Tanaka masaru

田中 賢ブログ

山崎ハコさんを聴きながら・ライブのお知らせ

2013年05月31日 22時14分40秒 | 日常と音楽
HARU久々のライブ決定しました!

日時:2013年6月22日(土)
場所:和の国佐藤
京都府南丹市園部町内林町千原18-1
0771-62-1331
開場:18時30分
開演:19時30分
チャージ:1500円

 どんなお店なんだろうか、うわさではとても面白いらしい。何よりも、すぎたじゅんじくんとは久々だからね、楽しみ。まあ、去年11月にはお世話になったよ。僕の声はひどいもので、名古屋から僕のライブにかけつけてくれて、歌ってもらった。あの時以来、今回はHARUとしては久々のライブです。


田中賢 京都で歌います!
2013年7月12日(金)
京都モダンタイムスに出演決定!
僕自身、歌うっていうことがずいぶん自分の体にフィットしてるこのごろだから、できるだけたくさんの場所で歌いたいこのごろなのだ。
今ではもう京都のホームって感じになってるモダンタイムス。楽しみ!
詳細は近々お知らせします。


 2013年 田中賢ソロライブ PART3
日時:2013年7月26日(金)
場所:大阪道頓堀、表現者バー「かつおの遊び場」
オープン:18時30分
スタート:19時予定
チャージ:1500円(1ドリンク付き)
出演:田中賢

かつおの遊び場
大阪市中央区宗 右衛門町4-5
宗右衛門町センタービル2F

090-5882-7015

アクセスとお店の情報は
http://catooobar.web.fc2.com/

 今歌わないでいつ歌うのか?まだ、みなさんの前で歌ったことのない歌がいっぱいある。伝えたいこともたくさんある。歌っている実感をこんなに持てたことは、これまでにはなかった。だから、歌います!

 ちなみに、今屋は山崎ハコさんの数年前のライブを聞いている。なんてコアなんだろうか・・・、また変わってるっていわれそうだな。けど、ハコさんの歌はいいんよねえ!得に僕が好きなのは、これからずっと歌っていくっていう決意をこめて作られた歌、「飛びます」っていう歌だ。この歌からは確実にパワーをもらえるから。
 「飛びます」っていうのがいいな。「飛ばない」、「飛びます」、「飛ぶ」、「飛べれば」、「飛べ!」、「飛ぼう」・・・。うんうん、やっぱり、「飛びます」っていうのが、断然いいな!

 「嘘は簡単」っていう歌の本当の話(その2)~紙ふうせんの後藤悦治郎さんの言葉~

2013年05月30日 17時59分35秒 | 日常と音楽
 甲子園口にある紙ふうせんの後藤悦治郎さんの家に、HARUのすぎたじゅんじくんといっしょにおじゃました。1998年のとある日だったと思う。僕はもう28歳くらいになってて、鍼灸マッサージの勉強も始めていた。が、音楽はずっと僕の心の中心部にあった。
 後藤さんは大学の先輩であり、僕らが属していたアメリカンフォークソングクラブの創始者である。ずいぶん年は離れてたけど、大学生のころから音楽ではいろいろお世話になっていた。
 家のとなりに建てられていた紙ふうせんの事務所にCDプレーヤーが置かれ、後藤さんとボーカルの平山泰代さん、「冬が来る前に」の作曲者である浦野さん、そしてHARUのすぎたじゅんじくんと僕が座ってた。HARUの歌の何曲かをしっかりと聞いてみようということになってた。で、それはCD制作につながっていくみたいな雰囲気だった。
 ここで後藤さんは、歌作りについて多々教えてくださったが、「嘘は簡単」についてはこんな疑問を投げかけてくれたのだ。
 「これって、どんな嘘?」
 どんな?って言われても・・・、と言葉につまっていると
 「ちょっと軽めの嘘かな・・・」
 僕がまだ彼の意図をつかめずにいると、
 「一生ほんとうにばれたらやばい嘘としたらね、一生涯その嘘をつき通すってことはね、とても難しいことだよね。絶対に簡単なんかじゃないんだよ。」
 た、確かにそうかも・・・。僕はほんとに軽はずみに「嘘をつき通すことは簡単」なんて言ってしまってるけど、それってどうなんだろうか・・・。この歌のテーマとしては、そこまで命がけで隠し通さなきゃいけない嘘ではないんじゃないか・・・。
 今にして思っても、この意見はまったく適格だったと思う。この一言で聞いてる人が引っかかってしまえばね、えっ?そうかなあ、って思ってるうちに音楽はどんどん進んでしまって、けっきょく伝わらないまま終わってしまう。歌っていうのは時間の中に存在するアートなんだから。最初っから最後まで、すーっと流れていくのが基本なんだと思う。もちろん意識的にその流れを切るっていうのも有りなんだろうけど。
 で、1週間くらいあれこれ考えたあげくに、
 「嘘をつき通すことは簡単」を、
 「嘘の力を借りるのは簡単」
に書き換えることにしたのだ。これなら、僕自身もすっきりと歌えるって納得できた。後藤さんとは、それまでも、この後も、いっぱい話したりライブで共演させていただいたりして、歌うことや作ることについて多々教えていただけたと思う。僕にとっては、まぎれもなく、音楽の師匠なんだと勝手に想っているのです。
 そして、「嘘は簡単」は、今でも僕の大切な1曲、宝ものになっているのだ。

