田中川の生き物調査隊

平成12年3月発足。伊勢湾に注ぐ田中川流域の自然と生き物を調べ、知らせる活動をしています。三重県内の生き物も紹介します。

カラスヘビ

2006-01-28 | 田中川
シマヘビの黒化型。
立派な大人のカラスヘビだ。川岸の公園で発見。
カラスヘビの配色は黒地と白の斑紋の比率に大小がある(漆黒の個体もいる)。

シマヘビ

メラニズム(黒色色素増)現象。
本来、シマヘビは虹彩(白目の部分)が赤いのが特徴だが、カラスヘビは写真の様に真っ黒な瞳となる。




シマヘビ










この鱗の目立った部位は、肛門板(肛板)。
腹板から肛門板、その下に総排泄孔、次に尾下板と続く、いわゆる胴と尾を分ける起点部位。
シマヘビ
触った感じは、ぬるぬるではなく、つるつるでもなく、厚手のビニール製品みたい。



タイラギとカクレエビ

2006-01-28 | 
タイラギ伊勢湾で最大の貝、タイラギ。
台風一過、20センチを超えるタイラギが大量に打ちあがることがある。
左端の貝はトリガイ。
右下の貝はバカガイ。

タイラギの貝殻を天日干して数ヶ月放置しておいたら、もろくなってしまった。乾燥した「せんべいもち」のようなものが次から次へと剥がれてきた。標本を展示して、子供たちに触ってもらおうと考えていたのだが、余りにももろすぎる。

カクレエビ
タイラギの貝柱を食べようとして家に持ち帰り、中を開けると2匹の小さなエビがいた。2匹の色と大きさが少し異なるので雌雄かも。10個の貝の内、2個に2匹づついた。
カクレエビ。


田中川干潟 観鳥台からの眺望

2006-01-28 | 風景
干潟満潮
右岸の干潟は複数の団体や個人の働きかけにより開発から守られた。
護岸は、背後の干潟への影響が小さくなるように、多自然型の空石積護岸へと計画が変更された。
左岸に生息していたハマゴウは右岸の砂浜に移植された。
左岸開発工事の影響は大きく、何年もの間、右岸の底生生物は壊滅状態となった。
しかし、今、田中川干潟はよみがえった。

全国的にも誇れる塩生植物の群生地。海浜植物が豊かな砂浜は三重県の県鳥シロチドリの繁殖地。アカウミガメの産卵地。
高潮のときは石積堤防が見えなくなる。
干潟干潮
干潮時の干潟
海岸堤防の西側には葦の湿地帯を埋めて団地が造られた。堤防際の排水路からは、よどんだ排水が絶えることなく、この干潟に流れ込んでくる。
ハマシギなどの渡り鳥が群れなすこともある。底生動物も豊富。石積堤防付近はさまざまな幼魚たちもやってくる。

 

消えた干潟

2006-01-28 | 風景

この写真は昭和の終わり頃に撮られたものと思われます.この左岸にかつてあった干潟は失われました。今となっては残された航空写真でしか、その姿を見ることは出来ません。
昭和49年の集中豪雨により上流部において大きな災害が起こり、干潟内での廃船不法投棄などの問題も解消するために、平成元年頃に干潟の半分が消える計画が持ち上がったとき、いくつかの団体や個人が様々な形で動きましたが、計画の流れを止めることは出来ませんでした。工事の設計に多少の配慮は加えられましたが、やむなく同意せざるを得なかったようです。そして当時干潟で生きていた多くの生き物たちが死んでしまいました。
かつての田中川干潟は川の本流と干潟との境がなく、河口の両岸にラグーンが広がっていました。伊勢湾台風後に築かれたコンクリートの海岸堤防は、周辺の海岸一帯にあった植生と清流の流れるラグーンを消滅させてしまいました。今、堤防に沿って流れているコンクリートの排水路がその生まれかわりです。


2枚目のこの写真には左岸の干潟を埋め立て始めた頃の様子が写っていますので,平成元年頃のものと思われます.

ハマボウ咲くマリーナ
消えた干潟はマリーナとして生まれ変わりました。
黄色い花はハマボウ。
田中川干潟を象徴する古木ハマボウにちなんで植栽されたもの。ハマボウは干潟でなくてもよく育つ。ここのは干潟のものよりも一足早く咲き出す。

ツルナ

2006-01-28 | 草花
ツルナ科のツルナ、蔓菜。この付近の海岸では個体数は多くない。日当たりが良く(海岸に育つものはどれも当然のこと)、砂が余り動かないような場所で大株に育っている。嵐のときに波しぶきがようやくかかるような所で見られる。古来から食用にされてきたようだが、私はまだ食べていない。
ツルナ花大きな株に可憐な花を咲かせる、近づかないと気付かない。
2003.7.19










田中川左岸 堤防から砂浜へ降りる階段にて

人魚伝説

2006-01-28 | 風景

マリーナ河芸の敷地内を散策すると、この人魚の像に何度も出会える。小さな像だから、気付かない人が多い。2004.9.23


2004.9.23


2005.3.12 田中川干潟をバックに

この地には今も大別保や中別保の地名が残り、地元では略して別保(べっぽ)と言うことが多い。また、「浦」という小字も残っている。かつては伊勢平氏が支配していた土地であり、津市の産品には平清盛の父である忠盛が生まれたという伝承地がある。

鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』巻第二十「伊勢國別保の浦人人魚を獲て前刑部少輔忠盛に献上の事」に、人魚についての具体的な記述がある。

「伊勢国別保といふ所へ前刑部少輔忠盛朝臣下りけるに 
或日大なる魚の頭は人のやうにてありながら 歯はこまかにて魚にたがわず 
口さし出てて猿に似たりけり 
身はよのつねの魚にてありけるを三喉ひきいだしたりけるを
二人してになひたりけるが 尾なほ土に多くひかれけり 
人の近くよりければ 高くをめくこえ人のごとし 
又涙をながすも 人にかわらず 驚きあざみて
二喉をば忠盛朝臣の許へもて行き 一喉をば浦人にかへしてければ 
浦人皆切り食ひてけり されどもあへてことなし その味殊によかりけるとぞ 
人魚といふなるはこれていのものなるにや」

人魚伝説
2004.9.23