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ルター『95か条の論題1517』の一考察など、現代的なメッセージをくみ取ろう‼

2017-01-08 10:40:50 | 文学・芸術

マルチン・ルター 1517年
贖宥の効力についての討論のための95ヶ条の提題

命題28より
金が箱の中でチャリンと鳴ると、確かに利得と*貪欲は増すことになる。しかし、教会のなすところはただ神の御心にのみかかっている。
28. It is certain that when the penny jingles into the money-box, gain and *avarice can be increased, but the result of the intercession of the Church is in the power of God alone.

*avarice
アヴァリィス: [名](金銭・富に対する)強欲, 大欲;(一般に)強い欲求, どん欲. [古フランス語←ラテン語avāritia(avārus食い意地の張った)]

さらにルターの『命題86』には、「もっとも富めるクラス(階級)よりも、今日では豊かな財をもつ教皇が、なぜ貧しい信者の金よりむしろ自分の金で、この聖ペテロ大聖堂をひとつ建てないのか」とある。

特に、ドイツの免罪符は、政治的な思惑があったため、政治論争へと発展したので、このルターの抗議から「プロテスタント(抗議者)」が誕生し、『宗教改革』へと大きな契機になる。


新年早々から、トランプ新大統領の登場を間近に控え、様々なメディアに物議を醸し出している。トランプ新大統領はドイツ系移民の家系なのだから、ドイツの宗教改革のルターも多少は関連しているが、ルター派ではなく、『長老派』のようだ。

敬虔なクリスチャンよりむしろ『資本主義の権化』のようでもあり、こうした『不動産の王』が大統領になるアメリカに限らず、支配階層はさまざまな『**免罪符(贖宥状)』を捏造している。歴史的には、ルター以前にも、ウィクリィフやヤン・フスなども贖宥状(免罪符)を非難しているのだから・・・

**贖宥状(しょくゆうじょう、ラテン語: indulgentia)とは、16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。
**免罪符とも、免償符とも、贖宥符(しょくゆうふ)とも呼ばれる。また、日本においては「罪のゆるしを与える」意味で、責めや罪を免れるものや理由、行為そのものを指すこともある。

実際に、ルターの以下の命題を読んだら、どのように感じますか?

命題43
貧しいものに与えたり、困窮しているものに貸与している人は、贖宥(免罪符)を買ったりするよりも、よりよいことをしているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題44
なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はよりよくなるからであるが、贖宥(免罪符)によっては人間はよりよくならず、ただ罰から自由となるにすぎないからである。
 
命題45
困窮しているものを見て、彼を無視して贖宥(免罪符)に金銭を払う人は、教皇の贖宥ではなく、神の怒りを自分に招いているのだと、キリスト者は教えられねばならない。


ルターの命題28にあるように
金が箱の中でチャリンと鳴ると、確かに利得と貪欲は増すことになる。・・
贖宥(免罪符)は、ある意味で『金の卵』を産む『鶏(ガチョウ)』である。信仰はあるが、神をも怖れぬ富裕な権力者は、さまざまと『儲ける仕掛け』を考えるもので、イソップ寓話のひとつ「ガチョウと黄金の卵」のように欲をかきすぎて黄金の卵を産むガチョウ(日本やメキシコ)を殺さなければ良いのだが、と知愚神は礼讚(誉め殺し)をしているだろう。

『地獄の沙汰も金(かね)次第』ということであり、免罪符そのものは、免罪というよりは、実は『換金のシンボル』でもある。宗教的な信心が世俗的な『金』に置き換えられ腐敗していくということは、単なる世俗化の問題だけではなく、資本(拝金)主義のある種のすり替えられた『宗教(思想・信条)』でもありうるということだ!

あのマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べたかった核心なども、実は宗教心(禁欲・抑制・天職)と拝金主義(欲望)の葛藤であろう。
1920年に発表されたマックス=ウェーバーの主著であり、西ヨーロッパにおいて勃興した「資本主義の精神」は、禁欲的プロテスタンティズム、その中の『カルヴァンの思想の中核である予定説との歴史的関係』を社会学的に追究している。この研究は、一連の「儒教と道教」「ヒンズー教と仏教」「古代ユダヤ教」などの『宗教社会学』の一部として問題とされ「資本主義」とは「近代資本主義」特に西ヨーロッパとアメリカの「資本主義の精神」とは「倫理的な色彩をもつ生活の原則」を意味している。

「時は金なり」Time is moneyという表現で知られるベンジャミン・フランクリンはアメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者として、アメリカでは広く知られ、フランクリンはアメリカ独立宣言の起草委員となって、トーマス・ジェファーソンらと最初に独立宣言に署名した5人のうちの1人、独立戦争においても欧州諸国との外交交渉を進めアメリカ独立に多大な貢献をしました。

抑制(足るを知ること)のない『悪魔(金欲から権力欲へ)』が堂々と現れ、地獄の沙汰も金しだいの『拝金主義』が、ある意味で『宗教』や『思想・信条』だと、素直に吐露(告白)し、金さえあれば、まあ現世では救済されているなら、逆に『免罪符』そのものはいらない現実路線であろう。恐るべきは、権力欲からのその行使の仕方である。抑制(配慮)のない内政干渉は、極端な反動を引き起こしかねない。

ニーチェのツァラトゥストラでは、綱渡り師が綱を渡りはじめ、その背後から道化師のような男が飛び出してきて、悪魔のような叫び声を上げ、綱渡り師を飛び越すと、綱渡り師は慌てて足を踏み外し、転落したという。

誰にとって、過半数の票取りのポピュリズム(大衆迎合)が『金の卵を産むガチョウ』を生かすのか殺すのかに、問題意識(疑念)をもつべきである。すると大きな疑問は、ミドルやローウァー・ミドルが富裕な支配層を支援し、多数派を支配することは、まさにピラミッド階層の小数者支配のサイバネティックスが理想的な政治なのであろうか?
もしかしたら、トランプ大統領も、単純(単なる国益、儲け中心)にとらえることができるかもしれない。しかしながら、これではあまりに単純な論議や思考になるので、以下のルターの『命題86』にあるように、「もっとも富めるクラス(階級)よりも、今日では豊かな財をもつ教皇が、なぜ貧しい信者の金よりむしろ自分の金で、この聖ペテロ大聖堂をひとつ建てないのか」


この『教皇』を『トランプ大統領(資産家)』と、仮に言葉を置き換えて読めば、現代的なメッセージともなるのでは? そのメッセージの解釈は、500年後の現在の我々の手にあるのだから・・・
 
それでは、『ルターの95箇条の提題』を読みながら、考えを深めたい。いずれにせよ、筋書きのある契約(取引)に巻き込むだけ捲き込んで、****ドイツ農民戦争のような悲惨な結末を引き起こさなければよいのだが・・・

****ドイツ農民戦争 ( 1524 年 )

神聖ローマ帝国 中世ドイツ王国 ハプスブルク朝
1524~1525年、カール5世即位後のドイツにおこった農民を中心とする大反乱。

【前史と原因】
15世紀,とくにその中ごろ以後、西南ドイツを中心として南ドイツでは農民一揆が頻発しており,1514年にヴュルテンベルクでおこった「貧しきコンラート」の一揆,1493年から1517年まで何度かにわたってライン上流地域でなされた「ブントシューの一揆計画」がそのなかで著名なものである。
小所領が集中し,諸種の権利が錯綜していた西南ドイツの領主は,「土地領主権」「裁判領主権」「体僕領主権」を一手に集めることによって、領域的国家の形成と収入の増加をはかり,「相続税」「他領民との結婚」や「移住の自由の制限・禁止」を強要し,村民の共同用益権を制限していた。(古典荘園)
比較的大きな領邦では農民の権利の劣悪化はそれほど著しくはなかったが,そこでも領邦君主は、租税の増徴によって収入の増加につとめたため,それらの事情が一連の農民一揆の主要な原因となったのである。
したがって一揆の矛先は、小領邦を形成しつつある領主と領邦国家に向けられており,事情は農民戦争においても同じであった。
しかし農民戦争がそれまでの一揆と異なるのは,宗教改革運動から大きな刺激を受け,「神の法」「神の正義」で彼らの要求の正当性を弁証し得た点であり,そのことを通して一揆はドイツの3分の2をおおう反乱に拡大し得たのである。
ちなみに、ルターは始めは農民に同情的であったが、これが宗教性を帯び、急進性を増すと、直ちにルターはこれを批判、諸侯に過酷な鎮圧を勧告した。
ルターによれば、信仰にとって大切なのはあくまでも「内面の自由」であり、現是の階層的秩序は、むしろ神から与えられたものとして甘受すべきものであったのだ。

【経過と結果】
農民戦争の発端となる農民一揆がおこったのは,1524年6月、西南ドイツのシュトゥーリンゲン伯領においてである。
それはまだ伝統的な形態での一揆にすぎなかったが,その後、翌年の初めにかけて蜂起が周辺の農村・都市に拡大する過程で、宗教改革の影響が反乱民衆のあいだに浸透する。
1525年2月、蜂起農民の共同綱領ともいうべき『十二カ条』の要求箇条書が現れる。
・福音の自由な説教と村民による司祭の任免
・10分の1税の廃止
・農奴身分の廃棄
・共同地の自由な使用
・貢租・賦役の軽減
・これらの要求と聖書からの引用
一揆の波は、同年3月には西南ドイツ一帯からフランケンに,4月にはテューリンゲンに拡大した。
諸侯・領主は、初めは、軍事力の手薄さから交渉による解決の方法をとっていたが,1525年2月にイタリアでのフランス国王との戦争(イタリア戦争)が神聖ローマ皇帝側の勝利に終わると反撃の準備にかかり,4月から攻撃に転じた。
南ドイツの諸侯・領主の組織するシュヴァーベン同盟軍はつぎつぎと西南ドイツの農民団を撃破し,テューリンゲンでもヘッセン方伯・ザクセン公らの軍隊が5月に、急進的宗教改革派、再洗礼派のトマス=ミュンツァーに率いられる軍団を潰滅させた。
その後、農民の蜂起は5月に入ってからもティロル・オーストリアに拡大したが,6月までに農民軍はほぼ完全に敗北し去った。
翌年、ガイスマイヤーの率いるティロル農民が再蜂起を企てたが,それは規模の上で農民戦争の余波の域を出ない。
反乱の鎮圧後、諸侯・領主は多数の反乱参加者を処刑し,戦争と処刑による死亡者の数は7万人から10万人にのぼったと推定される。
また、諸侯・領主は反乱参加者に罰金をも課した。

【解釈】
このような結果に終わったために,農民の置かれた諸条件は悪化したとみなされることが多かったが,農民戦争の敗北にもかかわらず,農民の諸要求の一部は支配者側によってくみ上げられて事態は改善されており,かつての見解は,修正されつつある。
また、現代、この蜂起は、農民だけではなく多数の市民や鉱山労働者も加わっていたので,「農民戦争」という名称は事態を適切に表現していないとの見解が有力になっている。
東ドイツの研究者は宗教改革とこの農民戦争とを一体としてとらえて,「初期市民革命」と規定するが,東ドイツ以外ではその支持者は少ない。
西ドイツでは農民戦争の革命性を認めて,「平民(ゲマイナー=マン)の革命」と規定する見解も出されている。
以上、http://afro.s268.xrea.com/cgi-bin/History.cgi?mode=text&title=%83h%83C%83c%94_%96%AF%90%ED%91%88より


それとも『和解』が功を奏するのだろうか?
または高額な『免罪符』を買わされるのか?
一言(いちごん)15否(いな)17と、ルターのようにプロテスト(抵抗)できるだろうか?ルターは95箇条も表したのだか・・・

それでは、1517年に出されたルターの『95箇条の提題』を元に考えてみましょう。

提題は有名になりすぐに印刷により広く配布されましたが、内容を誤解している人が多く、ルターは次の年「贖宥の効力についての討論の解説」を書きました。

現在でも提題だけでは何を言っているのか理解できない部分があります。***「贖宥の効力についての討論の解説」と一緒に読む方がこの提題を正しく理解できるでしょう。

***贖宥の効力を明らかにするための討論
(緒方純雄訳)
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000039-I001266419-00/

贖宥の効力についての討論のための95ヶ条の提題

マルチン・ルター 1517年
 
命題1
わたしたちの主であるイエス・キリストが、「悔い改めよ」と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。
 
命題2
この言葉が秘跡としての悔悛(すなわち。司祭の職によって執行される告解と償罪)についてのものであると解することはできない。
 
命題3
しかし、それは単に内的な悔い改めだけをさしてはいない。否むしろ、外側で働いて肉を種々に殺すことをしないものであるなら、内的な悔い改めはおよそ無に等しい。
 
命題4
そのため、自己憎悪(すなわち、内における真の悔い改め)のつづく間は、すなわち、天国にはいるまでは、罰はつづくものである。
 
命題5
教皇は、自分自身または教会法が定めるところによって科した罰を除いては、どのような罰をも赦免することを欲しないし、またできもしない。
 
命題6
教皇は、神から罪責が赦免されたと宣言し、また確認するか、あるいは、もちろん自分に保留されている事項について ─これらの事項を軽侮したら、罪責はまったく残ることになろう─ 赦免する以外には、どのような罪責をも赦免することはできない。
 
命題7
神は、人が同時にすべてのことにおいて、神の代理者である司祭に謙虚に従ってしなければ、だれの罪責をも決して赦免したまわない。
 
命題8
悔悛についての教会法は、生きている人にだけ課せられていて、それによるならば死に臨んでいる人には何も課せられていない。
 
命題9
そのため聖霊は、教皇がその教会において常に死と必然の項を除外しているので、教皇によってわたしたちによいことをしたもうているのである。
 
命題10
死に臨む人に、教会法による悔悛を煉獄にまで留保するような司祭たちは、無知で悪い行いをしているのである。
 
命題11
教会法による罰を転じて煉獄の罰とまでしているあの毒麦は、疑いもなく、司教たちの眠っている間にまかれたと思われる。
 
命題12
かつては、教会法による罰は、真の痛悔を試みるものとして、赦免の後ではなく前に課せられていた。
 
命題13
死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法規に対してはすでに死んだ者たちであり、それらの法からは当然解放されている。
 
命題14
死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになるだろう。
 
命題15
この恐れとおののきは(他のことはいわずとも)、それだけでも十分に煉獄の罰をなしている。なぜなら、それは絶望のおののきにもっとも近いからである。
 
命題16
地獄、煉獄、天国の異なっているのは、絶望、絶望に近いこと、救いのたしかさの異なっているのと同じように思われる。
 
命題17
煉獄にある魂にとって、おののきが減ぜられるに応じて愛が増し加えられるのは、必然のように思われる。
 
命題18
また、煉獄にある魂が、功績や増し加わる愛の状態の外におかれているということは、理性によっても、聖書によっても証明されているとは思えない。
 
命題19
また、わたしたちはいかに強く救いを確信しているとしても、煉獄にある魂、少なくともその全部のものが自分の救いについて確信し、安心しているということが証明されているとも思われない。
 
命題20
したがって、教皇は、すべての罰の完全赦免ということによって、これをただもうすべての罰の赦免と解するのではなく、ただ彼自身によって課せられた罰の赦免とだけ解するのである。
 
命題21
したがって、教皇の贖宥によって、人間はすべての罰から赦免され、救われると述べるあの贖宥説教者たちは誤っている。
 
命題22
否むしろ、教皇は、煉獄にある魂が、この生において教会法にのっとって課しておかねばならなかったような罰を、煉獄にある魂にたいして赦免することはない。
 
命題23
とにかく、もしすべての罰の赦免がだれかに与えられうるとするならば、それはもっとも完全な人にだけ、すなわち、ごく僅少な人にだけ与えられることは確かである。
 
命題24
このことから必然的に、大部分の人は罰の免除についてのあのけじめなく、壮麗な約束によって欺かれていることになる。
 
命題25
教皇が一般的に煉獄にもっている権限と同じ権限を、どの司教も主任司祭も、その司教区、聖堂区に特殊的にもっている。
 
命題26
鍵の権限によってではなく(彼はそうしたものをもっていない)、代祷の方法によって魂に赦免を与えることが、教皇として至当なことをしているのである。
 
命題27
箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がると言う人たちは、人間を宣べ伝えているのである。
 
命題28
金が箱の中でチャリンと鳴ると、確かに利得と貪欲は増すことになる。しかし、教会のなすところはただ神の御心にのみかかっている。
 
命題29
聖セヴェリウスやパスカリスにあったと語られているように、煉獄で魂のすべてがあがなわれることを願っているかどうかをだれが知っていよう。
 
命題30
自分の痛悔が真実であることについては、だれも確かではない。まして完全赦免を得たかどうかについてはなおさらのことである。
 
命題31
真実に悔い改める者がまれであるように、真実に贖宥を買う者もまれである。しかり、もっともまれである。
 
命題32
贖宥の文書で自分たちの救いが確かであるとみずから信ずる人たちは、その教師たちとともに永遠の罪に定められるであろう。
 
命題33
教皇のするあのような贖宥は、人間を神と和解させる神、あのはかり知れない賜物なのだという人たちは、大いに警戒されねばならない。
 
命題34
なぜなら、あの贖宥の恵みは、人間によって制定された秘跡による償罪の罰にだけかかわるからである。
 
命題35
魂を《煉獄から》買い出し、あるいは、告解証を買おうとしている者に、痛悔が不必要であると教える人たちは、非キリスト教的なことを説いている。
 
命題36
真実に痛悔したキリスト者ならだれでも、贖宥の文書がなくても彼のものとされているところの、罰と罪責より完全赦免をもっている。
 
命題37
真実のキリスト者ならだれでも、生きている者も死んでいる者も、贖宥の文書がなくても神から彼に与えられたものである、キリストと教会とのすべての宝にあずかっているのである。
 
