こんばんは。
今日は世界エイズ・デーです。
エイズでなくなった方を追悼するとともに、社会の中でHIV陽性者と共生するためにぼくたちに何ができるのかを考える日なんだと思います。
日本の感染の状況を考えると、ゲイは感染者の割合も高く嫌でも共生をするほかない状況にきています。ゲイとして生きている以上避けては通れない。もちろん人間として生きている以上避けては通れないのですが、ゲイの場合には問題が逼迫している。東京ではゲイの中でHIVの検査を受けに来た人のなかで5%ほども陽性者がでているそうです。そして他の地方でも、おそらくその数字には大差ないのではないかといわれています。
20人に1人。普通にゲイとして生きていて、週末のゲイバーにいけば、そこには1人は感染者がいるというくらい身近な病気です。
ゲイの間でそういう状況なので、果たしてもし感染してしまったらどうなるんだろう?と思った。ぼくだっていつ感染するか分かりません。一応、セーファーセックスは実践していますが、HIVはちょっとした隙をついてぼくの体に入り込む可能性もある。自然と気になる問題です。
それについて書いたのが、『Queer Japan Returns Vol.0』の「エイズ最前線」という記事です。これは現在のところ、問題を概観するには最もいいテクストだと思いますので、是非みなさんよんでいただきたいです。
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この記事は、しかしまだ出発点でしかないと思っています。
たとえば、伏見憲明さんがご自身の公式サイトに『バディ』(05年11月号)に掲載されたエイズをめぐる論考を出しています。
こちらです。
伏見氏はつぎのように問います。
「なぜ異性愛の人たちに比べてゲイにこれほど感染者が多いのか。そしてこの問題についてアクティヴィズムは言及するのを避けてきたのではないか」
しかしこうした問題はもう避けては通れない。それはゲイにとっては厳しいことかもしれませんが、きちんと自己を問い直し、自分たちの性もふくめたありように目を向けなければなりません。
そうした問題意識もあり、『QJr Vol.1』では、「ゲイはなぜ浮気をするのか?」と題してゲイの性行動を科学の目で見てみようと思った記事を載せました。わたしたちの性行動はいったいどうなっているんだろうか? 倫理や道徳をいったん置いておいて現実をみてみたい。そう思ったのです。できるだけ読みやすく書いたつもりですので、こちらも是非ご一読いただきたいです。
伏見氏もいうように、そういう性のありようはやめようと思ってやめられるものではありません。それでも最低限守るべきことというのはあるんじゃないかと思わせるのがこちらの記事です。
hiropage-blogの記事「魂の極北に住む山岳民族のように」
果たしてこういう人たちをコミュニティは安易に容認していいのか?そういうことも考えていかなければなりません。
こういう人について、以前感染者の自助団体を主宰している方にお話をうかがったことがあります。
ある感染者が、どうしても生でセックスをしたいという欲求を止められなくてハッテン場に行っては生でやっていた。それを告白すると、どこでも「やめろ」という声しか聞こえてこない。それでも生でやる興奮には勝てない。そういう告白を自分の主宰する感染者のサークルで涙ながらに語った。
そこでは彼を責めるものはいなかった。みんな「いままでつらかったんだね」と共感を表明した。
そこで癒された彼はそれから人にうつすような行為はやめようとはじめて思えた。
そういう逸話を語ってくれました。こうした事例をわたしたちはどう考えればいいのか?
なにより問題なのは、そういう声が普通に生活をしているなかではどこからも聞こえてこないということでしょう。感染者で勇気ある告白をしているブログもいくつかはあり、ぼくたちは感染したらどんなことを考えるのか、自分の身に引き寄せて考えさせてもらっている。
「サヨナラサンカクマタキテヘナチョコ」のkumazzoさん
「だいくんの気ままな日記」のだいくん
などです。彼らにはぜひ細々とでもいいからブログを続けてもらいたいなと思います。
こうしてみんなで感染者も一緒に生きていけるよう、感染しちゃった人も、まだ感染していない人も、アクティビズムをやっている人も、やっていない人もちょっと時間を取って考えてみるよいきっかけになる日なのではないでしょうか。
予防啓発や感染者支援のアクティビズムもこれからどうやってより良い活動を担っていけばいいのか? それも考えてみる必要があるのではないでしょうか?