 「嘘は簡単」っていう歌の本当の話(その1)~夕暮れのプラットホームで言葉たちがやってきた~

2013年05月29日 19時03分38秒 | 日常と音楽
 1993年っていうのは大学の3年生、僕がほんとうにたくさんの歌を作った年だった。すぎたじゅんじくんとのユニット・振替休日で月に3本とか4本とかライブもやってて、東京なんかにもツアーに出たりしてた。いろんなことを感じて、小さなことでも次々歌にできたころだ。
 「嘘」っていうのは僕の心の奥底でテーマとしてずっと持っていたんだと思う。人前ではけっこう明るくふるまっているし、笑ってもいるけど、本当の自分ってどう考えてもそんなにいいヤツじゃないなあって。人とうまくやっていくために笑ってることも多いし、性格もかなり屈折してるし。だから、一人になった時に、ほっとするっていうか。ふとそんなことを歌にしたいなあって考えてた。
 とある日に、何かの奨学金に応募して、その面接にでかけた。たぶん誰かにすすめられたんだと思う。お金は必要だったけど、何か気のりしなくて、面接の時も、せっかく来たんだからってことで、無理して「頑張ります」みたいに話したりした。帰り道の電車のプラットホームで、知り合いと別れて一人になった時、あーあ、嘘ついてしまったなあ・・・なんて、思ってブルーになってた。そしたら、ふとこんな言葉たちが浮かんできた。

人をだますことは簡単
誰にでもできること
嘘をつき通すことは簡単
みんなうまくやってる

誰一人傷つかない嘘なら
いくらでもつけばいい
とびきりの笑顔つくろって
できるだけ楽しもう

誰にも分らない切なさ
君にも知られたくない自分
やっと一人になれたよ
嘘つきな僕を赦しておくれ

 こんなのがメロディーにのるのかどうか、ともかく部屋に帰ってからピアノの前に座ってパラパラ弾いてみた。陽気な伴奏やメロディーがいいなあと思ってた。ちょっとネガティブな歌詞とか、ややこしいことを言いたい時には、言葉とはうって変わって、ひたすら面白い演奏やメロディーにしたいと、そのころに出会ったいろんな音楽から感じてた。
 で、ちょっとしたニューオリンズ風のピアノにのせてみたら、あっという間に歌になってしまったのだ。これはうれしかったな。自分がそれまでとは違う次元に到達できたって感じだった。
 このころ聞いていた音楽は、Dr.ジョン、ランディー・ニューマン、リクオさん、そして、何といっても、たまたま東京からやってきてたすごいバンド、「吟遊詩人」などなど・・・。
 ところで、数年後、CDを作ろうっていう話が出てきた時に、紙ふうせんの後藤悦治郎さんが、この詩について貴重なアドバイスをくださった。ずいぶん悩んだあげくに、僕は詩のある部分を書き換えることにした。このおかげで、「嘘は簡単」は今でも歌える、自分にとっては宝ものみたいな歌になったんだと思う。(つづく)

朝目が覚めたら足の踝がとてもいたいのだ!(その3)