命題38
しかし、教皇からくる赦免と伝達とは、決して侮蔑してはならない。なぜなら、(すでに述べたように)それは神の赦免の宣言であるからである。
 
命題39
もっとも博学な神学者たちにとっても、人々の前で贖宥の寛大さと痛悔の真実さとを同時にほめることは、もっとも困難である。
 
命題40
真実の痛悔は罰を求め、またこれを愛する。しかし、贖宥の寛大さは《罰を》ゆるめ、これを憎むようにしむける ─少なくとも、そのような機会となる。
 
命題41
使徒的贖宥は、人々がこれを他の愛のよいわざより優位におかれるものだと誤解しないように、注意して説かれねばならない。
 
命題42
贖宥を買うことが、どのような点でも、あわれみのわざに比すことだということは、教皇の考えではないということを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題43
貧しいものに与えたり、困窮しているものに貸与している人は、贖宥を買ったりするよりも、よりよいことをしているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題44
なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はよりよくなるからであるが、贖宥によっては人間はよりよくならず、ただ罰から自由となるにすぎないからである。
 
命題45
困窮しているものを見て、彼を無視して贖宥に金銭を払う人は、教皇の贖宥ではなく、神の怒りを自分に招いているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題46
人があり余るほどに豊かでないかぎり、必要なものは自分の家にとどめておかねばならず、決して贖宥のために浪費してはならないのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題47
贖宥を買うのは自由であって、命ぜられたことではないのだと、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題48
贖宥を与える場合、教皇は用意されている金銭以上に、自分のために熱心な祈りを、より求め、より望んでいるということを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題49
教皇の贖宥は、もし人々がこれに信頼しないのであれば有益であるが、これによって神への恐れを捨てるのであればもっとも有害であることを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題50
もし教皇が贖宥説教家たちのする取り立てを知っていたなら、彼は聖ペテロ聖堂が自分の羊たちの皮、肉、骨で建てられるより、むしろ灰と消えることを選ぶということを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題51
教皇は(もし必要ならば)聖ペテロ聖堂を売ってまでも、あの人々に、 ─その大多数のものから、贖宥の扇動家たちが金銭をまき上げているのであるが─ 自分の金のうちから与えるべきであるし、またそのように欲しているということを、キリスト者は教えられねばならない。
 
命題52
たとい委任されたものが、否教皇自身が自分の魂をかけてそれを保証しても、贖宥の文書による救いを信頼するのはむなしいことである。
 
命題53
贖宥を説教するために、他の諸教会では神の御言がまったく沈黙するように命ずる人たちは、キリストの敵、教皇の敵である。
 
命題54
同一説教の中で、贖宥にたいして神の御言と同等、あるいは、それ以上の時間が費されるとすれば、それは神の御言にたいして不正となるのである。
 
命題55
贖宥が(それは最小のものである)一つの鐘、一つの行列、一つの儀式で行われるのであれば、福音は(それは最大のものである)百の鐘、百の行列、百の儀式をもって説教されねばならないというのが、必ずや教皇の考えるところである。
 
命題56
教会の宝から教皇は贖宥を与えているのであるが、それはキリストの民には十分に述べられてもいないし、また知られてもいない。
 
命題57
説教者の多くがこの宝をそうたやすく放出しないで、ただ集めることだけをしているという理由からは、確かに宝がこの世のものでないことは明らかである。
 
命題58
また、それらの宝はキリストと聖徒たちの功績でもない。なぜなら、これらの功績は常に、教皇なくしても内なる人には恵みを、また、外なる人には十字架、死、陰府を与える働きをするからである。
 
命題59
聖ラウレンティスは、教会の宝は教会の貧者たちであると語っているが、彼はその時代の語法にしたがって言ったのである。
 
命題60
わたしたちは、(キリストの功績によって与えられた)教会の鍵が教会の宝であるというが、無思慮に言っているのではない。
 
命題61
なぜなら、罰と《教皇の》留保事項との赦免については、ただ教皇の権能だけで十分であることが明らかである。
 
命題62
教会の真の宝は、神の栄光と恵みとのもっとも聖なる福音である。
 
命題63
しかし、この宝は、第一の者を最後の者とするので[マタイ20:16]、当然もっとも憎まれるものである。
 
命題64
他方、贖宥の宝は、最後の者を第一の者とするので、当然もっとも喜ばれるものである。
 
命題65
したがって、福音の宝は網である ─かつてはこれで富める人々をすなどったのである。
 
命題66
贖宥の宝は網である ─今ではこれで人々の富をすなどっているのである。
 
命題67
説教者たちが大声で最大の恵みだと呼びかけている贖宥は、利得を増大させるかぎりにおいて、真に最大の恵みだと解される。
 
命題68
しかし、それら《贖宥》は神の恵みと十字架の敬虔とに比較すると、実際もっとも小さいものである。
 
命題69
司教や主任司祭たちは、使徒的贖宥を委任されている者たちを敬意をつくして認める義務がある。
 
命題70
しかし、彼らは目をみひらき、耳をそばだてて、これら委任されている者たちが教皇の委任の代わりに、自分たちの夢を説教することがないように注意する義務がもっともっとある。
 
命題71
使徒的贖宥の真理に反して語るものには、アナテマと呪いあれ。
 
命題72
しかし、贖宥の説教者の言葉の欲と放恣とに対して真に心するものには、祝福あれ。
 
命題73
どのような方法であれ、策謀して贖宥の売買に害を加えようとする者たちを、教皇が雷で打つのが正当であるのと同様に。
 
命題74
それより更に教皇は、策謀して贖宥を口実として聖なる愛と真理とに害を加えようとする者たちを、雷で打とうと意図するのである。
 
命題75
たといだれかが、不可能なことではあるが、神の母を犯したとしても、教皇の贖宥がその人間を解放しうるほどに大きいと考えるのは狂っているのである。
 
命題76
これに反してわたしたちは、教皇の贖宥は、小罪のうちのもっとも小さいものでも、罪責に関するかぎりでは、これを除去することができないと言うのである。
 
命題77
もし聖ペテロが今教皇であったとしても、彼はそれより大きい恵みを与えることができないと言うことは、聖ペテロと教皇にたいする冒涜である。
 
命題78
これに反してわたしたちは、現教皇もまたどの教皇も、贖宥より大きいもの、すなわち第1コリント12章[28節]にあるように、福音、諸力、いやしの恵みなどをもっていると言うのである。
 
命題79
教皇の紋章をつけて目立つように立てられた十字架が、キリストの十字架と同じであると言うのは、冒涜である。
 
命題80
このような説教が人々に行きわたることを許している司教、主任司祭、神学者たちは、釈明しなければならないだろう。
 
命題81
贖宥についてのこのような気ままな説教は、信徒のとがめだてや、あるいはいうまでもなく鋭い質問から教皇への敬意を救ってやることが、博学の人たちにさえ容易でないようにしている。
 
命題82
すなわち、「もし教皇が、大聖堂建設のためのもっとも汚れた金、すなわち、もっともいやしい理由によって無数の魂を贖うとすれば、なぜ教皇はもっと聖なる愛や魂が最大に必要とするもの、すなわち、すべてのうちでもっとも正しい理由によって煉獄をからにしないのであろうか」。
 
命題83
また、「贖われた者のために祈ることはすでに不正であるのに、なぜ死者のための葬式や記念がいつまでも続くのであろうか、また、なぜ教皇は死者のために献げられた献財を返さなかったり、回収することを許さなかったりするのであろうか」。
 
命題84
また、「不敬虔な者、敵対する者には、金を出せば敬虔で神の愛する魂を買うことを認めながら、敬虔で愛される魂自身の必要のためであるなら、これを無償の愛によって贖うことをしないような神と教皇との新しい敬虔とは何であろうか」。
 
命題85
また、「事実そのもの、また使用しなかったことからも、すでに長い間、それ自体廃棄され、死物となっていた悔悛の教会法規が、今になっても、贖宥の認可のため、金でもって ─あたかも今がもっとも強力であるかのように─ うけ出されているのはなぜであるか」。
 
命題86
また、「もっとも富めるクラススよりも、今日では豊かな財をもつ教皇が、なぜ貧しい信者の金よりむしろ自分の金で、この聖ペテロ大聖堂をひとつ建てないのか」。
 
命題87
また、「まったき痛悔によって完全赦免と《恵みに》あずかる権利を十分にもつ者に対して、教皇は何を赦免し、何をわかち与えるのであろうか」。
 
命題88
また、「教皇はいま一回だけしているが、もし一日百回どの信者にもこれらの赦免と伝達を与えるなら、それよりも大きな善いことが教会に加えられるであろうか」。
 
命題89
「教皇が贖宥によっては、金よりもむしろ魂の救いを求めていることからすれば、彼は、すでに以前に与えられた文書と贖宥とを、それらが現在同じように有効であるのに、なぜ停止させるのか」。
 
命題90
以上のような信徒のもっとも細心の議論を、力だけでおさえたり、理由をあげて解かなかったりすることは、教会と教皇とを敵の嘲笑にさらし、キリスト者を不幸にすることである。
 
命題91
したがって、もし贖宥が教皇の精神と意図に従って説教されるとすれば、これらすべてのことは容易に解消するであろう、否存在することもないだろう。
 
命題92
だからキリストの民に「平安、平安」[エレミヤ6:1、エゼキエル13:10、16]という、かのすべての預言者たちは立ち去るがよい ─そこには平和はない。
 
命題93
キリストの民に「十字架、十字架」という、かのすべての預言者たちは、さいわいである ─そこには十字架はない。
 
命題94
キリスト者はその首であるキリストに、罰、死、地獄を通して、従うことに励むように、勧められねばならない。
 
命題95
そしてキリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない[使徒14:22]。

6th February 2013、
投稿者 山田浩己 さんルーテル教会 資料より

http://ruteru.blogspot.jp/2013/02/95.html?m=1

参考図書
小田部 進一 著
ルターから今を考える: 宗教改革500年の記憶と想起

説明
内容紹介
「95か条の論題」から2017年で500年。いわゆる宗教改革から500年を迎えようとしている今、宗教改革者ルターの行ったことをどのように想起するのか。その生涯と思想を追いながら、今につながる課題を見据える。キリスト教徒の減少、それにともなう価値観の揺らぎを経験するドイツの現在から、日本社会とそこに生きる姿勢が問われる。

著者(小田部 進一)について
1968年生まれ。関西学院大学神学部博士課程前期課程修了(修士)。ミュンヘン大学にてDr. theol.取得。2016年現在、玉川大学文学部教授。

以下は、
From
"Project Wittenberg"

isputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum. 1517

Disputation of Doctor Martin Luther
on the Power and Efficacy of Indulgences
by Dr. Martin Luther, 1517

Martin Luther - Project Wittenberg

Disputation of Doctor Martin Luther
on the Power and Efficacy of Indulgences
by Dr. Martin Luther (1517)

Out of love for the truth and the desire to bring it to light, the following propositions will be discussed at Wittenberg, under the presidency of the Reverend Father Martin Luther, Master of Arts and of Sacred Theology, and Lecturer in Ordinary on the same at that place. Wherefore he requests that those who are unable to be present and debate orally with us, may do so by letter.

In the Name our Lord Jesus Christ. Amen.

1. Our Lord and Master Jesus Christ, when He said Poenitentiam agite, willed that the whole life of believers should be repentance.

2. This word cannot be understood to mean sacramental penance, i.e., confession and satisfaction, which is administered by the priests.

3. Yet it means not inward repentance only; nay, there is no inward repentance which does not outwardly work divers mortifications of the flesh.

4. The penalty [of sin], therefore, continues so long as hatred of self continues; for this is the true inward repentance, and continues until our entrance into the kingdom of heaven.

5. The pope does not intend to remit, and cannot remit any penalties other than those which he has imposed either by his own authority or by that of the Canons.

6. The pope cannot remit any guilt, except by declaring that it has been remitted by God and by assenting to God's remission; though, to be sure, he may grant remission in cases reserved to his judgment. If his right to grant remission in such cases were despised, the guilt would remain entirely unforgiven.

7. God remits guilt to no one whom He does not, at the same time, humble in all things and bring into subjection to His vicar, the priest.

8. The penitential canons are imposed only on the living, and, according to them, nothing should be imposed on the dying.

9. Therefore the Holy Spirit in the pope is kind to us, because in his decrees he always makes exception of the article of death and of necessity.

10. Ignorant and wicked are the doings of those priests who, in the case of the dying, reserve canonical penances for purgatory.

11. This changing of the canonical penalty to the penalty of purgatory is quite evidently one of the tares that were sown while the bishops slept.

12. In former times the canonical penalties were imposed not after, but before absolution, as tests of true contrition.

13. The dying are freed by death from all penalties; they are already dead to canonical rules, and have a right to be released from them.

14. The imperfect health [of soul], that is to say, the imperfect love, of the dying brings with it, of necessity, great fear; and the smaller the love, the greater is the fear.

15. This fear and horror is sufficient of itself alone (to say nothing of other things) to constitute the penalty of purgatory, since it is very near to the horror of despair.

16. Hell, purgatory, and heaven seem to differ as do despair, almost-despair, and the assurance of safety.

17. With souls in purgatory it seems necessary that horror should grow less and love increase.

18. It seems unproved, either by reason or Scripture, that they are outside the state of merit, that is to say, of increasing love.

19. Again, it seems unproved that they, or at least that all of them, are certain or assured of their own blessedness, though we may be quite certain of it.

20. Therefore by "full remission of all penalties" the pope means not actually "of all," but only of those imposed by himself.

21. Therefore those preachers of indulgences are in error, who say that by the pope's indulgences a man is freed from every penalty, and saved;

22. Whereas he remits to souls in purgatory no penalty which, according to the canons, they would have had to pay in this life.

23. If it is at all possible to grant to any one the remission of all penalties whatsoever, it is certain that this remission can be granted only to the most perfect, that is, to the very fewest.

24. It must needs be, therefore, that the greater part of the people are deceived by that indiscriminate and highsounding promise of release from penalty.

25. The power which the pope has, in a general way, over purgatory, is just like the power which any bishop or curate has, in a special way, within his own diocese or parish.

26. The pope does well when he grants remission to souls [in purgatory], not by the power of the keys (which he does not possess), but by way of intercession.

27. They preach man who say that so soon as the penny jingles into the money-box, the soul flies out [of purgatory].

28. It is certain that when the penny jingles into the money-box, gain and avarice can be increased, but the result of the intercession of the Church is in the power of God alone.

29. Who knows whether all the souls in purgatory wish to be bought out of it, as in the legend of Sts. Severinus and Paschal.

30. No one is sure that his own contrition is sincere; much less that he has attained full remission.

31. Rare as is the man that is truly penitent, so rare is also the man who truly buys indulgences, i.e., such men are most rare.

32. They will be condemned eternally, together with their teachers, who believe themselves sure of their salvation because they have letters of pardon.

33. Men must be on their guard against those who say that the pope's pardons are that inestimable gift of God by which man is reconciled to Him;

34. For these "graces of pardon" concern only the penalties of sacramental satisfaction, and these are appointed by man.

35. They preach no Christian doctrine who teach that contrition is not necessary in those who intend to buy souls out of purgatory or to buy confessionalia.

36. Every truly repentant Christian has a right to full remission of penalty and guilt, even without letters of pardon.

37. Every true Christian, whether living or dead, has part in all the blessings of Christ and the Church; and this is granted him by God, even without letters of pardon.

38. Nevertheless, the remission and participation [in the blessings of the Church] which are granted by the pope are in no way to be despised, for they are, as I have said, the declaration of divine remission.

39. It is most difficult, even for the very keenest theologians, at one and the same time to commend to the people the abundance of pardons and [the need of] true contrition.

40. True contrition seeks and loves penalties, but liberal pardons only relax penalties and cause them to be hated, or at least, furnish an occasion [for hating them].

41. Apostolic pardons are to be preached with caution, lest the people may falsely think them preferable to other good works of love.

42. Christians are to be taught that the pope does not intend the buying of pardons to be compared in any way to works of mercy.

43. Christians are to be taught that he who gives to the poor or lends to the needy does a better work than buying pardons;
44. Because love grows by works of love, and man becomes better; but by pardons man does not grow better, only more free from penalty.

45. Christians are to be taught that he who sees a man in need, and passes him by, and gives [his money] for pardons, purchases not the indulgences of the pope, but the indignation of God.

46. Christians are to be taught that unless they have more than they need, they are bound to keep back what is necessary for their own families, and by no means to squander it on pardons.

47. Christians are to be taught that the buying of pardons is a matter of free will, and not of commandment.

48. Christians are to be taught that the pope, in granting pardons, needs, and therefore desires, their devout prayer for him more than the money they bring.

49. Christians are to be taught that the pope's pardons are useful, if they do not put their trust in them; but altogether harmful, if through them they lose their fear of God.

50. Christians are to be taught that if the pope knew the exactions of the pardon-preachers, he would rather that St. Peter's church should go to ashes, than that it should be built up with the skin, flesh and bones of his sheep.

51. Christians are to be taught that it would be the pope's wish, as it is his duty, to give of his own money to very many of those from whom certain hawkers of pardons cajole money, even though the church of St. Peter might have to be sold.

52. The assurance of salvation by letters of pardon is vain, even though the commissary, nay, even though the pope himself, were to stake his soul upon it.

53. They are enemies of Christ and of the pope, who bid the Word of God be altogether silent in some Churches, in order that pardons may be preached in others.

54. Injury is done the Word of God when, in the same sermon, an equal or a longer time is spent on pardons than on this Word.

55. It must be the intention of the pope that if pardons, which are a very small thing, are celebrated with one bell, with single processions and ceremonies, then the Gospel, which is the very greatest thing, should be preached with a hundred bells, a hundred processions, a hundred ceremonies.

56. The "treasures of the Church," out of which the pope. grants indulgences, are not sufficiently named or known among the people of Christ.

57. That they are not temporal treasures is certainly evident, for many of the vendors do not pour out such treasures so easily, but only gather them.

58. Nor are they the merits of Christ and the Saints, for even without the pope, these always work grace for the inner man, and the cross, death, and hell for the outward man.

59. St. Lawrence said that the treasures of the Church were the Church's poor, but he spoke according to the usage of the word in his own time.

60. Without rashness we say that the keys of the Church, given by Christ's merit, are that treasure;


61. For it is clear that for the remission of penalties and of reserved cases, the power of the pope is of itself sufficient.

62. The true treasure of the Church is the Most Holy Gospel of the glory and the grace of God.
63. But this treasure is naturally most odious, for it makes the first to be last.

64. On the other hand, the treasure of indulgences is naturally most acceptable, for it makes the last to be first.

65. Therefore the treasures of the Gospel are nets with which they formerly were wont to fish for men of riches.

66. The treasures of the indulgences are nets with which they now fish for the riches of men.

67. The indulgences which the preachers cry as the "greatest graces" are known to be truly such, in so far as they promote gain.