たとえば以前あるHIV啓蒙のためのイベントで検査を受けた人に話をききました。その人は、幸いにして陽性ではなかった。だけど、「もし陽性だったら・・・?」と考えたときに、嫌な気持ちになったそうです。
検査会場を一歩出るとそこではお祭りが行われている。陽性を告知されて気が気でないときに、みんなは楽しそうに笑顔でお祭りを楽しんでいる。そんな残酷な空間はないだろう。
そう思ったのだそうです。
イベント1つ取ってみても、本当に感染者や、体調が思わしくない人や、当日感染を知らされた人のことを思ってできているのか? あるいは来た人にきちんと正しい知識を持って帰ってもらっているのか?
いろいろなショーやクラブなどの企画で人を集めることは必要ですが、本当に真面目に、エイズの何が問題なのか、どこを変えていきたいのか、そのために自分たちになにができるのかといった問いを問うているのか? あるいはイベント以外でもできることはないのか? 名古屋には予防啓発団体はありますが、感染者の団体がないのですが、そういうのは作らなくてもいいのか? 感染が発覚してからネットを検索してみたが、あまりにも膨大なHPがヒットするのにも関わらず、知りたい情報が見つからず途方にくれたという話は、あちこちで聞きます。便利なHPとしてはどんな情報が入っていればいいのか?
実際にはイベントのボランティアなどアクティビズムに関与していなくても、「こんな企画があるといいのに」というような案をブログで書いてみるのもいいのではないかと思います。
そうして、HIVについてみんなで考え、みんなで声をあげていく。そういうきっかけになる日となればいいな、と思います。
ブログの紹介は、本人に了解をとっているのでしょうか?
疑問です。
そんなつもりはないのかもしれませんが、目線が違うような気がしますね。
たぶん、僕の文章読解能力が必要以上に乏しいのでしょうね。
ブログはもともと不特定多数に向けて発信されているもので、トラックバックも自由にできる言説空間です。トラックバックをしたり、トラックバック先からこちらにリンクが張られていることは、僕も毎日経験しておりますが、「本人の了解」など受けたことがありません。
パブリックに発信している言説はどういう性質のものなのか、少しはお考えになった方がよろしいかと存じます。
なぜでしょう。記事と違いコメントの文章がかたくなりましたね。
コメント返事ありがとうございました。
代弁してくれている玉野さんの記事を読んで、気持ちが少し楽になりました。ありがとうございます。
今自分の中で気になってるのが、「陽性者とは紙一重」って言う言葉。僕の彼氏にも出逢った頃に言われたし、トラバの伏見さんもおっしゃってる(ここでコメントするのは違うのかな。。)「自分だって感染してもおかしくないくらい隣にいる病気」っっていう意味で使うんだろうけど、そういう見方をするのがそもそも違うかなって・・・紙一重って言っても、こういう言葉を使う人に限って、こちら側(ポジ側)には、そうそうこれるものじゃないし。本当に危機を感じてる人は紙一重なんて言葉使わない。だから、その言葉に同情的な匂いや、ポジに対する無意識の壁を感じてしまうのは僕だけなのでしょうか・・・。無菌空間に生きてるわけじゃないから、どんな病気だって自分の隣にいる。なのにあえて紙一重って言わなければならない病気って・・・。
なんか、もやもやした気持ちを書いたので意味不明だったかもしれません。すみません。
そりゃあ、感染したくなんてないですから、気をつけることは気をつけているつもりではあります。でも、セックスのときってそんなにいつもいつも理性的にできるわけないんだし、めちゃイケメンとヤれるチャンスが到来したときにコンドームを持ってなかったらやっちゃうかもしれない。恋人とエッチをしているときに「この人と本当につながりたい」って思って生でやっちゃうかもしれない。
セックスの前では、人はかくもか弱いものなんだと思うんですよね。
そういう存在であることを前提に、「紙一重」っていう言葉が出て来るんだと思います。
同情しているわけでもなんでもなく、本当に危機を感じているからこそ、「紙一重」っていう言葉が出て来るんだと思うんですよね。