2013年05月28日 19時01分20秒 | 日常と音楽
 菌の感染による関節炎なのか、それとも痛風なのか・・・。ともかく、明くる日の朝に再びその整形外科を訪れた。結果はっていえば、実はけっこう中途半端なのだ。痛風の発作にしてはね、尿酸値は7.3ってことで、正常よりやや多い程度。まあ、実際にはもっと上がってて、ちょっと下がってきた時に発作が起きるってことも多いらしいので、可能性は十分あるのだが、何と無く認めたくないってところもあって。で、白血球の値もまずまず増えてるから、菌の感染ってのも否定はできないってことで。またもや抗生物質の点滴をしておこうということになったのだ。
 ともかくこの日も忙しい日だったな。で、仕事が終わってすぐさま実家に帰った。母が亡くなってから、いろいろな手続きやら何やら、この夜も父や他の人たちとの話し合いがあったりで、落ち着けたのはかなり夜遅くなってからだった。やれやれってことで、父と駅前でご飯ってことになったのだ。僕は痛風ってことも踏まえつつ、肉類やらアルコールからはしばらく身をひこうかなってことで、野菜炒めの定食にして、久々にビールは飲まなかった。で、父はといえばね、ジャンボトンカツ定食ってのをたのんで、さらにビールを飲んでいるのだ!あなた、いったいどんだけ元気なんだよーーーっ!て叫びたくなったけど、それはそれとして、僕はライスをおかわりしたのである。これからは米だ。おいしい米を食べよう。プリン体含有量はかなり少ないみたいだし。とはいいつつ、まだその痛みが痛風の発作だなんて、どうしても信じられないのであった。
とはいっても、 ずいぶん長い間、不摂生は続いてたし、もうそろそろちゃんとしようかなって思ってたところだから、ちょうどよいきっかけになるんじゃないかなあ。ということで、夜は飲みにいくこともなく、すっかりギターと仲良くしたり、くるったように本を読みあさっているこのごろなのだ。

アメリカでの生活はこうして始まった(その5)~もしも兄弟ってものがいるとすれば~

2013年05月27日 18時56分49秒 | 日常と音楽
 まあ、夜も眠れないくらい考えたって、どうしようもないことのほうが多い。自分の気持ちさえ持っていればいい、あとは、なるようにしかならないのだ。Aくんは何にも考えてなかったな。「どうなるかなんて、考えたってわかんないじゃん」っていうふうに、あいかわらず、じゃんじゃん言ってた。
 というわけで、僕らは二人してミラーさんたちといっしょにいたいってことを、その夜に話してみた。実際に英語の上達ってことを考えると一人ずつの方が良いといわれてるし、日本人がそばにいるっていうのは僕もそれまでは考えてなかったし。けれど、やっぱり
ミラーさんたちとここにいたいなあって思った。それに、Aくんとも不思議な親近感があって、うまくやっていけそうな気がしたのだ。
 ミラーさんたちはちょっと困惑ぎみでもあったけど、「あなたたちがそれでいいなら、そうしよう」っていうふうに、僕らの気持ちを受け入れてくれた。で、新聞社に連絡して、新たなホスト・ファミリーの募集もキャンセルしてくれたのである。
 よくよく考えてみるとね、僕らはテキサス州立盲学校で勉強するわけだが、月~木の夜は学校の寄宿舎に入ることになってた。だから、家で毎日いっしょってわけでもないし、ベストな選択だったと思う。
 その後も僕はAくんの超楽観主義的性格には衝撃を多々受けつつも、堅苦しい自分の気持ちが少しずつ解きほぐされていったように思う。よく話し、ギターを弾いて歌い、陸上やレスリングをし、学校のバンドにも彼といっしょに所属した。喧嘩もしたしはらも立ったし、たまには彼のスマートさに嫉妬もしたな。それでもとても楽しかったのだ。僕は一人っ子だけどね、兄弟がもしいるとしたら、こんなものなのかもしれないなあって。
 ともかく、10ヵ月のアメリカでの貴重な冒険はこうして始まったのだ。

アメリカでの生活はこうして始まった(その4)~僕は悩み過ぎ、彼はまったく悩んでいなかった~

2013年05月26日 15時39分56秒 | 日常と音楽
 1週間が経ったころ、ローカルな新聞社の記者さんたちが取材にやって来た。もうひとつのホストファミリーを募集するためだ。僕らは、なぜアメリカに来たかったかっていうようなインタビューを受けた。で、「日本から来た勇気ある盲人」みたいに新聞にのせてもらったのだ。
 それまでの僕はほんとうに小さなことでも深刻に考え込むタイプだった。真面目すぎて融通のきかない性格だったと思う。だから、自分がどこかへ行くことになるのか、彼が移るっていうことになっても何か悪い気もするし・・・、どうすればよいのかとかなりシリアスに悩んで、夜もよく眠れなかったほどだ。つまり、僕はこのままここにいたいなあって思ってたし、Aくんもおそらくそうであることは簡単に想像できたからだ。
 その日も僕らはプールで浮かんでた。彼は相変わらず美しく立ち泳ぎ。僕は真面目に訊いてみた。
 「どうしようか?」
 で、話してみれば、ミラーさんたちはほんとうに良い人たちだってことはこの1週間で分かったわけだし、僕もAくんもここに残りたいっていう気持ちだった。やれやれ。いったいどちらがここから出ていけばいいのか。僕が途方にくれていると、彼は、立ち泳ぎのままこう言ったのだ。
 「二人でここにいればいいじゃん」
 そうそう、Aくんは東京出身だ。だから、じゃんじゃん言うのだ。
 「えーーーっ!だって、もう取材は受けてしまってるし、一家族に一人っていうルールもあるし・・・」 
と僕が言うと
 「そんなのいいじゃん、ここにいたいんなら二人でそうすればいいじゃん。俺はここにいるよ!」
 「でも・・・、そんなの許されるのかなあ・・・」
 とはいうものの、彼の立ち泳ぎ、水面で上下する呑気な顔を見ていると、もう考えるのがばかばかしくなってしまったのである。
 確かにいちばん大切なのは自分の気持ちだ。二人でここにお世話になるのもいいんじゃないかなあって思えた。(つづく)

