けたのだろうか。。
そして、その後はどうなったの。。

と、気になりませんか?
私はとっても気になったのですが。。

リトアニアから国外脱出したユダヤ人たちは
シベリア鉄道に乗り、次々にウラジオストクに到着。
ここから日本行きの船に乗るのですが、
もちろん皆ビザは持っていても条件不備のビザ。

この時、日本への船には乗せられないという状況を回避したのは
杉原氏の後輩であったウラジオストク総領事代理の
根井三郎さんでした。

彼は、一度杉原領事が発行したビザを無効にすれば、
日本の威信をそこなうことになると日本政府に抗議、
ユダヤ人たちは、そのおかげで船に乗ることができたのです。

日本の敦賀港へ続々上陸したユダヤ人は、
ユダヤ難民救済協会からの現金を受け取り、
アメリカ合衆国やパレスチナに向かったのでした。

そして助かったユダヤ人の命が、長い年月を超えて
20万人もの命へとなっていったのです。

 

さて、ずいぶん長くなってしまいました。
最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます。

実は、バルト3国を訪ねるにあたって、
私が一番行ってみたかったのが、
杉原千畝さんゆかりの、カウナスのこの日本領事館だったものですから
そして、杉原千畝さんの事を、皆さんに知ってもらいたくて。。

ついつい気合を入れて書いてしまいました。

 

次からは、もっとさらっと旅行記をかいていきますね。

バルト3国11 リトアニア・カウナス観光1へ続きます。

 その前にちょっと敬老の日のことを。。

敬老の日(スマホよりの投稿)

 

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