68. Yet they are in truth the very smallest graces compared with the grace of God and the piety of the Cross.

69. Bishops and curates are bound to admit the commissaries of apostolic pardons, with all reverence.

70. But still more are they bound to strain all their eyes and attend with all their ears, lest these men preach their own dreams instead of the commission of the pope.

71. He who speaks against the truth of apostolic pardons, let him be anathema and accursed!

72. But he who guards against the lust and license of the pardon-preachers, let him be blessed!

73. The pope justly thunders against those who, by any art, contrive the injury of the traffic in pardons.

74. But much more does he intend to thunder against those who use the pretext of pardons to contrive the injury of holy love and truth.

75. To think the papal pardons so great that they could absolve a man even if he had committed an impossible sin and violated the Mother of God -- this is madness.

76. We say, on the contrary, that the papal pardons are not able to remove the very least of venial sins, so far as its guilt is concerned.

77. It is said that even St. Peter, if he were now Pope, could not bestow greater graces; this is blasphemy against St. Peter and against the pope.

78. We say, on the contrary, that even the present pope, and any pope at all, has greater graces at his disposal; to wit, the Gospel, powers, gifts of healing, etc., as it is written in I. Corinthians xii.

79. To say that the cross, emblazoned with the papal arms, which is set up [by the preachers of indulgences], is of equal worth with the Cross of Christ, is blasphemy.

80. The bishops, curates and theologians who allow such talk to be spread among the people, will have an account to render.

81. This unbridled preaching of pardons makes it no easy matter, even for learned men, to rescue the reverence due to the pope from slander, or even from the shrewd questionings of the laity.

82. To wit: -- "Why does not the pope empty purgatory, for the sake of holy love and of the dire need of the souls that are there, if he redeems an infinite number of souls for the sake of miserable money with which to build a Church? The former reasons would be most just; the latter is most trivial."

83. Again: -- "Why are mortuary and anniversary masses for the dead continued, and why does he not return or permit the withdrawal of the endowments founded on their behalf, since it is wrong to pray for the redeemed?"

84. Again: -- "What is this new piety of God and the pope, that for money they allow a man who is impious and their enemy to buy out of purgatory the pious soul of a friend of God, and do not rather, because of that pious and beloved soul's own need, free it for pure love's sake?"

85. Again: -- "Why are the penitential canons long since in actual fact and through disuse abrogated and dead, now satisfied by the granting of indulgences, as though they were still alive and in force?"

86. Again: -- "Why does not the pope, whose wealth is to-day greater than the riches of the richest, build just this one church of St. Peter with his own money, rather than with the money of poor believers?"

87. Again: -- "What is it that the pope remits, and what participation does he grant to those who, by perfect contrition, have a right to full remission and participation?"

88. Again: -- "What greater blessing could come to the Church than if the pope were to do a hundred times a day what he now does once, and bestow on every believer these remissions and participations?"

89. "Since the pope, by his pardons, seeks the salvation of souls rather than money, why does he suspend the indulgences and pardons granted heretofore, since these have equal efficacy?"

90. To repress these arguments and scruples of the laity by force alone, and not to resolve them by giving reasons, is to expose the Church and the pope to the ridicule of their enemies, and to make Christians unhappy.

91. If, therefore, pardons were preached according to the spirit and mind of the pope, all these doubts would be readily resolved; nay, they would not exist.

92. Away, then, with all those prophets who say to the people of Christ, "Peace, peace," and there is no peace!

93. Blessed be all those prophets who say to the people of Christ, "Cross, cross," and there is no cross!

94. Christians are to be exhorted that they be diligent in following Christ, their Head, through penalties, deaths, and hell;

95. And thus be confident of entering into heaven rather through many tribulations, than through the assurance of peace.
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神奈川県の人口と世帯(平成28年12月 1日現在)川崎市を事例にしながら考える

2017-01-07 10:18:02 | 地域情報

『神奈川県の人口と世帯』について思う
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f10748/

神奈川県内人口914万8109人 12月1日現在

県は12月1日現在の県人口と世帯数を発表した。

人口総数は914万8109人(男456万7023人、女458万1086人)で、前年同月比1万8936人増えた。

世帯数は前年同月比4万2224世帯増の402万5773世帯。

1カ月で最も増えた市区町村は川崎市宮前区(300人)、
最も減ったのは横浜市金沢区(335人)だった。

以前から、神奈川県の中では川崎市が比較的に人口が増加傾向にあり、極端な人口減少を今の所は避けられている。

自然増加も前月比で、川崎市は295もあり、社会増加も448とかなり高く、神奈川県内で『1カ月で最も増えた市区町村は川崎市宮前区(300人 )』である。
川崎市の人口が全国7位に 横浜市は最多372万6167人

2016年2月26日に総務省が公表した平成27年国勢調査で、神奈川県の総人口は約912万7323人
川崎市の人口は147万5300人で京都市(147万4570人)を抜き、全国7位になったことが分かった。前回の22年調査と比較した人口増加率も3・5%と政令市では福岡市に次ぐ水準となり、人口増の傾向はしばらく続きそうだ。

川崎市は150万人代にもうすぐである。

川崎の区別では、武蔵小杉駅前でタワーマンション建設が相次ぐ中原区が24万7476人(22年比の増減率は5・8%増)と最も多く、次いで高津区=22万8119人(4・9%増)▽宮前区=22万5604人(3・1%増)▽川崎区=22万3440人(2・8%増)▽多摩区=21万4240人(0・2%増)▽麻生区=17万5557人(3・3%増)▽幸区=16万864人(4・3%増)-だった。
7区全てでプラスとなった。

 人口全体の男女比は女性100に対し、男性は103・1で、政令市の中では最も男性の割合が高かった。市統計情報課は「企業や工場が多く、もともと20代男性の転入超過が多いのが要因ではないか」と話している

また、宅地・マンション開発率の高さに比例しているのかもしれない。中原区の向こう数年は、武蔵小杉を中心として、大規模な開発が続く。
鉄道利便性と街としての文化自然環境や利便性が加わるなら人口増が当然見込まれる。

しかし、ただ人口が増えるのは、交通渋滞や閉塞感なともあり、地域住民に対しても良いことばかりではない。

その町に住む方々の『身の丈あった暮らしの快適さ=アメニティ』に合うことがまさに大切である。
現在進行している日本全体の『高齢化や少子化』による『極端な人口減少や過疎化』は大問題であることは間違いない!

神奈川県においては、川崎市の事例に学ぶべき点や気づきがあると考える。

政令指定都市の中で、出生率&婚姻率1位! 川崎市役所に聞く人口増加の理由
http://www.rakumachi.jp/news/archives/120971/2より
前略・・・
「人口増加の理由は、官民が一体となって住みよい街づくりと再開発プロジェクトを進めている結果ではないでしょうか。この10年間の人口増加率は11.87%であり、政令指定都市の中では第1位です。第2位である福岡市が9.27%ですから、大きな伸び率であることをお分かりいただけるかと思います。

また政令指定都市の中では、24年連続で出生率が1位、29年連続で婚姻率も1位です。今後も人口の増加が期待されており、平成42 年には人口152万人に達する見込みになっています」

人口がただ単に増えているだけでなく、生産年齢人口の割合が約70%と、これも大都市(政令指定都市および東京23区)のなかでナンバーワン。さらに人口1人あたりの課税対象所得額が194万円、地方公共団体の財政力を示す指標として用いられる財政力指数が0.995であり、ともに政令指定都市中トップを誇るという。

つまり財政が健全であることから、住みよい街づくりに力を注ぐことが可能であり、その結果、結婚や出産の割合も増え、人口が増加することで更に財政が豊かになっているということ。理想的な循環が生まれているわけだ。

治安がよく、子育てしやすい緑豊かな環境

大都市統計協議会が発表した平成25年版のデータでは、川崎市は大都市の中で「人口千人当たり刑法犯認知件数」が最も少ない。

そして「2人以上の世帯のうち勤労者世帯の1世帯当たり年平均1カ月間の実収入」は65万3249円、「雇用者に占める正規の職員・従業員の割合」は62.2%であり、ともに大都市中トップ。治安の良さには平均的な生活水準の高さが関係しているのだろう。

他にも「人口10 万人当たり交通事故発生件数、死傷者数」が最も少ないことから、交通マナーの良さもうかがい知ることができる。

「多摩川の水辺や生田緑地などの豊かな自然も川崎市の自慢です。自然増加比率、自然増加数も大都市の中で最も高い数値を誇ります。自然のなかでのレクリエーションだけでなく、『川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム』や『岡本太郎美術館』、『日本民家園』といった文化施設も充実しているので、情操教育の機会も豊富です。

さらに共働きのご家庭を支援するための取り組みを進めており、平成27年4月には待機児童がゼロになりました。今後は市立中学校で給食を実施する予定です。これにより、ご家庭の家事のご負担が軽減されることが期待されています」

新婚夫婦や子育て世帯をターゲットとする不動産投資家にとっても、好条件が揃っている川崎市。市内の駅から概ね30分以内に主要ターミナル駅へアクセスできる交通利便性も魅力であり、川崎市内や横浜市だけでなく、都内で働く若者をターゲットにできるのも強みである。
・・・後略


『鶏に関する伝説5』南方熊楠の十二支考

2017-01-05 21:06:16 | 市民国際交流協会


『鶏に関する伝説5』南方熊楠の十二支考

 鶏を妖怪とする譚も少なからぬ。かつて『国華』に出た地獄の絵に、全身火燃え立ち居る大きな鶏が、猛勢に翅を鼓して罪人を焼き砕く怖ろしい所があった。これは鶏地獄でその委細は『起世因本経』三に出いづ。英国デヴォンシャーの一僧、魔法に精くわしきが、留守中、その一僕、その室に入って机上に開いた一巻を半頁足らず読む内、天暗く暴風至り戸を吹き開けて、黒色の母鶏が雛を伴れて入り来り、初め尋常の大きさだったが、ようやく増して母鶏は牛大となる。僧は堂で説法しいたが、内に急用生じたとて罷やめ帰ると、鶏の高さ天井に届き居る。僧用意の米袋を投げ、雛競い拾う間に禁呪まじないを誦してその妖を止めた(ハズリット、一巻三一三頁)、アフリカまた妖鶏談あって、一六八二年コンゴに行ったメロラ師の紀行に、国王死後二人あって相続を争う、一人名はシマンタムバ、この者ソグノ伯が新王擁立の力あるを以て、請うてその女を娶めとり、伯佯いつわってこれを許し、娘と王冠を送るを迎えた途中で掩殺えんさつさる。シマンタムバの弟軍を起し、ソグノ伯領の大部分を取り、伯これを恢復せんとて大兵を率い敵の都へ打ち入るに、住民皆逃げて抗する者なし。伯の軍勢空腹を医するため飲食を掠かすむる内、常より大きな雄鶏、一脚に大鉄環を貫けるを見、これは魔物故食わぬがよいと賢人の言に従わず、打ち寄せて殺し、裂き煮て食いに掛かると、ほとんど溶けいた鶏肉片が動き出し、合併して本の鶏となり、壁に飛び上ると新羽一斉に生え、更に樹に上って三度翼を鼓し怖ろしい声で鳴いて形見えずなった。さてこそ魔物と一同震慄した。シマンタムバ常に一大鶏を畜かい、その鳴く声と時刻を考え、事ごとに成敗を知ったと聞くが、それも無効と見えてソグノ伯に紿あざむき殺された。今度の妖鶏はその鶏であろうかとある(ピンカートンの『海陸紀行全集』一六巻二三八頁)。
 支那でも雲南の光明井に唐の大歴間、三角牛と四角羊と鼎足鶏見あらわれ、井中火ありて天に燭しょくす。南詔以て妖となし、これを塞ふさがしむ。今風雲雷雨壇をその上に建つ(『大清一統志』三二二)。誠に以て面妖な談はなしだが、鶏に縁ある日の中に三足の烏ありてふ旧説から訛出したであろう。こんな化物揃ぞろいの噺はなしは日本にもあって、一休和尚讃州旅行の節、松林中に古寺あって僧三日と住せず、化物出ると聞き、自ら望んで往き宿る。夜五更こうになれば変化へんげ出て踊り狂う。一番の奴の唄に「東野のばずは糸しい事や、いつを楽とも思いもせいで、背骨は損し、足打ち折れて、ついには野辺の土となる/\」、次の奴は「西竹林のけい三ぞくは、ある甲斐もなきかたわに生まれ、人の情けを得え蒙こうむらで、竹の林に独りぬる/\」、三番目の物は「南池の鯉魚は冷たい身やな、水を家とも食ともすれば、いつもぬれ/\にや/\しと/\」と唄う。一休一々その本性を暁さとり、明旦みょうあさ土人を呼び集め、東の野に馬の頭顱、西の藪中に三足の鶏、南の池に鯉あるべしとて探らせると果してあり。これを葬り読経どきょうして怪全く絶えたという(『一休諸国物語』四)。紀州で老人の伝うるは、何国と知れず住職を入れると一夜になくなる寺あり。ある時村へ穢きたない貧僧来るをこの寺へ泊まらせる。平気で読経し居ると、丑うし三つ頃、表の戸を敲たたきデンデンコロリ様はお内にかという者あり。中より誰ぞと問う声に応じ、東山の馬骨と答え、今晩は至極好い肴さかなあるそうで結構でござると挨拶して通る。次は南水のきぎょ、西竹林の三けいちょうと名乗りて入り来り、三怪揃うて僧に飛び掛かるを、少しも動ぜず経を読んで引導を渡すと化物消え失せる。翌朝村人僧の教えのままに、馬頭と金魚、および三足鶏の屍を見出し、また寺の乾いぬいの隅すみの柱上より槌つちの子を取り下ろす。この槌の子がもっとも悪い奴で、他の諸怪を呼んだのだ。槌の子を乾の隅に置くと怪をなすという。『曾呂利そろり物語』四には伊予の出石いずしの山寺で足利の僧が妖怪を鎮めたとし、主怪をえんひょう坊、客怪をこんかのこねん、けんやのばとう、そんけいが三足、ごんざんのきゅうぼくとす。円瓢坊は円い瓢箪ひょうたん、客怪は坤河こんがの鯰なまず、乾野の馬頭、辰巳たつみの方の三足の蛙、艮山ごんざんの朽木とその名を解いて本性を知り、ことごとく棒で打ち砕いて妖怪を絶ち、かの僧その寺を中興すと載す。漢の焦延寿の『易林』に巽そん鶏と為すとあれば、そんけいは巽鶏そんけいだ、圭けいの字音に拠よって蛙をケイと読み損じて、巽たつみの方の三足の蛙と誤伝したのである。
 熊野地方の伝説に、那智の妖怪一ツタタラは毎いつも寺僧を取り食う。刑部左衛門これを討つ時、この怪鐘を頭に冒り戦う故矢中あたらず、わずかに一筋を余す。刑部左衛門最早矢尽きたりというて弓を抛り出すと、鐘を脱ぎ捨て飛び懸るを残る一筋で射殪いたおした。この妖怪毎いつも山茶つばきの木製の槌と、三足の鶏を使うたと。槌と鶏と怪を為なす事、上述デンデンコロリの話にもあり、山茶の木の槌は化ける、また家に置けば病人絶えずとて熊野に今も忌む所あり、拙妻の麁族そぞく請川うけがわの須川甚助てふ豪家、昔八棟造りを建つるに、烟出けむりだしの広さ八畳敷、これに和布わかめ、ヒジキ、乾魚ひうおなどを貯え、凶歳に村民を救うた。その大厦たいかの天井裏で毎夜踊り廻る者あり。大工が天井張った時山茶の木の槌を忘れ遺のこせしが化けたという。
 北欧の古雷神トールが巨鬼を平らぐるに用いた槌すなわち電は擲なげうつごとに持ち主の手に還った由で、人その形を模して守りとし、また石斧をトールの槌として辟邪へきじゃの功ありとした(マレの『北方考古篇』五章。一九一一年板ブリンケンベルヒの『宗教民俗上の雷器』八六頁已下)。アフリカのヨルバ人は雷神サンゴは堅いアヤン木で棍棒を作り用ゆという(レオナードの『下ナイジャーおよびその民族』三〇三頁)。仏教の諸神大黒天、満善車王など槌を持ったが少なからず(『仏教図彙』)。定家卿の『建仁元年後鳥羽院熊野御幸記』に鹿瀬山を過ぎて暫く山中に休息小食す、この所にて上下木枝を伐り、分に随って槌を作り、榊さかきの枝に結い付け、内ノハタノ王子に持参(ツチ分罰童子云々)し各これを結い付く。これは罪人を槌で打ち罰した神らしい。『梅津長者物語』にも大黒天が打出うちでの小槌で賊を打ち懲らす話がある。古エトルリアの地獄神チャルンは巨槌で亡魂どもを打ち苦しむ(デンニス著『エトルリアの都市および墓場』二巻二〇六頁)、『※[#「こざとへん+亥」、U+9654、208-2]余叢考』三五に鍾馗しょうきは終葵しゅうきの訛なまりで、斉人椎つちを終葵と呼ぶ。古人椎を以て鬼を逐おうといえば、辟邪の力ある槌を鍾馗と崇めたのだ。その事毬杖とて正月に槌で毬まりを打てば年中凶事なしというに類す(『骨董集』上編下前)。『政事要略』七〇に、裸鬼が槌を以て病人に向うを氏神が追い却しりぞけた事あり。『今昔物語』二十の七に、染殿そめどの后を犯した婬鬼赤褌を著けて腰に槌を差したと記す。予が大英博物館に寄付してその宗教部に常展し居る飛天夜叉の古画にも槌を持った鬼がある。つまり昔は槌を神も鬼もしばしば使う霊異な道具としたのだ。劉宋の張稗の孫女、特色あるを富人求めたが、自分の旧い家柄に恥じて与えず。富人怒ってその家に火を付け焼き殺した。稗の子、邦、旅より還って富人の所為と知れどその財を貪って咎めざるのみか、女を嫁しやった。一年後、邦、夢に稗見あらわれ、汝不孝極まると言いて桃の枝で刺し殺す。邦、因って血を嘔はいて死に、同日富人も稗を夢み病死した(『還冤記』)。桃はもと鬼が甚いたく怕おそるるところだが、この張稗の鬼は桃を怖れず、桃枝もて人を殺す。ちょうど悪徒は入れ墨さるるを懼おそるれど、追々は入墨を看板に使うて更に人を脅迫するようだ。そのごとく槌は初め鬼の怖るるところだったが、後には鬼かえって槌を以て人を打ち困らせたと見ゆ。『抱朴子』の至理の巻に、呉の賀将軍、山賊を討つ、賊中、禁術きんじゅつの名人あって、官軍の刀剣抜けず、弓弩きゅうど皆還って自ら射る。賀将軍考えたは、金に刃あり、更に毒あるは禁ずべきも、刃も毒もなき物は禁術が利かぬと聞く。彼能くわが兵刃を禁ずれど必ず刃なき物を禁じ能わぬべしと、すなわち多く勁つよい木の白棒を作り、精卒五千を選んで先発せしめ、万を以て計る多勢の賊を打ち殺したが、禁術は一向利かなんだとある。『書紀』七や『豊後国風土記』には景行帝熊襲くまそ親征の時、五人の土蜘蛛つちぐも拒み参らせた。すなわち群臣に海石榴(ツバキ)の椎つちを作らせ、石窟を襲うてその党を誅し尽くした。爾後その椎を作った処を海石榴市つばいちというと記す。山茶つばきの木は粘き故当り烈しく、油を搾る長杵ながきねにするに折れず。犬殺しの棒は先を少し太くし、必ずこの木を用ゆ。雕工ちょうこうに聞くに山茶と枇杷びわの木の槌で身を打てば、内腫を起し一生煩う誠に毒木だと。こんな訳で山茶の槌を使うを忌み、また刀剣同様危ぶみ怕れて、神や鬼の持ち物とし、さては山茶作りの槌や、床柱は化けると言い出したのだ。山茶の朽木夜光る故山茶を化物という(『嬉遊笑覧』十下)のも、またこの木を怪しとする一理由だ。予幼時和歌山に山茶屋敷てふ士族邸あり、大きな山茶多く茂れるが夜分門を閉づれど戸を締めず開け放しだった。然しかせぬと天狗の高笑いなど怪事多いと言った。那智の観音本像は山茶の木で作るという。伊勢の一の宮都波木大明神は猿田彦を祀まつる(『三国地誌』二三)、村田春海はるみの『椿詣での記』に、その地山茶多しとあれば山茶を神としたものか。今井幸則氏説に、常陸ひたち筑波郡今鹿島は、昔領主戦場に向うに先だちこの所に山茶一枝を挿さし、鹿島神宮と見立て祈願すると勝利を得たからその地を明神として祀り今鹿島と号すと(『郷土研究』四巻一号五五頁)。鹿島には山茶を神木とするにや。『和泉いずみ国神明帳』には従五位下伯太椿社を出す。山茶の木を神として祀ったらしい。
 祭礼の笠鉾かさぼこなどに鶏が太鼓に留まった像を出し諫鼓かんこ鳥と称す。『塵添※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢鈔』九に「カンコ苔こけ深しなんど申すは何事ぞ、諫鼓をば諫いさめの鼓と読む。喩たとえば唐の堯帝政を正しくせんがために、悪あしき政あればこの鼓を撃ちて諫め申せと定め置かれしなり。中略、何たる卑民の訴えも不達という事なかりしなり」、『連珠合璧』下、鼓とあれば諫め、苔深し。『鬻子いくし』に禹うの天下を治むるや五声を以て聴く。門に鐘鼓鐸磬たくけいを懸け、以て四方の士を待つ。銘に曰く、寡人に教うるに事を以てする者は鐸を振え、云々。道を以てする者は鼓こを撃てと。『淵鑑類函』五二に〈堯誹謗の木を設け、舜招諫の鼓を懸く〉とあれど出処を示さず。熊楠色々と捜すと『呂覧』自知篇に〈堯欲諫の鼓あり、舜誹謗の木あり〉と出たが一番古い。余り善政行き届いて諫鼓の必用なく、苔深く蒸したと太平の状を述べたとまでは察するが、もっとも古くこの成語を何に載せたかを知らぬ。白居易作、敢諫鼓の賦あり。『包公寄案』には屈鼓とした。冤屈を訴うる義だ。『類聚名物考』二八五に土御門つちみかど大臣「君が代は諫めの鼓鳥狎なれて、風さへ枝を鳴らさゞりけり」、三二〇に「今の世に禁庭八月の燈籠の作り物等に鼓上に鶏あるを出す、諫鼓苔深くして鳥驚かずの意より出いづと、云々、此方こなたの上世は専ら唐制を移されたれば、恐らくは金鶏の作り物にやあるべき」とありて、封演の『聞見記』を引き、唐朝大赦ある時、闕下けっかに黄金の首ある鶏を高橦こうとうの下に立て、宮城門の左に鼓を置き、囚徒至るを見てこれを打ち、赦を宣のたまえおわりて金鶏を除く、この事魏晋已前いぜん聞えず、後魏または呂光より始まるという。北斉赦あるごとに金鶏を閭門に立てる事三日でやむ。万人競うて金鶏柱下の土を少しく取り佩おぶれば、日々利ありというに数日間ついに坑を成した。星占書に天鶏星動けば必ず赦ありと見えるからの事だと述べ、また万歳元年嵩山すうざんに封じた時、大※(「木+解」、第3水準1-86-22)樹杪に金鶏を置いた由を記す。しかし支那に諫鼓また屈鼓が実在した証は外国人の紀行に存す。例せば一六七六年マドリッド板、ナヴァレッテの『支那帝国誌』一二頁にいわく、すべて支那の裁判所はその高下に随って大小の太鼓を備え、訟あるごとにこれを打つ、南京ナンキンの法庁にある者、殊に大きく象皮一枚を張り、大なる棒を高く荒縄で釣つるしてこれを打つと。レーノー仏訳、九世紀のアラビア人、ソリマンの『支那記』四一頁にいわく、支那には市ごとに知事の頭の上に鐘を釣るしてダラー(銅鑼?)と名づく、それに付けた緒おは街まで引っ張り置き、誰でもこれを引いて鳴らすを得、その緒長きは一パラサンに達すとある。これはペルシャの尺度で三英マイル半から四英マイル、時代に依って変る。ちょっと緒に触れば鐘が鳴り出すようにしあって、不正の裁判を受けた者、この緒を動かし鐘を知事の頭上で鳴らすと、知事躬みずからその冤訴を聴き公平の処分をする。かかる鐘を諸地方皆備えいると。レーノー注に、十二世紀のアラビア人エドリシの『世界探究記』に拠れば、昔北京ペキンの帝の宮殿近く太鼓の間あり。諸官兵士日夜これを警衛す、裁判不服の者と裁判を得ざる者、その太鼓を鳴らせば法官躊躇ちゅうちょせずその愁訴を聴き公平に判決す。この制今は行われずと。ユールの『カタイおよびその行路』巻一序論一〇六頁に、シャムの先王この制を立てしもその役務の小姓ら尽力して廃止したとある。日本にも『書紀』二五、大化改新の際朝廷に鐘を懸け、匱はこを設け、憂え諫むる人をして表を匱に納いれしめ、それでも聴き採られざる時は憂訴の人、鐘を撞つくべしと詔あり。その文を見ると、『管子』に見えた禹建鼓けんこを朝に立て、訊望に備えたを倣なろうたらしい。久米博士の『日本古代史』八四一頁に、この鐘匱しょうきは新令実施が良民資産に直接の関係あるを以て、国司等の専断収賂あるを慮おもんぱかりこれを察知せんため一時権宜に設けられたるなり、古書の諫鼓、誹謗木など形式的の物と看做みなすは大なる誤解なりとあれど、古支那の諫鼓、撃鐘が冤を訴うるに実用あったは、当時支那に遊んで目撃した外人の留書とめがきで判る事上述のごとく、決して形式的でなかった。
 