アメリカでの生活はこうして始まった(その3)~Aくんの立ち泳ぎは最高に美しい~

2013年05月25日 16時19分09秒 | 日常と音楽
 ミラーさんの家に滞在して1週間ほどはのんびり過ごした。通うことになるテキサス州立盲学校を見学に行ったり、買い物に連れてってもらったり。ミラー夫妻は二人とも働いてたので、昼間はAくんと二人、話したり、ギター弾いたりしてた。彼も実はフォークソングが好きだった。家にクラシックギターがなぜか2台あったから、僕らはいろんな曲を合わせて、仕事から帰ってきたミラーさんたちに聞いてもらったりして、彼らはほんとに喜んでくれて、また、信じられないっていうふうだった。「ほんとうにアメリカに来るまで知り合いじゃなかったのか?」って。
 ミラー夫妻も音楽は大好きだったから、彼らの好きな歌を教えてくれたり、レコードをかけてくれたりして、僕らはそれを弾いたり歌ったりした。日本の歌も喜んで聞いてくれたり。近所の人たちが家にやって来た時にもよく歌った。
 バックヤードには小さなプールまであって、深いところは足もつかないくらいだった。テキサスの太陽は焼けつくほど熱くて、ずいぶん低いところにあるように感じたそんな太陽の下で、僕らは水面の上に板を浮かべてねっころがった。空はとても青くてまぶしかった。ちなみに、Aくんは全盲だったが、彼の超楽観的な性格はその後の僕に大きな影響を与えることになる。
 彼がプールで、陽気に笑いながら立ち泳ぎをしてる姿を忘れることができない。水面から顔を出して、ぷかぷか浮いて、何とも楽しそうなのである。ちなみに、僕は立ち泳ぎをすることができない。そのままぶくぶく沈んでしまうのだった。(つづく)

アメリカでの生活はこうして始まった(その2)~最初の夜の想い出~

2013年05月24日 20時05分05秒 | 日常と音楽
 20分ほど車にゆられてた。何か話した気もするが、今思えばそれは夢の中みたいな感じで、ふわあっとした記憶の中にあって、ぼんやりしている。
 ともかく僕とAくんはミラーさんの家に到着した。で、家の中を一通り案内してもらったり、自分の部屋を教えてもらったり。で、おそらくそのあと、なぜここに僕とAくんの二人がいるのかについて話してくれたんだと思う。
 けっきょくは受け入れ先がもうひとつ足りてないってことのようだったな。一家族に一人の留学生っていうのが基本的なルールなのだが、まだみつかっていないので、とりあえず、ミラーさんの家に二人が滞在するってことらしかった。で、近々、新聞社にも以来してホスト・ファミリーをもうひとつ募集するってことのようだった。なるほどーー。
 ともあれ、その夜はどうすごしたか。ドナ・ミラーさん(お母さん)はスーパーに買い物にいく、ケネス・ミラーさん(お父さん)は家にいる、二人はどうする?って訊かれたので、僕は何と無くアメリカのスーパーってのに興味を引かれたので、スーバーまでお母さんといっしょにドライブして、有り余る土地に建てられた、広い広いグローシュリー・ストアー内を満喫した。カートをおしながら、お母さんの後をついていったのだ。通路がほんとに広いって感じた。何か楽しかったな。で、その間Aくんはお父さんと家で話していたらしい。
 ちなみに、この時の道すがら、僕はポール・サイモンが好きなんだってお母さんに話したと思う。明くる朝だったか、リビングのステレオから、ポール・サイモンのグレイスランドっていうアルバムが流れてた。ほんとうに優しい人たちなのである。(つづく)

