極私的お葬式

父の葬儀の話です

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2008-01-20 11:13:41 | 日記
2009年5月2日早朝5時に電話が鳴った。郷里の妹からだった。
父の血圧が下がっているので、すぐに病院に来てくれとのことだった。
妹は実家の近くに嫁いでいて、これまでも、母を伴って見舞いに行っている。
病院からの最初の電話は実家にかかったそうだが、電話にでなかったらしい。
それで次の連絡先である、妹宅に連絡が入ったのだ。
「どうしたらいい?」と妹は聞いてきた。


これまで、病院からの緊急連絡は2回あった。
そのいずれも「肺炎になりました。緊急転院をしますので、来てください」というものだった。

父は2年前から認知症になり、老人介護病院に入院していた。
症状はそれほど悪化した風ではなかったが、今年3月に1度目の肺炎を起こし、
転院してからは急激に弱まった。肺炎が一応治癒するとまた老人介護病院に戻った。
肺炎を治療できない老人介護病院より、施設の整った「肺炎の治療のできる」病院で、
しばらく診てもらえないかと希望したが、かなわなかった。

老人介護病院に戻って一週間ほどで、また肺炎が再発した。二度目の「肺炎治療のできる」
病院への転院となった。二度の転院で、医者は「延命措置を取るか?」と聞いてきた。
私を含めた家族の意見は「延命措置をしてほしい」だった。

具体的な延命措置はなにか、と思ったら、「気管切開」だった。
肺炎で痰が詰まり、呼吸困難になるので、気管切開をして呼吸を確保すれば、
よくなる、ということだろうか。私自身が医者と話したことがないので、
母と妹の話から推測すると、こういうことになる。

気管切開手術をして、数日で父は老人介護病院に戻っていった。

気管切開手術の前、4月17日(土)に単独で見舞いに行っている。
私は東京に住んでいて、郷里は東海地方にある。酸素吸入をし、寝たままであったが、
目には力があった。会話はできなかったが、「たいくつだなあ」と言っているようだった。
認知症になって以来、父の意思は正確には伝わらないのだが、わかった気がしていた。
わかったような気でいた。

「目力」があったので、まだまだいける、と思った。

5月2日は、気管切開後一週間で、「もう退院OK」で、老人介護病院に戻って、3日目だった。

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