『鶏に関する伝説4』南方熊楠の十二支考

2017-01-04 21:39:56 | 文学・芸術

かなり以前に、南方熊楠の『燕石考』を読んで感銘を受けた記憶がある。
燕石以外にも、『鶏石(ラテン名ラピルス・アレクトリウス』というものもあり、『この鶏の体内に石あり。それを指環に嵌はめて佩おぶれば、欲しいと思う物ことごとく得べし』『鶏の体内にある小石で、豆ほど大きく、水晶の質でこれを佩ぶれば姙婦に宜よろしく、また人をして勇ならしむ。』という件(くだり)は興味津々にさせられる。

http://japanese.hix05.com/Minakata/minakata111.eagle.html
『鷲石考:南方熊楠の世界』によると、

「鷲石考」と「燕石考」は姉妹論文のような関係にある。「燕石考」が、燕と関連付けられた燕石が子燕の盲を治療することから発して広く医療的な効果を持たされるに至ったことの民俗学的な背景を論じているのに対して、この論文は、鷲と関連つけられた鷲石が何故出産とそれにかかわるもろもろのことがらと結び付けられるに至ったかについて考察している。そしてその両者の考察を通じて熊楠は、人間の想像力が自然に働きかける際の、普遍的なパターンを摘出するわけなのである。

先に、その件「鷲石考」と「燕石考」関係を抜粋し、かなり長い『鶏に関する伝説4』を、後に紹介したい。

 イタリア人ジォヴァンニ・バッチスタ・バシレの『イル・ペンタメロネ』の四巻一譚に、ミネカニエロ翁雄鶏を飼う。金入用に及び、これを術士二人に売る。彼ら鶏を持ち去るとて、この鶏の体内に石あり。それを指環に嵌はめて佩おぶれば、欲しいと思う物ことごとく得べしと語る。ミネカニエロこれを聞いてその鶏を盗み、殺して石を取り、青年に若返り、金銀荘厳の宮殿に住む。術士化け来って、その指環を衒かたり取ると、ミネカニエロまた老人となり、指環を取り戻さんと鼠が住む深穴国に至る。鼠ども術士の指を咬かんで環をミ翁に復かえす。ミ翁また若返り、二術士を二驢ろに化し、自らその一に騎のり、後のち山より投下す。今一の驢に豕脂ししを負わせ、報酬として鼠どもに贈るとある。鶏石(ラテン名ラピルス・アレクトリウス)は鶏の体内にある小石で、豆ほど大きく、水晶の質でこれを佩ぶれば姙婦に宜よろしく、また人をして勇ならしむ。クロトナのミロンは鶏石のおかげで大勇士となった由。一六四八年ボノニア板、アルドロヴァンズスの『ムセウム・メタリクム』四巻五八章に、この石の記載あるが諸説一定せず、蚕豆そらまめ状とも三角形ともいう。佩ぶれば姙婦に宜しという石どもについては、余未刊(大正十年五月の時点で)の著『燕石考』に詳述したが、その一部分を「*孕石はらみいしの事」と題して出し置いた。

『鷲石考 / 孕石(はらみいし)のこと』に関して、
『南方熊楠を知る事典』-原田健一(はらだ けんいち)氏の以下のサイト↓に解釈などが参考になります。http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/books/jiten_harada_ch3.html#eagle_stone