アメリカでの生活はこうして始まった(その1)~オースチンの空港にて~

2013年05月23日 20時28分41秒 | 日常と音楽
 1988年8月、高校3年生の夏のとある日、140人くらいの団体で、成田からシカゴ行きの飛行機に乗った。PEACEっていうアメリカへの交換留学生の団体だ。それまでの大半の時間を大阪の盲学校で過ごしてきた自分にとっては、ずいぶんと思いきった行動だったけど、怖さはまったくなくて、ただただわくわくしていた。やっと街を出られたのだ。これからの10ヵ月、どんなことが起きるんだろうか。
 ほとほと長いフライトで、機内食ってまずいなあって思ったり、眠ったり、スタッフの一人の方が、「バンクーバーの光が見えるよ!」なんて言うと、みんな「わあー!」って感じだったな。
 シカゴで入国審査を受けて、そこからはみんなアメリカの各地へ散っていく。僕は南の方へ行くグループにくっついて行った。周りはもうまぎれもなく英語の世界だ。キャビン・アテンダントの人たちも、もう日本語は話してくれない。いよいよアメリカにやって来たんだなあ。テキサス州のヒューストンでまた飛行機を乗り継いで、日本からは15時間くらいカかって、ようやく目的地のオースチンに到着。
 オースチンの空港で何10人かが降りたんだと思う。みんな受け入れ先のご家族の人たちが迎えに来てて、空港を出発していく。実は、僕を受け入れてくれる家族っていうのは、その時にもまだ知らされていなかった。っていうか、はっきりとは決まってなかったっていうほうが正確だったらしい。いったいどうなるのかなあって、360度から聞こえてくる英語のざわめきの中で、不安にさいなまれつつ、突っ立っていると、僕の名前を呼ぶ人の声が聞こえた。これがその後10ヵ月ほんとうにお世話になったミラー夫妻との出会いだった。
 そして、もう一人、僕に多大な影響を与えた人物ともここで出会うこととなった。それが、同じ飛行機に乗って留学生としてやってきたAくんだ。とにかく、わけも分からず僕らはミラー夫妻の車の後部座席に乗せてもらって、彼らの家に向うこととなったのだ。いろいろ考える余裕はなかったけど、どうして二人なんだろうなあって不思議に想ってた。一家族に割り当てられる留学生は独りって聞いていたから・・・。(つづく)

朝目が覚めたら足の踝がとてもいたいのだ!(その2)

2013年05月22日 17時39分50秒 | 日常と音楽
 先生っていうのはすごいものだな。手で触れることもなく(?)
 「これは骨折ではありませんね」
 「じゃあ何なんですか?」「」
 「何かの菌に感染して、炎症を起こしているか・・・」
 そして、もうひとつの可能性を彼が言った時、やれやれ、ついに僕にもこのような時が来たのか・・・って、悲しいやら、笑えてくるやら、複雑な気持ちになったのだ。
 「ひょっとしたら痛風かも」
 「ええーーーーーーっ!」
 た、確かに最近?の自分の生活を振り返ってみると、かなり不摂生なのだ。肉はよく食べてるしね、アルコールもかなり飲んでる。日曜日なんかは本番の直前っていうのにね、まあぼうなす定食なんか食べてしまって、まあこの際そんなことはどうでもいいけど。それに、仕事と音楽でねいっぱいになってて、運動もさぼってたしね。
 ともかく、採血をした。感染っていう可能性もあったから、抗生物質の点滴を行った。確かに微熱があったからね。それに、今までは感染を起こした時には、必ずっていっていいほど歯茎に炎症を起こしてきた。なのにこのごろはまったくそれがなくなってる。今度は間接部とかへの影響が出てきたのかも・・・。
 ところで、点滴、たった20分程度だったけど、これはいい気分じゃなかったな。子どものころに髄膜炎になって、点滴がとてもとても痛くて、それが今でも思いだされるのだ。あの針はほんとうに痛かったよ。
 で、次に頭に浮かんだのは、母のことだった。癌ってことがわかってから、2ヵ月の入院生活の大半を点滴をして過ごした母のことだ。こんな状態が一日中、しかも毎日続いたら、ほんとになさけない気持ちになっただろうなあって。実際に仰向けになって、自由を奪われてみると、ほとほと絶望的な気分になるのだ。それに、治るっていう可能性もかなりうすいってことは彼女も知ってたわけだしね。あー、ほんとにつらくなってきて、点滴を受けながら、胃のあたりがむかむかしてきて、吐きそうになってた。
 ともかく、そんなこんなで点滴は終わった。明日、血液検査の結果が分かるってことで、あー、まったく楽しみなのである。(つづく)