 前項に書いたほかにまだまだ弥勒みろくと僭称した乱賊の記事がある。『松屋筆記』六五に『二十二史箚記さっき』三十巻、元の順帝の至正十一年、〈韓山の童倡となえて言う、天下大いに乱れ、弥勒仏下生すと、江淮こうわいの愚民多くこれを信ず、果して寇賊蜂起し、ついに国亡ぶるに至る、しかるにこの謡は至正中より起るにあらざるなり、順帝の至元三年、汝寧じょねいより獲るところの捧胡を献ず、弥勒仏小旗、紫金印の量天尺あり、而して泰定帝の時、また先に息州の民趙丑斯ちょうちゅうし、郭菩薩等あり、謡言を倡え、弥勒仏まさに天下を有もつべしという、有司以て聞す、河南行省に命じてこれを鞫治きくちせしむ、これ弥勒仏の謡すでに久しく民間に播まくなり、けだし乱の初めて起る、その根株を抜かず、ついに蔓延して救うべからざるに至る、皆法令緩弛の致すところなり云々〉。本朝にも弥勒の名を仮りて衆を乱せし事歴史に見ゆとありて、頭書に『輟耕録てっこうろく』二十九にも出いづとあるから取り出し読むと、果して至正十一年、執政脱々が工部尚書賈魯かろを遣わし、民夫十五万と軍二万を役して黄河を決せしめ、道民生を聊やすんぜず、河南の韓山童乱を作なし、弥勒仏の出世を名となし、無頼の悪少を誘集し、香を焼たき、会えを結び、漸々滋蔓じまんして淮西の諸郡を陥れ、それより陳友諒・張士誠等の兵尋ついで起り、元朝滅亡に及んだ次第を述べ居る。本朝にも弥勒の平等世界を唱えて衆を乱した事歴史に見ゆとは何を指すのかちょっと分らぬが、『甲斐国妙法寺記』に、永正三丙寅ひのえとら、この年春は売買去年冬よりもなお高直こうじきなり。秋作はことごとく吉よし、ただし春の詰まりに秋吉よけれども、物も作らぬ者いよいよ明けし春までも貧なり。この年半ばの頃よりも年号替わるなり云々とありて、永正四丁卯ひのとう、弥勒二年丁卯と並べ掲ぐ。山崎美成よししげの書いた物にこの年号の考あったと覚ゆれど今ちょっと見出さず。『一話一言』一六に、『会津旧事雑考』より承安元年辛卯かのとうを耶麻郡新宮の神器の銘に、弥勒元辛卯と記した由を引き、三河万歳みかわまんざいの唱歌に、弥勒十年辰の歳、諸神の立ちたる御屋形と唄うも、いずれなき事にはあらじかし、とある。永正三丙寅と承安元辛卯、いずれも弥勒元年とするもその十年は乙亥きのといか庚子かのえねで辰の歳じゃない。『慶長見聞集』の発端に見えしは、今三浦の山里に年よりへたる知人あり、当年の春江戸見物とて来りぬ。愚老に逢いて語りけるは、さてさて目出たき御代かな、我ごとき土民までも安楽に栄え美々しき事どもを見きく事のありがたさよ、今が弥勒の世なるべしという。実げに実に土民のいい出せる詞ことばなれども、全く私言にあるべからずと記せるなど考え出すと、昔は本邦でも弥勒の平等無差別世界を冀こいねがう事深く、下層民にまで浸潤し、結構な豊年を祝い、もしくは難渋な荒歳を厭うことは、一度ならず私わたくしに弥勒と年号を建てたらしく、例の足利氏の代に多く起った徳政一揆などの徒が、支那朝鮮同様弥勒仏の名を仮って乱を作なせし事もあったのだろう。二月十六日の『大毎』紙に、綾部あやべの大本おおもとに五六七殿というがあるそうで、五六七をミロクと訓よませあった。かつて故老より亀の甲は必ず十三片より成り、九と四と合せば十三故、鼈甲べっこうで作る櫛くしを九四といい始めたと承ったが、江戸で唐櫛屋とうぐしやを二十三屋と呼んだは十九四とくしの三数を和すれば二十三となるからという(『一話一言』八)。この格で五と六と七を合すと十八すなわち三と六の乗積ゆえ、弥勒の無差別世界を暗示せんため、弥勒の代りに十八、そのまた代りに五六七と書いたものでなかろうか。
 さて前に書いた通り、鶏足を号とした寺は東北に多く、また、奥羽地方に荷渡にわたり権現ごんげん多く、また鶏足にわたり権現、鶏足明神と漢字を宛て、また、鶏鳥権現と書きある由(『郷土研究』二巻八号、尾芝氏説)、しかるに『真本細々要記』貞治じょうじ五年七月の条に、伏見鶏足寺見ゆれば畿内にもあったのだ。蔵王権現は弥勒の化身と『義楚六帖』にいえば、これを尊拝する山伏輩がもっとも平等世界や鶏足崇拝を説き廻っただろう。
 河内の道明寺中興住持の尼、覚寿かくじゅは菅丞相かんしょうじょうの伯母で、菅神左遷の時、当寺に行き終夜別れを惜しむ。暁に向い鶏啼きて喧かまびすし。菅神そこで吟じたもう和歌に「鳴けばこそ別れを急げ鳥のねの、聞えぬ里の暁もがな」(『和漢三才図会』七五)、これよりこの土師はじの里に鶏鳴かず、羽敲はばたきもせぬ由、『菅原伝授鑑すがわらでんじゅかがみ』に出で、天神様が嫌うとて今に鶏を飼わぬらしい(高木氏『日本伝説集』二一九頁)。
 一五三五年頃スアヴェニウスは、スコットランドで周り八マイルばかりまるで鶏鳴かぬ地を見た由(ハズリット、一巻一三五頁)。『広益俗説弁』三八に、俗説にいわく、菅丞相御歌に「鳥もなく鐘も聞えぬ里もがな、ふたりぬる夜の隠れがにせむ」。これは太田道灌の『慕景集』鳥に寄する恋「世の中に鳥も聞えぬ里もがな、二人ぬる夜の隠れがにせむ」とあるを、菅原の詠と誤り伝えたのだとあって「鳴けばこそ」の歌は『天満宮故実』等に出ると言ったが、『天満宮故実』という物、余見た事なく、確かな書籍目録にも見えぬ。想うに道灌の「世の中に」の詠を真似まねて後人が「鳴けばこそ」の一首を偽作したのであろう。元禄時代の編てふ『当世小唄揃』には「鳥のねも鐘も聞えぬ里もがな、二人ぬる夜の隠れがにせん」とある。「人を助くる身を持ちながら暁の鐘つく」糞坊主と斉ひとしく、鶏の無情を恨んだ歌はウンザリするほどあって、就中なかんずく著名なは、『伊勢物語』に、京の男陸奥の田舎女に恋われ、さすがに哀れとや思いけん、往きて寝て、夜深く出でにければ、女「夜も明けば狐きつにはめけん鶏くだかけの、まだきに鳴きてせなをやりつる」。後世この心を「人の恋路を邪魔する鳥は犬に食われて死ぬがよい」とドド繰くったものじゃ。『和泉式部家集』五、鶏の声にはかられて急ぎ出でてにくかりつれば殺しつとて羽根に文を附けて賜われば「いかゞとは我こそ思へ朝な/\、なほ聞せつる鳥を殺せば」、これは実際殺したのだ。劉宋の朝の読曲歌にも〈打ち殺す長鳴き鶏、弾じ去る烏臼うきゅうの鳥〉。『遊仙窟』には〈憎むべし病鵲びょうじゃく夜半人を驚かす、薄媚はくびの狂鶏三更暁を唱う〉。呉の陸※(「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28)りくきの『毛詩草木虫魚疏』下に、〈鶴常に夜半に鳴く〉。『淮南子えなんじ』またいう、〈鶏はまさに旦あけんとするを知り、鶴は夜半を知る、その鳴高亮こうりょう、八、九里に聞ゆ、雌は声やや下る、今呉人園囿えんゆう中および士大夫家の皆これを養う、鶏鳴く時また鳴く〉と見ゆれば、鶏と等しく鶴も時を報ずるにや。それから例の「待つ宵に更ふけ行く鐘の声聞けば、飽かぬ別れの鳥は物かは」に因ちなんで、『新増犬筑波』に、「今朝のお汁の鳥はものかは」「何処いずこにも飽かぬは鰈かれいの膾なますにて」「これなる皿は誉ほめる人なし」とは面白く作ったものだ。※(「广+諛のつくり」、第3水準1-84-13)肩吾ゆけんごの冬暁の詩に、〈隣鶏の声すでに伝わり、愁人ついに眠らず〉。楊用脩の継室黄氏夫に寄する詩に、〈相聞空しく刀環の約あり、何いつの日か金鶏夜郎に下らん〉、李廓の鶏鳴曲に、〈星稀に月没して五更に入る、膠々こうこう角々鶏初めて鳴く、征人馬を牽いて出でて門立つ、妾を辞して安西に向いて行かんと欲す、再び鳴きて頸を引く簷頭えんとうの下、月中の角声馬に上るを催す、わずかに地色を分ち第三鳴、旌旆せいはい紅塵こうじんすでに城を出いづ、婦人城に上りて乱に手を招く、夫婿聞かず遥かに哭する声、長く恨む鶏鳴別時の苦、遣らず鶏棲窓戸に近きを〉。支那にも鶏に寄せて閨情を叙のべたのが少なくない。余一切経を通覧せしも、男女が鶏のつれなさを恨んだインドの記事を一つも見なんだ。欧州にも少ないらしい。日本に至っては逢うて別るる記述毎つねに鶏が引き合いに出る。『男色大鑑』八に芝居若衆峰の小曝こざらし闘鶏を「三十七羽すぐりてこれを庭籠にわこに入れさせ、天晴あっぱれ、この鶏に勝まさりしはあらじと自慢の夕より、憎からぬ人の尋ねたまい、いつよりはしめやかに床の内の首尾気遣いしたまい、明方より前に八やつの鐘ならば夢を惜しまじ、知らせよなど勝手の者に仰せつけるに、勤めながら誠を語る夜は明けやすく、長蝋燭の立つ事はやく、鐘の撞つき出し気の毒、太夫余の事に紛らわせども、大臣おとど耳を澄まし、八つ九つの争い、形付かぬ内に三十七羽の大鶏、声々に響き渡れば、申さぬ事かと起ち別れて客は不断の忍び駕籠かごを急がせける、名残なごりを惜しむに是非もなく、涙に明くるを俟まちかね、己おのれら恋の邪魔をなすは由なしとて、一羽も残さず追い払いぬ。これなどは更にわけの若衆の思い入れにはあらず、情を懸けし甲斐こそあれ」とは、西洋で石田を耕すに比べられ、『四季物語』に「妹脊いもせの道は云々、この一つのほかの色はただ盛りも久しからず、契りの深かるべくもあらぬ事なるを、いい知らずもすける愛なき云々、幼き心つからは何かは思わん。互いに色に染み、情にめでてこそこの道迷いは重くも深くもあるべし。ただ何となき児姿ちごすがたをこそいえ心はただなおにこそ思わめ」と譏そしられた男子同性愛も、事昂こうずればいわゆるわけの若衆さえ、婦女同然の情緒を発揮して、別れを恨んで多数高価の鶏を放つに至ったのだ。わが国でこの類の最も古いらしい伝説は、神代に事代主命ことしろぬしのみこと小舟で毎夜中海なかうみを渡り、楫屋いや村なる美保津姫みほつひめに通うに、鶏が暁を告ぐるを聞いて帰られた。一夜、鶏が誤って夜半に鳴き、命みこと、周章舟を出したが櫓ろを置き忘れ、拠よんどころなく手で水を掻いて帰る内、鰐わにに手を噬かまれた。因って命と姫を祀まつれる出雲の美保姫社辺で鶏を飼わず。参詣者は鶏卵を食えば罰が中あたるとて食わぬ(『郷土研究』一巻二号、清水兵三氏報)。
『秋斎間語』二に「尾州一の宮の神主かんぬし、代々鶏卵を食せず云々、素戔嗚尊すさのおのみことの烏の字を鳥に書きたる本を見しよりなり。熱田には筍たけのこを食わず、日本武尊やまとたけるのみことにて座まします故となん云々。さいえば天下の神人はすべて紙は穢れたる事に使うまじきや。また、津島の神主氷室氏、絵えがくに膠にかわの入りたる墨を使わず、筆の毛は忌まざるにや」。もっともな言い分ながら鶏卵を食わぬには古く理由があっただろう。鶏がきぬぎぬの別れを急がして悪にくまるるほかに、早く鳴いて、鬼神や人の作業を中止せしめた多くの噺はなしは別に出し置いたから御覧下さい。
 仏経に見る鶏の輪廻譚りんねばなしを少し出そう。仏が王舎城にあった時、南方の壮士、力千夫せんぷに敵するあって、この城に来るを影勝王が大将とす。五百賊を討つに独り進んで戦い百人を射、余りの四百人に向い、汝ら前すすんで無駄死にをするな、傷ついた者の矢を抜いて死ぬるか生きるかを見よと言うた。諸賊射られた輩の矢を抜くと皆死んだので、かかる弓術の達者にとても叶わぬと暁さとり、一同降参した。大将これを愍あわれみ、そこに新城を築き諸人を集め住ませ曠野城と名づけた。城民規則を設け、婚礼の度たびごとにこの大将を馳走し、次に自分ら飲宴するとした。時に極めて貧しい者あって、妻を娶るに大将を招待すべき資力なし。種々思案の末、酒肴の代りにわがいまだ触れざる新妻を大将の御慰みに供え、その後始めて自宅へ引き取った。爾後、恒例となって諸人妻を迎うるごとに大将に手折たおらせたとあるが、これは事の起源を説かんためかかる噺をこじ付けたので、拙文「千人切りの話」に論じた通り、一八八一年フライブルヒ・イム・ブライスガウ板、カール・シュミット著『初婚夜権』等を参するに、インド、クルジスタン、アンダマン島、カンボジヤ、チャンパ、マラッカ、マリヤナ島、アフリカおよび南北米のある部に、もとよりかかる風習があったので、インドで西暦紀元頃ヴァチヤ梵士作『愛天経』七篇二章は全く王者が臣民の妻娘を懐柔する方法を説く。その末段にいわく、アンドラの王は臣民の新婦を最初に賞翫しょうがんする権利あり。ヴァツアグルマ民の俗、大臣の妻、夜間、王に奉仕す。ヴァイダルブハ民は王に忠誠を表せんとて一月間その子婦を王の閨房に納いる。スラシュトラ民の妻は王の御意に随い、独りまた伴うてその内宮に詣いたるを常とすと。欧州には古ローマの諸帝、わが国の師直もろなお、秀吉と同じく(『塵塚物語』五、『常山紀談』細川忠興ただおき妻義死の条、山路愛山の『後編豊太閤』二九一頁参照)、毎度臣下の妻を招きてこれを濫したというから、中にはアンドラ王同様の事を行うたも少なからじ。降くだって中世紀に及び、諸国の王侯に処女権あり。人が新婦を迎うれば初めの一夜、また数夜、その領主に侍はべらしめねば夫の手に入らぬのだ。例せばスコットランドでは十一世紀に、マルコルム三世、この風を発せしが、仏国などでは股権とて十七世紀まで幾分存した。この名は君主が長靴穿うがった一脚を新婦の臥牀ねどこに入れ、手鎗を以て疲るるまで坐り込み、君主去るまで夫が新婦の寝室に入り得なんだから出た。夫この恥を免れんため税を払い、あるいは傭役ようえきに出で、甚だしきは暴動を起し、稀には「義経は母を」何とかの唄通りで特種の返報をした。仏国ブリヴ邑むらの若侍、その領主が自分の新婦に処女権を行うに乗じて、自らまた領主の艶妻を訪い、通夜してこれに領主の体格不似合の大男児を産ませた椿事ちんじあり。かかる事よりこの弊風ついに亡びた(一八一九年板コラン・ド・ブランシーの『封建事彙』一巻一七三頁)。仏国アミアンの僧正は領内の新婦にこの事を行うを例としたが、新夫どもの苦情しきりなるより、十五世紀の初めに廃止したというに、尾佐竹猛おさたけたけき君の来示に、今もメキシコで僧がこの権を振う所ある由。『大英百科全書』十一板、十五巻五九三頁に、紀元三九八年カルタゴの耶蘇徒に新婚の夜、かの事を差し控えよと制したが後には三夜まで引き伸ばした。さて、欧州封建時代の領主は臣下の婚礼に罰金を課したから、この二事を混じて中古処女権てふ制法が定まりいたと信ずるに至ったのだとある。しかし上述通り欧州外にもこの風行われた地多ければ、制法として定まりおらずとも、暴力これ貴んだ中古の初め、欧州にこの風行われたは疑いを容いれず。『後漢書』南蛮伝に交趾の西に人を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)くらう国あり云々、妻を娶って美なる時はその兄に譲る。今烏滸おこ人これなり。阿呆を烏滸という起りとか。明和八年板、増舎大梁の『当世傾城気質』四に、藤屋伊左衛門諸国で見た奇俗を述べる内に「振舞膳ふるまいぜんの後のち我女房を客人と云々」これらは新婦と限らぬようだが、余ら幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋ありがたや連、厚く財を献じてお抱寝だきねと称し、門跡の寝室近く妙齢の生娘きむすめを臥せさせもらい、以て光彩門戸もんこに生ずと大悦びした。また、勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素してもらい、米、酒、および桃紅色の褌ふんどしを礼に遣わした。『中陵漫録』十一にいわく、羽州米沢の荻村では媒人が女の方に行きてその女を受け取り、わが家に置く事三夜にして、餅を円く作って百八個、媒が負うて女を連れ往き婚礼を調ととのうと。ローマの議院でシーザーに一切ローマ婦人と親しむ権力を附くべきや否やを真面目まじめに論じた例あり。スコットランドでは中古牛を以て処女権を償うに、女の門地の高下に従うて相場異なり、民の娘は二牛、士の娘は三牛、太夫の娘は十二牛などだ。イングランドはこれに異なり民の娘のみこの恥を受けた(ブラットンの『ノート・ブック』巻二六)。藤沢君の『伝説』信濃巻に百姓の貢米ぐまいを責められて果す事が出来ないと、領主は百姓の家族の内より、妻なり、娘なりかまわず、貢米賃というて連れ来って慰んだ由見える。これも苛税をはたす奇抜な法じゃ。
 処女権の話に夢中になってツイ失礼しました。さて、曠野城の大将の恒例として、城内の人が新婦を娶るごとに処女権を振り廻す。ある時一女子あって人に嫁せんとするに臨み、そもそもこの城の人々こそ怪けしからね、自分妻を迎うるとてはまず他人の自由にせしむ、何とかしてこの事を絶ちたいと左思右考の末、白昼衆人中に裸で立ち小便した。立ち小便については別に諸方の例を挙げ置いたが(立小便と蹲踞そんこ小便)、その後見出でたは、慶安元年板『千句独吟之俳諧』に「佐保姫ごぜや前すゑて立つ」、「余寒にはしばしはしゝを怺こらへかね」、まずこれが日本で女人立ち尿いばりの最古の文献だ。ずっと前に源俊頼としよりの『散木奇歌集さんぼくきかしゅう』九に、内わたりに夜更けてあるきけるに、形かたちよしといわれける人の打ち解けてしとしけるを聞きて咳しわぶきをしたりければ恥じて入りにけり、またの日遣わしける「形こそ人にすぐれめ何となくしとする事もをかしかりけり」。打ち解けて人に聞かるるほど垂れ流したのだから、これは宮女立ち小便の証拠らしくもある。それはさて置き、曠野城の嫁入り前の女子が昼間稠人ちゅうじん中で裸で立ち尿をした空前の手際に、仰天して一同これを咎とがめると、女平気で答うらく、この国民はすべて意気地なしで女同然だ。而して将軍独りが男子で婚前の諸女を弄もてあそぶ。われら女人は将軍の前でこそ裸で小便がなるものか、だが汝ら女同前の輩の前で立ち小便しても何の恥かあるべきと。衆人これを聴いて大いに慙はじ入り、会飲の後のち将軍を取り囲みその舎を焼かんとす。いわく婦女嫁入り前に必ずすべて汝に辱しめらるるはどうも堪忍かんにんならぬ故、汝を焼き殺すべしと。将軍それは無体だ、我辞退したのを汝ら強いて勧めたではないかと、諸人聴き入れず何に致せ焼けて焼けて辛抱が仕切れぬからという事で焼き殺ししまった。ところがこの将軍殺さるる三日前に、仏の大弟子目連もくれんと、舎利弗しゃりほつ、およびその五百弟子を供養した功徳で大力鬼神となり、大疫気を放ち無数の人を殺す。城民弱り入り、林中に行きて懺謝し、毎日一人を送って彼に食わせる事に定め、一同鬮引くじびきして当った者の門上に標札を掲げ、家主も男女も中あたったら最後食われに往かしめた。かく次第してついに須抜陀羅長者すばつだらちょうじゃの男児が食わるる番に中った。長者何とも情けない。如来にょらい我子を救えと念ずると、仏すなわち来て鬼神殿中に坐った。鬼神、仏に去れというと仏出で去る。鬼、宮に入れば、仏、また還り、入る事三度して四度目に仏出でず、鬼神怒って出でずんば汝の脚を捉え、恒河ごうが裏に擲なげ込むべしというに、仏いわく、梵天様でも天魔でも我を擲なげうつ力はないと。鬼神ちとヘコタレ気味で四つの問いを掛けた。誰か能く駛はやい流れを渡る、誰か能く大海を渡る、誰か能く諸苦を捨つる、誰か能く清浄を得るぞと。仏それは御茶の子だ、信能く駛流しりゅうを渡り、放逸ならぬ者能く大海を渡り、精進能く苦を抜き、智慧能く清浄を得と答うると、鬼神さもあろう、それもそうよのうと感心して仏弟子となり、手に長者の男児を捉えて仏の鉢中に入れた、曠野鬼神の手から救われ返った故この児を曠野手と名づけ王となる。仏と問答してたちまち悟り、病死して無熱天に生まれた。仏いわく、過去に一城の王好んで肉を食らう。時に王に求むる所ある者、鶏を献じ、王これを厨人ちゅうじんに渡し汁に焚たかしめた。かの鶏を献じた人、もとより慈心あり、鶏の罪なくして殺さるるを哀しみ、厨人よりこれを償い放ち、この王の悪業願わくは報いを受くるなかれ、我来世厄難に遭あう時、えらい大師が来って救いたまえと念じた。その鶏を献じた者が今の曠野手王に生まれ、昔の願力に由ってこの厄難を免れたと。この話自身は余りゾッとせぬ(『根本説一切有部毘那耶こんぽんせついっさいうぶびなや』四七、『雑宝蔵経』七参酌)。明の永楽十五年に成った『神僧伝』九にいわく、嘉か州の僧、常羅漢は異人で、好んで人に勧めて羅漢斎を設けしめたからこの名を得、楊氏の婆、鶏を好み食い、幾千万殺したか知れず、死後家人が道士を招いて※(「酉+焦」、第4水準2-90-41)祭しょうさいする所へこの僧来り、婆の子に向い、われ汝のために懺悔してやろうという。楊家甚だ喜び、延ひき入れると、僧その僕に街東第幾家に往って、花雌鶏一隻を買い来らしめ、殺し煮て肉を折きり、盤に満て霊前に分置し、その余りを食い、挨拶なしに去った。この夕、鶏を売った家と楊氏とことごとく夢みたは、楊婆来り謝して、存生ぞんじょう時の罪業に責められ、鶏と生まれ変り苦しむところを、常羅漢悔謝の賜ものに頼よりて解脱したと言うと、これより郡人仏事をなすごとにこの僧が来れば冥助を得るとしたと。
 坊主が自分の好く物を鱈腹たらふく頬張って得脱させやったと称えた例は、本邦またこれある。『宇治拾遺』に永超僧都そうずは魚なければ食事せず、在京久しき間魚食わず、弱って南都に下る途上、その弟子魚を乞い得て薦すすめた。魚の主、後に鬼がその辺の諸家に印し付くるに我家のみ付けず、鬼に問うとかの僧都に魚を奉った故印し除くというと夢みた。その年この村疫病で人多く死んだが、この家のみ免れ、僧都の許もとへ参り告げると被物かむりもの一重ひとかさねくれたとある。『古今著聞集』に、伊勢の海浜で採れた蛤はまぐりを東大寺の上人が買って放ちやると、その夜の夢に蛤多く集まりて、大神宮の前に進まいりて得脱するはずだったに、入らぬ世話して苦を重ねしめられたと歎いたと記す。夢に立会人がないからアテにならず、まずは自分が食いたさにこんな事を触れ散らしたのだろう。それよりも豪いのはインドで、女人その身を僧に施すを功徳と信じた。『解脱戒本経』に、もし比丘びく、女人の前において自ら身を讃め、姉妹我ら戒を持し善く梵行を修す、まさに婬慾を以て供養すべし、この法は供養最も第一と言わば、僧伽婆そうがば尸沙罪ししゃざいたりという。その風を伝えたものか、『西域見聞録』五にズルガルを記して、〈最も喇嘛ラマを重んず云々、遥かにこれを見ればすなわち冠を免ぬぎて叩著こうちょす、喇嘛手にてその頂を摩し、すなわち勝れてこれを抃舞べんぶす、女を生めば美麗なるを択びてこれを喇嘛に進むるに至る、少婦疾病あるに遇えば、すなわち喇嘛と歇宿けっしゅくせんことを求む、年を経へ月を累ね、而して父母本夫と忻慰きんいす、もしあるいは病危うければ本夫をして領出せしめ、ただその婦の薄福を歎ずるのみ〉。前述一向宗徒が門跡様をありがたがったごとし。ジュボアの『印度の風俗習慣および礼儀』二巻六〇九頁等に、梵士が神の妻にするとて美婦を望むに、親や夫が悦んでこれを奉り、梵士の慰み物としてその寺に納いれる由を記す。
 男女が逢瀬の短きを恨んで鶏を殺す和漢の例を上に挙げたが、それと打って異かわった理由から鶏を殺す話がイタリアにある。貧しい少女が独り野に遊んで、ラムピオン(ホタルブクロの一種で根が食える)を抜くと、階段が見える。歩み下ると精魅の宮殿に到り、精魅らかの少女を愛する事限りなし。それより母の許へ帰らんと望むに、許され帰る。その後、夜々形は見えずに噪さわぐ者あるので、母に告げると、蝋燭を点ともして見出せという。次の夜、蝋燭点して見ると、玉のごとき美少年胸に鏡を著つけたるが眠り居る。その次の夜もかくして見るとて、誤ってその鏡に蝋を落し、少年たちまち覚めて汝はここを去らざるべからずと歎き叫んだ。少女すなわち去らんとする時、精魅現われて糸の毬まりを与え、最も高い山頂に上ってこの毬を下し、小手巻きの延のび行く方へ随い行けと教え、その通りにして一城下に達するに、王子失せたという事で城民皆喪服しいた。たまたま母后窓よりこの女を見、呼び入れた。その後この女愛らしい男児を生むと、毎夜靴を作る男ありて「眠れ眠れわが子、汝をわが子と知った日にゃ、汝の母は金の揺籃ゆりかごと金の著物きもので汝を大事に育つだろ、眠れ眠れわが子」と唄うた。女、母后に告げたはこの男こそこのほど姿を晦くらましたという王子で、王子に見知られずに日が出るまで王宮に還らぬはずだと、母后すなわち城下の鶏を殺し尽くし、一切の窓を黒絽ろで覆い、その上に金剛石を散らし掛けしめ、日出るも見知らずまだ夜中と思わせた。かくて王子は少女と婚し、目出たく添い遂げたそうだ。

 イタリア人ジォヴァンニ・バッチスタ・バシレの『イル・ペンタメロネ』の四巻一譚に、ミネカニエロ翁雄鶏を飼う。金入用に及び、これを術士二人に売る。彼ら鶏を持ち去るとて、この鶏の体内に石あり。それを指環に嵌はめて佩おぶれば、欲しいと思う物ことごとく得べしと語る。ミネカニエロこれを聞いてその鶏を盗み、殺して石を取り、青年に若返り、金銀荘厳の宮殿に住む。術士化け来って、その指環を衒かたり取ると、ミネカニエロまた老人となり、指環を取り戻さんと鼠が住む深穴国に至る。鼠ども術士の指を咬かんで環をミ翁に復かえす。ミ翁また若返り、二術士を二驢ろに化し、自らその一に騎のり、後のち山より投下す。今一の驢に豕脂ししを負わせ、報酬として鼠どもに贈るとある。鶏石(ラテン名ラピルス・アレクトリウス)は鶏の体内にある小石で、豆ほど大きく、水晶の質でこれを佩ぶれば姙婦に宜よろしく、また人をして勇ならしむ。クロトナのミロンは鶏石のおかげで大勇士となった由。一六四八年ボノニア板、アルドロヴァンズスの『ムセウム・メタリクム』四巻五八章に、この石の記載あるが諸説一定せず、蚕豆そらまめ状とも三角形ともいう。佩ぶれば姙婦に宜しという石どもについては、余未刊の著『燕石考』に詳述したが、その一部分を「孕石はらみいしの事」と題して出し置いた。

 欧州で中古盛んに読まれた教訓書『ゲスタ・ロマノルム』一三九譚に、アレキサンダー王大軍を率いある城を囲むに、将士多く創きずを蒙こうむらずに死す。王怪しんで学者を集め問うに、皆いわく、これ驚くに足らず。この城壁上に一のバシリスクあり、この物睨にらめば疫毒あって兵士を殺すと答う。王どうしてこれを防ぐべきと尋ねると、王の軍勢と彼の居る壁との間の高い所に鏡を立てよ。バシリスクの眼力鏡より反射して彼自身を殺すはずという。由ってかくしてこれを平らげたと見ゆ。バシリスク一名コッカトリセは、蛇また蟾蜍ひきが雄鶏が産んだ卵を伏せ孵かえして生じ、蛇形で翼と脚あり、鶏冠を戴いただくとも、八足または十二足を具え、鈎かぎごとく曲った嘴くちばしありとも、また単に白点を頂にせる蛇王だともいう。雄鶏が卵を生む例はたまたまあって余も一つ持ち居る。つまり蛇や蟾蜍の毒気を雄鶏の生んだ卵が感受して、この大毒物を成すと信じたので、やや似た例は支那説に雉と蛇が交わりて蜃おおはまぐりを生む。蛇に似て大きく、腰以下の鱗うろこことごとく逆生す。能く気を吐いて楼台を成す。高鳥、飛び疲れ、就ついて息やすみに来るを吸い食う。いわゆる蜃楼しんろうだという。一説に正月に、蛇、雉と交わり生んだ卵が雷に逢うと、数丈深く土に入って蛇形となり、二、三百年経て能く飛び昇る。卵、土に入らずば、ただ雉となると(『淵鑑類函』四三八、『本草綱目』四三)、サー・トマス・ブラウン説に、古エジプトの俗信に、桃花鳥ときは蛇を常食とするため、時々卵に異状を起し、蛇状の子を生む。因って土人は力つとめてその卵を破り、また卵を伏せるを許さずと。ヒエロム尊者説に、これは古エジプト人が崇拝した桃花鳥でなく、やや悪性の黒桃花鳥だと。
 さて、バシリスクが諸動物および人を睨めば、その毒に中って死せざる者なく、諸植物もことごとく凋しぼみ枯る。ただ雄鶏を畏おそれその声を聞けば、たちまち死す。故にこの物棲むてふ地を旅する者、必ず雄鶏を携えた。鼬いたちと芸香るうだもまたその害を受けず。鼬これと闘うて咬まれたら芸香を以てその毒を治し、また闘うてこれを殪たおす。古人これを猟とった唯一の法は、毎人鏡を持ちて立ち向うに、バシリスクの眼毒が鏡のためにその身に返り、自業自得でやにわに斃たおれたのだ。一説にこの物まず人を睨めば、人死すれど、人がまずこの物を見れば害を受けずと。さればドライデンの詩にも「禍難はコッカトリセの眼に異ならず、禍難まず見れば人死に、人まず見れば禍難亡ぶ」とよんだ(ブラウンの『俗説弁惑』ボーンス文庫本一巻七章および註。『大英百科全書』十一板六巻六二二頁。ハズリット『諸信および俚俗』一巻一三二頁)。一八七〇年板、スコッファーンの、『科学俚伝落葉集』三四二頁已下に、バシリスク譚は随分古く、『聖書』既にその前を記し、ギリシア・ローマの人々はこれを蛇中の王で、一たび嘯うそぶけば諸蛇這はい去るというた。中世に及んで多少鶏に似たものとなりしが、なお蛇王の質を失わで冠を戴くとされた。最後には劇毒ある蟾蜍ひきの一種と変った。初めはアフリカの炎天下に棲すんで他の諸動物を睨み殺し、淋しき沙漠を独占すといわれたが、後には、井や、鉱穴や、墓下におり、たまたま入り来る人畜を睨み殪すと信ぜられた。すべて人間は全くの啌うそはなく、インドのモンネース獣は帽蛇コブラと闘うに、ある草を以てその毒を制し、これを殺すという。それから鼬が芸香るうだを以てバシリスクを平らげるといい出したのだ。また深い穴に毎いつも毒ガス充みちいて入り来る人を殺す。それを不思議がる余り、バシリスクの所為と信じたのだと説いたは道理ありというべし。一八六五年板、シーフィールドの『夢の文献および奇事』二巻附録夢占字典にいわく、女がバシリスクを産むと男が夢みればその男に不吉だが、女がかかる夢を見れば大吉で、その女富み栄え衆人に愛され為なすところ成就せざるなしと。
 十六世紀のバイエルン人、ウルリッヒ・シュミットの『ラプラタ征服記』のドミンゲズの英訳四三頁に当時のドイツ人信じたは、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)わにの息いき人に掛かれば人必ず死す。また、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)、井中にあるを殺すには、鏡を示して自らその顔の獰悪どうあくなるに懼おそれ死にせしむるほかの手なしと。されど我自ら三千以上の※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)を食いて、少しも害なかったと述ぶ。これはコッカトリセと※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)を混じたようだが、本もとコッカトリセなる語はクロコジル(※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55))と同源より生じ、後コク(雄鶏)と音近きより混じて、雄鶏の卵より生まるる怪物とされたのだから(ウェブストルの大字書、コッカトリセの条)、シュミットの見解かえって正し、熊楠由って惟おもうに、バシリスクが自分の影を見て死する語ものがたりは、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)の顔至って醜きより生じたのであろう。ジェームス・ローの『回教伝説』に、帝釈たいしゃくの天宮に住む天人、名はノルテオクが天帝の園に花を採る若い天女に非望を懐いだいた罰として、天帝を拝みに来る諸天神の足を浄める役にされたが、追々諸神の気に入ってついに誰でも指さして殺す力を得た。それからちゅうものは、少しく癪しゃくに触さわる者あればすなわち指さして殺すので、天帝すこぶる逆鱗あり、ヴィシュニュの前身フラ・ナライ(那羅延)に勅して彼を誅ちゅうせしむと来た。ナライ小碓皇子おうすおうじの故智を倣ならい、花恥ずかしき美女に化けて往くと、ノンテオクたちまち惚ほれて思いのありたけ掻かき口説くどく。あなたは舞の上手と聞く、一さし舞って見せられた上の事と、特種の舞を所望した。その舞を演ずるに舞人しばしば食指で自分を指さす定めだが、ノンテオクはナライの色に迷うて身を忘れ、舞を始めて自ら指さすや否や、やにわに死んだが、その霊地に堕ちて夜叉やしゃとなり、それから転生してランカ島の十頭鬼王となった(大正九年のこと別項「猴の話」)。勢力強大にして天威を怖れず、また天上に昇って天女を犯さんと望み、押し強くも帝釈宮の門まで往ったが堅く闔とざされてヤモリが一疋番しおり、この金剛石門は秘密の呪言で閉じられいるから入る事は叶かなわぬと語る。鬼王あるいは諛へつらい、あるいは脅してとうとうヤモリから秘を聞き、一度唱えると天門たちまち大いに開け鬼王帝釈に化けて宮中に入る。その時、帝釈、天帝に謁せんとカイラス天山に趣く、留守の天女ども、鬼王が化けたと知らず、帝釈帰ったと思うて至誠奉仕し、鬼王歓を尽くして地に還る。真の帝釈、宮に帰って窓より鬼王が望みを果して地に還れるを見、大いに怒ってヤモリに向い、今後一定時に小さい緑色の虫汝の体に入り、心肝二臓を啖くらうぞと言うたので、ヤモリはいつもさような苦しみを受くる事となった。かくて帝釈は、天女どもを鬼王に犯されたと思うと焼けてならず、天帝に訴える。そこで天帝、帝釈の魂を二分し、一を天上に留め、他の一を地に下して、羅摩と生まれて、ランカを攻めて鬼王を誅せしめたとあるが、これはラーマ王物語を回教徒が聞き誤った一異伝で、果してこの通りだったら、羅摩は前生帝釈たりし時、妃妾を鬼王に犯され、その敵討かたきうちに人界に生まれて、またその后シタを鬼王に奪われ、色事上返り討ちに逢ったヘゲタレ漢たるを免れぬ。件くだんのヤモリはその鳴き声に因ってインドでトケー、インドシナでトッケと呼ばる。わが邦で蜥蜴をトカゲというに偶然似て居る。また支那でヤモリを守宮というは、件くだんの『回教伝説』にヤモリ帝釈宮門を守るというに符合する。この属の物は多く門や壁を這うからどこでも似た名を付けるのじゃ。それに張華が、蜥蜴、あるいは※(「虫+偃のつくり」、第4水準2-87-63)蜒えんていと名づく。器を以て養うに朱砂を以てすれば体ことごとく赤し、食うところ七斤に満ちて、始め擣つくこと万杵しょにして女の支体に点ずれば、終年滅せず、ただ房室の事あればすなわち滅す(宮女を守る)。故に守宮と号す。伝えいう東方朔、漢の武帝に語り、これを試むるに験あり(『博物志』四)といえるは、蚤はやく守宮の名あるについて、かかる解釈を捏造ねつぞうしたのだ。
『夫木抄』に「ぬぐ沓くつの重なる上に重なるはゐもりの印しかひやなからん」。『俊頼口伝集』下に「忘るなよ田長たおさに付きし虫の色ののきなば人の如何いかに答へん」「ぬぐ沓の重なる事の重なれば井守の印し今はあらじな」「のかぬとも我塗り替へん唐土もろこしの井守も守る限りこそあれ」中略、脱ぐ沓の重なると読めるは女の密ひそかに男の辺ほとりに寄る時ははきたる沓を脱げば、自ずから重なりて脱ぎ置かるるなりというた。この最後の歌はかつて(別項「蛇の話」の初項)論じた婬婦の体に、驢や、羊や、馬や、蓮花を画き置きしを、姦夫が幹事後描き替えた笑談と同意だ。右の歌どもはヤモリと井守を取り違えおれど、全く唐土の伝説を詠んだものだ。
 さて、『回教伝説』にノルテオクが指させば人を殺し得るその指で自分を指さして死んだというのが、バシリスク自分の影に殺さる譚に酷似する。も一つこれに似たのは、古ギリシアのメズサの話で、そもそも醜女怪ステノ、エウリアレ、メズサの三姉妹をゴルゴネスと併称す。可怖おそるべし、また高吼の義という。翼生えた若い極醜女で、髪も帯も、蛇で、顔円く、鼻扁ひらたく、出歯大きく、頭を揚げ、舌を垂れ振るう。あるいはいう、金の翼、真鍮の爪、猪の牙ありと。余り怖ろしい顔故これを見る人即座に石となる。西大洋の最も遠き浜で、夜の国に近い所に住むとも、リヴィアすなわち北アフリカに居るともいわれた。一説にメズサもと美麗な室女だったが、海神ポセイドンとアテナ女神の堂内で婬し、涜けがした罰でその髪を蛇にされたと、ゴルゴネス三姉妹の同胞になおグライアイ(灰色髪女)三姉妹あり、髪が灰色になった老女で、ただ一つの歯とただ一つの眼を共有し、用ある時は相互譲り使うた。この三姉妹リビアの極端、日も月も見えぬ地に棲み、常にゴルゴネス三姉妹を護った。初めアルゴスの勇士ペルセウス、その母ダナエの腹にあった時、神告げたは、この子生まるれば必ずその母の父アクリシウスを殺さんと、アクリシウスすなわち母子を木箱に納いれ、海に投げたが、セリフス島に漂到して、漁師ジクッスの網に罹かかり、救われ、懇ねんごろに養わる。ジクッスの弟ポリデクテス、この島の王たり。ダナエを一度瞥見してより、花の色はここにこそあれ、願わくは鄒子すうしが律を吹いて、幽谷陽春を発せんと、雨夜風日熱心やまず、しかるにどうもダナエを靡なびけるにはその子が邪魔になるから、宴席でペルセウスを激して、王のためには何なりともすべし、怖るべき女怪メズサの首でも取り来るを辞せずと誓わしめたので、ペルセウスいよいよこの冒験事業を成し遂げんと出立したとあって、この時ペルセウスは既に小児でなく、立派な青年勇士となり居る。さように久しい間王がダナエを口説き廻ったとも思われず。惟うに『八犬伝』の犬江親兵衛同様の神護で、ペルセウスは一足飛びに大きく成長したでがなあろう。女神アテナ、かつてメズサがかく醜くならぬ内、己れと艶容を争いし事あるに快からず、因ってメズサの像をペルセウスに示し、その姉妹を打ちやり、単にメズサのみ殺せと教う。それよりペルセウス灰色髪女を訪い、そのただ一つある歯と眼を奪い、迫って三醜女怪方への道を聞き取り、また翅つばさある草履と、魔法袋と冥界王ハデースの兜かぶとを得、これを冒かぶると自分全体が他人に見えなくなる。そこへヘルメス神が鎌状の鋭刀をくれに来た。これらの道具で身を固めて大洋浜に飛び行くと、女怪ども睡りいた。女性に立ち向うて睨まると石になるから大いに困る所へ、アテナ女神現われ、その楯たての鏡に映った女怪の影を顧み見ると同時に、女神の手でペルセウスの刀持った手を持ち添え、見事にメズサを刎くびはねた。死んだ首を見ても石になるから、一切見ずに魔法袋へ投げ込み、翅ある草履で飛び還るを、残る二女怪追えどもいかでか及ばん。メズサの首はアテナに渡り、その楯に嵌はめ置かる。後アテナ、勇士ヘラクレスにメズサの前髪を与う。テゲアの地、敵に攻められた時、その王女ステロペ、ヘラクレスの訓おしえにより、自ら後ろ向いてメズサの前髪を敵に向って城壁上に三度さし上げると、敵極めて怖れ、ことごとく潰走したという。前髪さえかくのごとくだから、よほど怖ろしい顔と見える。かくてギリシア人は醜女怪の首を甲冑の前立てとし、楯や胸当てに附け、また門壁の飾りとし、魔除けとしゴルゴネイオン(ゴルゴン頭)と称えた。惟うにバシリスク自影に殺さるる話に、この醜女怪説より融通された部分が多かろう。バシリスクの古い図は只今ちょっと間に合わぬ故、ここに現時バシリスクで学者間に通りいる爬虫の図を出す(第一図)。これは伝説のバシリスクと全く別物で無害の大蜥蜴、長さ三フィートに達し、その色緑と褐で黝くろき横条あり。背と尾に長き鰭ひれあり。雄は頭に赤い冠を戴く。冠も鰭も随意に起伏す。その状畏るべく、その色彩甚だ美し、樹上に棲んで植物のみ食う。驚けば水に入りて能く泳ぐ、メキシコとガチマラ西岸熱地の河岸に多し。その形、よく伝説のバシリスクに似る故、セバ始めてこれを記載し、バシリスク、また飛竜と名づけた。けだしこの人その起伏する長鰭を以て飛び翔かける事、世に伝うるバシリスク、また竜のごとくだろうと察したのだ。バシリスクはギリシア語バシレウス(王)より出た名で、冠を戴いた体がいかにも爬虫類の王者を想わせる(スミスの『希羅人伝神誌字彙』。サイツフェルトの『古典字彙』。『大英百科全書』それぞれの条。ウットの『博物図譜』。ボーンス文庫本ブラウンの『俗説弁惑』バシリスクの条)。

(大正十年五月、『太陽』二七ノ五)

『鶏に関する伝説3』南方熊楠の十二支考

2017-01-03 19:23:00 | 文学・芸術
 
『鶏に関する伝説3』南方熊楠の十二支考

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『甲子夜話』続一七にいわく、ある老人耳聞えず、常に子孫に小言をいう。ある日客ありし時に子供を顧みて物語るは、今時の者はどうも不性なり。我らが若き時はかようにはなしという時、飼い置きし鶏側かたわらより時をつくる。老人いわく、あれ聞きたまえ人ばかりでなし、鶏さえ今時は羽敲はばたきばかりして鳴きはしませぬと。かかる話は毎度繰り返さるるもので、数年前井上馨侯耳聾して、浄瑠璃語りの声段々昔より低くなった、今の鶏もしかりと呟つぶやいたと新紙で読んだ。またいわく、ある侍今日は殊に日和ひよりよしとて田舎へ遊山ゆさんに行き、先にて自然薯じねんじょを貰もらい、僕しもべに持せて還る中途鳶とびに攫つかみ去らる、僕主に告ぐ、油揚あぶらあげならば鳶も取るべきに、薯いもは何にもなるまじと言えば、鳶、樹梢で鳴いてヒイトロロ、ヒイトロロ。一八九一年オックスフォード板、コドリングトンの『ゼ・メラネシアンス』に、癩人島の俗譚に十の雛ひなもてる牝鶏が雛をつれて食を求め、ギギンボ(自然薯の一種)を見付けるとその薯根起たち出て一雛を食うた。由って鳶を呼ぶと鳶教えて一同を自分の下に隠す、所へ薯来って、鳶汝は鶏雛の所在を知らぬかと問うに、知らぬと答え、薯怒って鳶を詈ののしる。鳶すなわち飛び下って薯を掴つかみ、空を飛び舞いて地へ堕おとすを、他の鳶が拾うて空を飛び廻ってまた落すと、薯二つに割れた。それを二つの鳶が分ち取ったから薯に味良いのと悪いのがあるようになったというと記す。面白くも何ともない話だが、未開の島民が薯に良し悪しあるを知って、その起因を説くため、かかる話を作り出したは理想力を全然闕如けつじょせぬ証左で、日本とメラネシアほど太いたく距へだたった両地方に、偶然自然薯と鳶の話が各々出で来た。その偶合がちょっと不思議だ。
 鶏を入れた笑談を少し述べると、熊野でよく聞くは、小百姓が耕作終って帰りがけに、烏がアホウクワと鳴くを聞いて、鍬くわを忘れたと気付き、取り帰ってさすがは烏だ、内の鶏なんざあ何の役にも立たぬと誹そしると、鶏憤ってトテコーカアと鳴いたという。『醒睡笑せいすいしょう』二に、若衆あり、念者に向いて、今夜の夢に、鶏のひよこを一つ金にて作り、我に給いたるとみたと語ると、我も只今の夢にそのごとくなる物を参らせると、いやといってお返しあったと見た事よとある。西洋にはシセロ説に寝牀ねどこの下に鶏卵一つ匿かくされあると夢みた人が、判じに往くと、占うて、卵が匿され居ると見た所に財貨あるべしと告げた。由って掘り試むるに、銀あって中に夥しく金を裹つつめり、その銀数片を夢判じにやると、銀より金が欲しい思おぼし召しから、卵黄きみの方も少々戴きたいものだと言うたそうな。一五二五年頃出た『百笑談』てふ英国の逸書に、田舎住居ずまいの富人が、一人子をオックスフォードへ教育にやって、二、三年して学校休みに帰宅した、一夜食事前に、その子、我日常専攻した論理学で、この皿に盛った二鶏の三鶏たるを証拠立つべしというので、父それは見ものだ、やって見よ、と命ずると、その子一手に一鶏を執ってここに一鶏ありといい、次に両手で二鶏を持ってここに二鶏ありといい、一と二を合せば三、故に総計三鶏ありと言うた。その時父自ら一鶏を取り、他の一鶏を妻に与えて、子に向い、一つは余、今一つは汝の母の分とする。第三番めの鶏は汝の論理の手際で汝自ら取って食え、と言ったので、子は夜食せずに済ませた。だから鈍才の者に理窟を習わすは、大いに愚な事と知るべしと出いづ。先頃手に鶏を縛るの力もないくせに、一廉ひとかど労働者の先覚顔して、煽動した因果覿面てきめん、ちょっとした窓の修繕や半里足らずの人力車を頼んでも、不道理極まる高い賃を要求されて始めて驚き、自ら修繕し、自ら牽き走ろうにも力足らず、労働者どもがそんなに威張り出したも誰のおかげだ、義理知らずめと詈っても取り合ってくれず、身から出た銹さびと自分を恨んで、ひもじく月を眺め、膝栗毛ひざくりげを疲らせた者少なくなかったは、右の富人の愚息そのままだ。かく似て非なる者を、仏経には烏骨鶏うこっけいに比した。
 六群比丘びくとて仏弟子ながら、毎いつも戒律を破る六人の僧あり。質帝隷居士、百味の食を作り、清僧を請じ、余り物もてこの六比丘を請ぜしに、油と塩で熬にた魚をくれぬが不足だ。それをくれたら施主が好よき名誉を得ると言うた。居士曰く、過去世に群鶏林中に住み、狸に侵し食われて雌鶏一つ残る。烏来ってこれに交わり一子を生む、その子鶏の声を聞きて父の烏が偈げを説いて言うたは、この児、我が有にあらず、野父と聚落母が共に合いてこの子あり、烏でもなく鶏でもなし、もし父の声を学ばんと欲せば、これ鶏の生むところ、もし母の鳴くを学ばんと欲せば、その父は烏なり。烏を学べば鶏鳴に似、鶏を学べば烏声を作なす。烏鶏二つながら兼ね学べば、これ二つともに成らずと。そのごとく魚を食いたがる貴僧らは俗人でも出家でもないと。仏これを聞いて、この居士は宿命通を以て六群比丘が昔鶏と烏の間の子たりしを見通しかく説いたのじゃと言うた(『摩訶僧祇律まかそうぎりつ』三四)、『沙石集』三に、質多居士は在俗の聖者で、善法比丘てふ腹悪き僧、毎つねにかの家に往って供養を受く、ある時居士遠来の僧を供養するを猜そねみ、今日の供養は山海の珍物を尽されたが、ただなき物は油糟あぶらかすばかりと悪口した。居士油を売って渡世するを譏そしったのだ。そこで居士、只今思い合す事がある、諸国を行商した時、ある国に形は常の鶏のごとく、声は烏のようながあった。烏が鶏に生ませたによって形は母、音は父に似る故烏鶏うけいと名づくと聞いた。貴僧も姿は沙門、語は在家の語なるに付けて、かの烏鶏が思い出さると、やり込められて、善法比丘無言で立ち去ったとある。すべて昔は筆紙乏しく伝習に記憶を専らとした故、かく少しずつ話が変っていったものだ。烏が鶏に生ませた烏鶏とは、烏骨鶏うこっけいだ。色が黒い故かかる説を称えたので、その頃インドに少なかったと見える。ただし烏骨鶏に白いのもあって、大鬼が小鬼群を引きて心腹病を流行はやらせに行く末後の一小鬼を、夏侯弘かこうこうが捉え、問うてその目的を知り、治方を尋ねると、白い烏骨鶏を殺して心しんに当てよと教う。弘これを用いて十に八、九を癒した由(『本草綱目』四八)。
 十六世紀に出たストラパロラの『面白き夜の物語』(ピャツェヴォリ・ノッチ)十三夜二譚は余未見の書、ソツジニが十五世紀に筆した物より採るという。人あり、百姓より閹鶏えんけい数羽を買い、ある法師、その価を払うはずとて伴れて行く。既に法師の所に至り、その人法師に囁ささやき、この田舎者は貴僧に懺悔を聴いてもらうため来たと語り、さて、大声で上人即刻対面さるるぞと言うて出で行く。百姓は鶏代の事を法師に告げくれた事と心得、かの人の去るに任す。所へ法師来たので金を受け取ろうと手を出すと、法師は百姓に、跪ひざまずいて懺悔せよと命じ、自ら十字を画えがき、偈げを誦じゅし始めた。これに似た落語を壮年の頃東京の寄席で聴いたは、さる男、吉原で春を買いて勘定無一文とは兼ねての覚悟、附つけ馬うま男を随えて帰る途上、一計を案じ、知りもせぬ石切屋に入りてその親方に小声で、門口に立ち居る男が新死人の石碑を註文に来たが、町不案内故通事つうじに来てやったと語り、さて両人の間を取り持ち種々応対する。用語いずれも意義二つあって、石切屋には石の事、附け馬には遊興の事とばかり解せられたから、両人相疑わず、一人は急ぐ註文と呑み込んで石碑を切りに掛かれば、一人は石を切り終って揚代あげだいを代償さると心得て竢まつ内、文なし漢は両人承引の上はわれここに用なしと挨拶して去った。久しく掛かり碑を切り終って、互いに料金を要求するに及び、始めて食わされたと分るに及ぶ。その詐欺漢が二人間を通事する辞ことばなかなか旨うまく、故正岡子規、秋山真之など、毎度その真似をやっていたが余は忘れしまった。今もそんな落語が行わるるなら誰か教えてくだされ。
 ストラパロラの件くだんの話にある閹鶏えんけい、伊語でカッポネ、英語でカポンは食用のため肥やさんとて去勢された鶏だ。本篇はキンダマの講釈から口を切って大喝采を博し居るから、閹鶏のついでに今一つキンダマに関する珍談を申そう。一一四七年頃生まれ七十四歳で歿したギラルズスの『イチネラリウム・カムブリエ』に曰くさ、ウェールスのある城主が、一囚人の睾丸と両眼を抜き去って城中に置くに、その人、砦内の込み入りたる階路をことごとくよく記憶し、自在にその諸部に往来す。一日彼城主の唯一の子を捉え、諸の戸を閉じて高き塔頂に上る、城主諸臣と塔下に走り行き、その子を縦ゆるさば望むところを何なりとも叶かなえやろうと言うたが、承知せず、城主自ら睾丸を切り去るにあらずんばたちまちその子を塔上より投下すべしと言い張った。何と宥すすめても聴き入れぬ故、城主しかる上は余儀なしとて、睾丸を切ったような音を立て、同時に自身も諸臣も声高く叫んだ。その時、盲人城主にどこが痛いかと問い、城主腰が烈しく痛むと答えた。盲めくらと思うて人をだまそうとは怪けしからぬと罵って、子を投げそうだから、城主更に臣下して自身を健したたか打たしめると、盲人また今度は一番どこが疼いたいかと問うた。心臓と答うると、いよいよ急ぎ投げそうに見える。ここにおいて父やむをえず、板額はんがくは門破り、荒木又右衛門は関所を破る、常磐御前とここの城主はわが子のために、大事な操と陰嚢ふんぐり破ると、大津絵おおつえどころか痛い目をしてわれとわが手で両丸くり抜いた。さて、今度はどこが一番疼むかと問うに、対こたえて歯がひどく疼むというと、コイツは旨い。本当だ「玉抜いてこそ歯もうずくなれ」。汝は今後世嗣せいしを生む事ならず一生楽しみを享うけ得ぬから、余は満足して死すべしと言いおわらざるに、盲人、城主の子を抱いて塔頭より飛び降り、形も分らぬまで砕け潰れ終った。されば悋気りんき深い女房に折檻せっかんされたあげくの果てに、去勢を要求された場合には、委細承知は仕つかまつれど、鰻やスッポンと事異なり、婦人方の見るべき料理でない。あちらを向いていなさいと彼方を向かせ、卒然変な音を立て高く号さけび、どこが一番疼いと聞かれたら、歯が最も疼むと答うるに限る。孟軻もうかの語に、志士は溝壑こうがくにあるを忘れず、勇士はその元こうべを喪うしなうを忘れずと。余は昨今のごとき騒々しい世にありて、キンダマの保全法くらいは是非嗜たしなみ置かねばならぬと存ずる。
 ベロアル・ド・ヴェルヴィユの『上達方』に、鶏卵の笑談あまたある。その一、二を挙げんに、マーゴーてふ下女、座敷の真中に坐せる主婦に鶏卵一つ進まいらする途中、客人を見て長揖ちょうゆうする刹那、屁をひりたくなり、力つとめて尻をすぼめる余勢に、拳こぶしを握り過ぎて卵を潰し、大いに愕おどろいて手を緩ゆるめると、同時に尻大いに開いて五十サンチの巨砲を轟とどろかしたが、さすがのしたたかもので、客の怪しみ問うに対してツイ豆をたべたものですからといったとある。その頃仏国でも豆は屁を催すと称えたのだ。全体この書は文句麁野そや、下筆また流暢ならず、とても及ぶべくもないが、古今名人大一座で話し合う所を筆記した体に造った点が、馬琴の『昔語質屋庫』にやや似て居る。たとえば医聖ガリアンが、ブロアの一少婦が子を産み、その子女なりと聞いて、女の子は入らぬ元の所へ戻し入れておくれといったは面白いというと、古文家ボッジュが、緬羊児を買いてその尾に山羊児の尾を接ついだというのがあって一層面白いという(ここ脱文ありと見え意義多少分らず)、アスクレピアデスは、牝鶏よく卵を生むと見せるため、その肛門に卵を入れ置いたをある女が買ったが、爾後一向卵を産まなんだと語る所がある。
 西鶴の『一代男』二、「旅の出来心」の条、江尻の宿女せし者の話に「また冬の夜は寝道具を貸すようにして貸さず、庭鳥のとまり竹に湯を仕掛けて、夜深よぶかに鳴かせて夢覚さまさせて追い出し、色々つらく当りぬるその報いいかばかり、今遁のがれてのありがたさよ云々」。この湯仕掛けで鶏を早鳴はやなきせしむる法は中国書にもあったと記憶する。木曾の松本平の倉科くらしな様ちゅう長者が、都へ宝競くらべにとて、あまたの財宝を馬に積んで木曾街道を上り、妻籠つまごの宿に泊った晩、三人の強盗、途中でその宝を奪おうと企て、その中一名は宿屋に入って鶏の足を暖め、夜更よふけに時を作らせて、まだ暗い中に出立させた。長者が馬籠まごめ峠の小路に掛かり、字あざ男垂おたるという所まで来た時、三賊出でて竹槍で突き殺し、宝を奪い去った。その宝の中に黄金の鶏が一つ落ちて、川に流れて男垂の滝壺に入った。今も元旦にその鶏がここで時を作るという。長者の妻、その後のち跡を尋ね来てこの有様を見、悲憤の余りに「粟稗たたれ」と詛のろうた。そのために後日、向山という所大いに崩れ、住民困くるしんで祠ほこらを建て神に祀まつったが、今も倉科様てふ祠ある(『郷土研究』四巻九号五五六頁、林六郎氏報)。阿波の国那賀郡桑野村の富人某方へ六部来て一夜の宿をとった。主人その黄金の鶏と、一寸四方の箱に収まる蚊帳かやを持ちいると聞き、翌朝早く出掛けた六部の跡をつけ、濁りが淵で斬り殺した。鶏は飛び去ったが蚊帳は手に入った。その六部の血で今も淵の水赤く濁る。その家今もむした餅を搗つかず、搗けば必ず餅に血が雑まじるのでひき餅を搗く。蚊帳は現存す(同上一巻二号一一七頁、吉川泰人氏報)。
『甲子夜話』続一三に、ある人曰く、大槻玄沢おおつきげんたくが語りしは、奥州栗原郡三の戸畑村の中に鶏坂というあり。ここより、前さきの頃純金の鶏を掘り出だしける事あり。その故を尋ぬるに、この畑村に、昔炭焼き藤太という者居住す。その家の辺より沙金を拾い得たり。因ってついには富を重ね、故に金を以て鶏形一双を作り、山神を祭り、炭とともに土中に埋む、因ってそこを鶏坂という。これ貞享じょうきょう三年印本『藤太行状』というに載せたりと。また文化十五年四月そこの農夫、沙金を拾わんため山を穿うがちしに、岸の崩れより一双の金鶏を獲たり。重さ百銭目にして、山神の二字を彫り付けあり。この藤太は近衛院の御時の人にて、金商橘次、橘内橘王が父なりと。今もその夫婦の石塔その地にあり云々。『東鑑』〈文治二年八月十六日午の尅こく、西行上人退出す、しきりに抑留すといえども、敢あえてこれにかかわらず、二品にほん(頼朝)銀を以て猫を作り贈物に充あてらる、上人たちまちこれを拝領し、門外において放遊せる嬰児に与う云々〉。因って思うにこの頃の人はかくのごとくに金銀を以て形造の物ありしかと。元魏の朝に、南天竺優禅尼うぜんに国の王子月婆首那が訳出した『僧伽※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)そうがた経』三に、人あり、樹を種ううるに即日芽を生じ、一日にして一由旬の長さに及び、花さき、実る。王自ら種え試みるに、芽も花も生ぜず、大いに怒って諸臣をしてかの人種うえたる樹を斫きらしむるに、一樹を断てば十二樹を生じ、十二樹を切れば二十四樹を生じ、茎葉花果皆七宝なり。爾時そのとき二十四樹変じて、二十四億の鶏鳥、金の嘴、七宝の羽翼なるを生ずという。これもインドで古く金宝もて鶏の像を造る習俗があったらしい。『大清一統志』三〇五、雲南うんなんに、金馬、碧鶏二山あり。『漢書』に宣帝神爵と改元した時、あるいは言う、益州に、金馬、碧鶏の神あり。※(「酉+焦」、第4水準2-90-41)祭しょうさいして致すべしと。ここにおいて諫大夫王褒おうほうを遣わし、節を持ってこれを求めしむと。註に曰く、金形馬に似、碧形鶏に似ると。これも金で馬、碧すなわち紺青こんじょうで鶏を作り、神と崇あがめいたのであろう。本邦にも古く太陽崇拝に聯絡して黄金で鶏を作り祀りしを、後には宝として蔵する風があったらしい。十一年前、余、紀州日高郡上山路村で聞いたは、近村竜神村大字竜神は、古来温泉で著名だが、上に述べた阿波の濁りが淵同様の伝説あり。所の者は秘して語らず。昔熊野詣りの比丘尼びくに一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早もはや暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼怨うらんで永劫えいごうここの男が妻に先立って若死するようと詛のろうて絶命した。そこを比丘尼剥はぎという。その後果して竜神の家毎つねに夫は早世し、後家世帯が通例となる。その尼のために小祠を立て、斎いわい込んだが毎度火災ありて祟たたりやまずと。尼がかく詛うたは、宿主の悪謀を、その妻が諫いさめたというような事があった故であろう。かつて東牟婁郡高池町の素封家、佐藤長右衛門氏を訪たずねた時、船を用意して古座川を上り、有名な一枚岩を見せられた。十二月の厳寒に、多くの人が鳶口とびぐちで筏いかだを引いて水中を歩く辛苦を傷いたみ尋ねると、この働き、烈しく身に障さわり、真砂という地の男子ことごとく五十以下で死するが常だが、故郷離れがたくて、皆々かく渡世すと答えた。竜神に男子の早世多きも何かその理由あり。決して比丘尼の詛いに由らぬはもちろんながら、この辺、昔の熊野街道で色々土人が旅客を困らせた事あったらしく、西鶴の『本朝二十不孝』巻二「旅行の暮の僧にて候そうろう、熊野に娘優しき草の屋」の一章など、小説ながら当時しばしば聞き及んだ事実に拠よったのだろう。その譚はなしにも竜神の伝説同様、旅僧が小判多く持ったとばかり言うて、金作りの鶏と言わず、熊野の咄はなしは東北国のより新しく作られ、その頃既に金製の鶏を宝とする風なかったものか。この竜神の伝説を『現代』へ投じた後数日、『大阪毎日』紙を見ると、その大正九年十二月二十三日分に、竜神の豪家竜神家の嗣子が病名さえ分らぬ煩いで困りおる内、その夫人に催眠術を掛けると俄にわかに「私は甲州の者で、百二十年前夫に死に別れ、悲しさの余り比丘尼になり、世の中に亡夫に似た人はないかと巡礼中、この家に来り泊り、探る内、私の持った大判小判に目がくれ、竜神より上山路村を東へ越す捷径ちかみち、センブ越えを越す途上、私は途中で殺され、面皮を剥いで谷へ投げられ、金は全部取られた。その怨みでこの家へ祟るのである」と血相変えて述べおわって覚めたと出た。それに対して竜神家より正誤申込みが一月十九日分に出た、いわく、百五十年ほど前、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾あとあり云々。これを誤報附会したのでないかと。この竜神氏、当主は余の旧知で、伊達千広(陸奥宗光伯の父)の『竜神出湯日記』に、竜神一族は源三位頼政みなもとのさんみよりまさの五男、和泉守頼氏いずみのかみよりうじこの山中に落ち来てこの奥なる殿垣内とのがいとに隠れ住めり、殿といえるもその故なり。末孫、今に竜神を氏とし、名に政の字を付くと語るに、その古えさえ忍ばれて「桜花本の根ざしを尋ねずば、たゞ深山木みやまぎとみてや過ぎなむ」とあるほどの旧ふるい豪家故、比丘尼を殺し金を奪うはずなく全くの誤報らしいが、また一方にはその土地の一、二人がした悪事が年所を経ても磨滅せず、その土地一汎いっぱんの悪名となり、気の弱い者の脳底に潜在し、時に発作して、他人がした事を自家の先祖がしたごとく附会して、狂語を放つ例も変態心理学の書にしばしば見受ける。
 金製の鶏でなく正物の鶏を宝とした例もある。元魏の朝に漢訳された『付法蔵因縁伝』五に、馬鳴めみょう菩薩華氏城かしじょうに遊行教化せし時、その城におよそ九億人ありて住す。月支げっし国王名は栴檀せんだん※(「罘」の「不」に代えて「厂+(炎+りっとう)」、第4水準2-84-80)昵※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)けいじった、この王、志気雄猛、勇健超世、討伐する所摧靡さいひせざるなし、すなわち四兵を厳にし、華氏城を攻めてこれを帰伏せしめ、すなわち九億金銭を索もとむ。華氏国王、すなわち馬鳴菩薩と、仏鉢ぶつばつと、一の慈心鶏を以て各三億金銭に当て、※(「罘」の「不」に代えて「厂+(炎+りっとう)」、第4水準2-84-80)昵※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)王に献じた。馬鳴菩薩は智慧殊勝で、仏鉢は如来にょらいが持った霊宝たり。かの鶏は慈心あり。虫の住む水を飲まず。ことごとく能く一切の怨敵おんてきを消滅せしむ。この縁を以て九億銭の償金代りに、この三物を出し、月支国王大いに喜んで納受したそうだ。これは実に辻褄の合わぬ噺はなしで、いわゆる慈心鶏が一切の怨敵を消滅せしむる威力あらば、平生厚く飼われた恩返しに、なぜ華氏城王のために奮発して、月支国の軍を打破消滅せしめず、おめおめと償金代りに敵国へ引き渡しを甘んじたものか。
 世間の事、必ず対偶ありで西洋にも似た話あり。十三世紀にコンスタンチノプル帝、ボールドウィン二世、四方より敵に囲まれて究迫至極の時、他国へ売却した諸宝の内に大勝十字架あり、これを押し立て、軍いくさに趨おもむけば必ず大勝利を獲うというたものだが、肝心緊要の場合に間に合わさず、売ってしまったはさっぱり分らぬとジュロールの『巴里パリ記奇』に出いづ。例の支那人が口癖に誇った忠君愛国などもこの伝で、毎々他国へ売却されて他国の用を做なしたと見える。警いましめざるべけんやだ。
 一八九八年、ロンドン板デンネットの『フィオート民俗記』に、一羽の雌鶏が日々食を拾いに川端に之ゆく。ある日※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)わにが近付いて食おうとすると、雌鶏「オー兄弟よ、悪い事するな」と叫ぶに驚き、なぜわれを兄弟というたかと思案しながら去った。他日今度こそきっと食ってやろうと決心してやって来ると、雌鶏また前のごとく叫んだので、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)、またなぜわれを兄弟と呼ぶだろう。我は水に、彼は陸上の町に住むにと訝いぶかり考えて去った。何とも解げせぬから、ンザムビ(大皇女の義で諸動物の母)に尋ねようと歩く途上、ムバムビちゅう大蜥蜴とかげに逢い仔細を語ると、大蜥蜴がいうよう、そんな事を問いに往くと笑われる、全く以て恥暴さらしだ。貴公知らないか、鴨は水に住んで卵を産み鼈すっぽんもわれも同様に卵を産む。雌鶏も汝もまた卵を生めばなんとわれらことごとく兄弟であろうがのとやり込められて、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)は口あんぐり、それより今に至って※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)は雌鶏を食わぬ由、これは西アフリカには※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)がなぜか雌鶏を食わない地方があるので、その訳を解かんとて作られた譚と見える。アラビヤの昔話に、賢い老雄鶏が食を求めて思わず識しらず遠く野外に出で、帰途に迷うて、為なす所を知らず、呆然として立ち居るとただ看る狐一疋近づき来る。たちまち顧みると狐がとても登り得ぬ高い壁が野中に立つ、因って翅つばさを鼓してそれに飛び上り留まる。狐その下に来り上らんとしても上り得ず、種々の好辞もて挨拶すれど、鶏一向応ぜず。ただ眼を円くして遠方を眺める。その時狐が言い出たは、わが兄弟よ、獣の王たる獅子と鳥の王たる鷲わしが、青草茂れる広野に会合し、獅子より兎に至る諸獣と、鷲より鶉うずらに至る諸禽とことごとく随従して命を聴かざるなし、二王ここにおいてあまねく林野藪沢そうたくに宣伝せしめ、諸禽獣をして相融和して争闘するなからしめ、いささかも他を傷害するものあればこれを片裂すべしと命じ、皆一所に飲食歓楽せしむ。また特に余をして原野に奔走して洩もれなく諸禽獣に告げ早く来って二王に謁見しその手を吸わしむ。されば汝も速やかに壁上より下るべしと。鶏は更に聞かざるふりしてただ遠方を望むばかり故、狐大いにせき込んで何とか返事をなぜしないと責むると、老鶏始めて口を開き、狐に向い、汝の言うところは分って居るがどうも変な事になって来たという。どう変な事と問うとアレあそこに一陣の風雲とともに鷹群が舞い来ると答える。狐大いに惧れて犬も来るんじゃないか、しっかり見てくれと頼む。鶏とくと見澄ました体ていで、いよいよ犬が鮮やかに見えて来たというので、狐それでは僕は失敬すると走り出す。なぜそんなに急ぐかというと、僕は犬を懼おそれると答う。たった今鳥獣の王の使として、一切の鳥獣に平和を宣伝に来たと言うたでないか、と問うに、ウウそれはその何じゃ、獣類会議に犬はたしか出ていなかったようだ、何に致せ僕は犬を好かぬから、どんな目に逢うかも知れない、と言うたきり、跡をも見ずに逃げ行く見にくさ。鶏は謀計もて大勝利を獲、帰ってその事を群鶏に話した由(一八九四年スミツザース再板、バートンの『千一夜譚』巻十二の百頁已下)、昨今しばしば開催さるる平和会議とか何々会議とかの内には、こんなおどかし合いも少なからぬべしと参考までに訳出し置く。
 ジェームス・ロング師の『トリプラ編年史』解説にいわく、この国の第九十八代の王、キサンガファーに十八子あり、そのいずれに位を伝うべきかと思案して一計を得、闘鶏係りの官人をして、闘鶏の食を断たしめ置き、王と諸王子と会食する時、相図に従って一斉に三十鶏を放たしめた。十分餓えいた鶏ども、争うて食堂に入って膳を荒した。インドの風として鶏を不吉の物とし、少しでも鶏に触れられた食物を不浄として太いたく忌むのだ。しかるに王の末子ラトナファーのみ少しも騒がず、あり合せた飯を執って投げるを、拾うて鶏が少しもその膳を穢けがさず、因って末子が一番智慧ありと知れた。王※(「歹+且」、第3水準1-86-38)そして後、諸兄これを遠ざけ外遊せしめたが、ガウルに趨おもむき回教徒の兵を仮り来て兵を起し、諸兄を殺し(一二七九年頃)、マンクの尊号を得、世襲子孫に伝えたと。
 孔雀は鶏の近類故このついでに孔雀の話を一つ申そう。一八八三年サイゴンで出たエーモニエーの『柬埔※カンボジア[#「寨」の「木」に代えて「禾」、176-10]人風俗信念記』に次の話がある。ある若者、その師より戒められたは、妻を娶めとるは若い娘か後家に限り、年取った娘や、嫁入り戻りの女を娶るなかれと。その若者仔細あって師の言に背そむき、この四種の女を一度に娶った後、師の言の中あたれるや否やを験するため、謀って王の最愛の孔雀を盗み、諸妻に示した後匿かくし置き、さて、鶏雛を殺してかの孔雀を殺したと詐いつわり、諸妻に食わせた。若い娘と後家はこの事を秘したが、年取った娘と、嫁入り戻りの妻は大秘密と印した状を各母に送ってこの事を告げたので、明日たちまち市中に知れ、ついに王宮に聞えた。王怒ってその若者、および四妻を捕え刑せんとした。若者すなわちその謀を王に白もうし、匿し置いた孔雀を還したので、王感じ入って不貞の両妻を誅した。爾来じらい夫の隠し事を密告し、また夫を殺す不貞の婦女をスレイ・カンゴク・メアス(金の孔雀女)と呼ぶと。若い娘と後家が貞なる訳は後に解こう。
 ウィリヤム・ホーンの『ゼ・イヤー・ブック』の三月三十一日の条にいわく、一八〇九年三月三十日、大地震ふるうてビークン丘とビーチェン崖と打ち合い、英国バス市丸潰れとなる由を、天使が一老婆に告げたという評判で、市民不安の念に駆られ、外来の客陸続ここを引き揚げたが、その事起るべきに定まった当日、正午になっても一向起らず、大騒ぎせし輩、今更軽々しく妖言を信じたを羞はじ入った。この噂の起りはこうだ。ビークン丘とビーチェン崖の近所に住める二人の有名な養鶏家あって、酒店で出会い、手飼いの鶏の強き自慢を争うた後、当日がグード・フライデイの佳節に当れるを幸い、その鶏を闘わす事に定めたが、公に知れてはチョイと来いと拘引は知れたこと故、鶏を主人の住所で呼び、当日正真の十二時に、ビークン山とビーチェン崖が打ち合うべしと定め、闘鶏家連に通知すると、いずれもその旨を心得、鶏という事を少しも洩らさず件くだんの山と崖とが打ち合うとのみ触れ廻したのを、局外の徒が洩れ聞いて、尾に羽を添えて、真に山と崖が打ち合い、市は丸潰れとなるべき予言と変わったのだ。ただし、当日定めの二鶏は、群集環視の間に闘いを演じたとあるが、勝負の委細は記さない。
 鶏に名を付くる事諸国にありて、晋の祝鶏翁は洛陽の人、山東の尸郷北山下におり、鶏を養うて千余頭に至る。皆名字あり、名を呼べばすなわち種別して至る。後のち呉山に之ゆき終る所を知るなしとある(『大清一統志』一二四)。バートンの『東阿非利加アフリカ初入記』五章にエーサ人の牛畜各名あり。斑ぶち、麦の粉などいう。その名を呼ぶに随い、乳搾られに来るとあれば、鶏にもそれほどの事は行われそうだ。『古今著聞集』承安二年五月二日東山仙洞で鶏合せされし記事に、無名丸、千与丸などいう鶏の名あり、その頃は美童や、牛、鷹同様、主として丸字を附けたらしい。また、銀鴨一羽取りて(兼ねて鳥屋とや内に置く)参進して葉柯ようかに附くとあり。これは銀製の鴨を余興に進まいらせたと見ゆ。上に述べた金作りの鶏や、銀作りの猫も、かかる動物共進会の節用いられた事もあろう。それを倉科長者の伝説などに田舎人は宝競べに郡へ登るなど言ったであろう。『男色大鑑』八の二に、峰の小ざらしてふ芝居若衆、しゃむの鶏を集めて会を始めける、八尺四方に方屋を定め、これにも行司あって、この勝負を正しけるに、よき見物ものなり。左右に双ならびし大鶏の名をきくに、鉄石丸、火花丸、川ばた韋駝天いだてん、しゃまのねじ助、八重のしゃつら、磯松大風、伏見のりこん、中の島無類、前の鬼丸、後の鬼丸(これは大和の前鬼後鬼より採った名か)、天満てんまの力蔵、今日の命知らず、今宮の早鐘、脇見ずの山桜、夢の黒船、髭の樊※(「口+會」、第3水準1-15-25)はんかい、神鳴なるかみの孫助、さざ波金碇かねいかり、くれないの竜田、今不二の山、京の地車、平野の岸崩し、寺島のしだり柳、綿屋の喧嘩母衣けんかぼろ、座摩の前の首、白尾なし公平、このほか名鳥限りなく、その座にして強きを求めてあたら小判を何ほどか捨てけると出いづ。その頃までも丸の字を鶏の名に付けたが、また丸の字なしに侠客や喧嘩がかった名をも附け、今不二の山と岸崩しが上出英国のビークン山とビーチェン崖に偶然似ているも面白い。
 吉田巌君説(『郷土研究』一巻十一号六七二頁)に、国造神が国土を創成するとき、鶏は土を踏み固め、鶺鴒せきれいは尾で土を叩いて手伝った。そこで鶏は今も土を踏みしめて歩き、鶺鴒は土を叩くように尾を打ち振るのだとアイヌ人は言い伝うと。鶏は昔はアイヌに飼われなかったから、天災地妖の前兆などの対象物としては何らの迷信もきかぬ。星や、日、月、雲などについて種々の卜占法の口伝があるように、鳥類のある物たとえば烏などについては特殊の口碑があって、その啼なき音に吉凶の意味ある物と考えられて居るが、鶏のみはこの種の口伝を持たぬとあって、あるアイヌ人が鶏の宵啼きや、牝鶏の時を作るを忌むを不審した由を記された。日本人は古く鶏を畜かい、殊に柳田氏が言われた通り、奥羽に鶏を崇拝した痕跡多きに、その直隣りのアイヌ人がかくまで鶏に無頓著むとんじゃくだったは奇態だが、これすなわちアイヌ人が多く雑居した奥羽地方で、鶏を神異の物と怪しんで崇拝した理由であるまいか。西半球にはもと鶏がなかったから、その伝説に鶏の事乏しきは言うを俟またず。
 前に鶏足の事を説いた時に言い忘れたからここに述べるは、ビルマのカレン人の伝説に、昔神あり、水牛皮に宗旨と法律を書き付けてこの民を利せんとし一人に授く、その人これを小木上に留め流れを渡る。暫くありて帰り見れば犬その巻物を銜くわえて走る。これを追うと犬巻物を落す。その人拾いにゆく間に鶏来って足で掻き散らし、字が読めなくなった。神書に触れたもの故とあって、カレン人は鶏の足を尊べど、その身を食うを何とも思わぬ。戸の上また寝床の上に鶏足を置いて、土中と空中に棲む悪鬼シンナを辟さくと(一八五〇年シンガポール発行『印度群島および東亜雑誌』四巻八号四一五頁、ロー氏説)、支那では蒼頡そうけつが鳥の足跡を見て文字を創はじめたというに、この民は神が書いた字を鶏が足で掻き消したと説くのだ。

(大正十年三月、『太陽』二七ノ三)