僕の中で鬱積しているのは、「病気そのものに対しても、感染者に対しても特別視なんかしないで!普通の人間なのだから。」っていう思いなのかもしれません。
「自分が感染してもおかしくない」って言う言葉をあちこちで聞くと、「じゃ自分の代わりに感染してよ」って毒づく自分もいたりして、そんな自分に嫌気がさしたり、なんだか辛いです。
人は、不条理にも弱者の立場に立たされたとき、マイノリティの立場に立たされたとき、「自分はマイノリティであり、弱者である。弱者の感情は弱者にしかわからない。マイノリティの痛みはマイノリティにしか分からない。マジョリティは弱者やマイノリティが痛みを訴えたときには聞き入れなければならない」という思考に走りがちです。
なるほどマイノリティであること、弱者であることはたいへん辛いことです。そこには世間で言われている「道徳」が通用しないこともある。自分が自分であろうとするかぎり、反社会的な要素を持ってしまうこともあるんですよね。それは、とくに人生が順調に来ていた人にとっては、その矛盾に向き合わなければならない状況はたいへん辛いでしょう。とくに昨今、「勝ち組」「負け組」というお金を持っているかどうかという二分法で社会的な評価が決まってしまう。日本の社会は本来多様な生のあり方をすべきところを、単純化してきている。そういう中で、自分が弱者の立場に立つのは辛いことですよね。
でも、そこでかたくなに「弱者の声を受け入れろ」と言っても説得力を持たないのも事実です。「おまえたちには私たちの痛みは理解できない。わたしは大変な苦痛を負っている」とどこまでも主張できるわけですが、「いやいくらなんでもそこまでひどくあるまい」とうすうす気付いてくるからですね。
痛みを主張するのは大切だと思うんですよね。そうしなければ、たしかにその痛みを共有しない人には伝わらないから。だけどそこから閉じこもって、ひたすら自分の権利を主張するのではなく、対話をしなければならないのだと思うんです。
こういうことは、反差別運動の過程では必ず出現する問題で、ゲイは伏見憲明さんと野口勝三さんがそういう姿勢の不健全さをきちんとゲイに向けてアピールした経緯もあります。
「おまえたちに分かるわけはない」ではなくて、「感情はたしかに共有できないけれど、お互いに誠実に意見を出し合って考えていこう」。楽じゃあないけれど、そうなるほかないんだと思います。
あと一歩!
でも、これら両方の感情を、自分の中できちんと認めてこそ、対話に進めるのだと思います。
ようやく、自分自身、相反する気持ちがあることに見てみぬフリをせず、受け入れようというところまで来たので、あと一歩なのかなぁ。
あの、いろいろ忙しくて、トラバのごあいさつできなくて、
すいませんでした。
玉野さんのおっしゃるとおりで、
ブログを始めようと思った瞬間に、
不特定多数の人に向けての発信であることは
覚悟しているし、
いろんな方に、内容のある記事に引用されるのは、
光栄なことです。
ノンケのアダルトサイトからトラバされることもあるのですが、
まあ、そういう広がりも必要かなと、
黙認してますね。
なぜゲイに感染者が多いのか。
ゲイの性行動への言及について、ゲイ自身で声を上げて解決しないと、
マンションの耐震偽装問題のように、
突然のように降って沸いて、大騒ぎになるような、
社会的な問題になって噴出しかねないと思っています。
もしかしたら、
俺自身もブログで書くことのない、もっと深い心の闇の部分を
すこしずつ書いていかなくてはならないのかもしれません。
ご理解いただいてありがとうございます。
トラックバックはこっちから勝手に張ってるだけなので、見ていただくだけでもいいですよ。お忙しいのにありがとうございます。
ネットの匿名空間で、匿名性を維持しながらやっていかないといけないと思うんで、できる範囲はおのずと制限されるとは思うんです。それに心の暗い部分を表現するのって、楽じゃないですしね。Kumazzzoさんは、Kumazzoさんのスタンスで、今までどおりやっていけばいいと思うんですよ。
耐震偽装事件のような桁違いの損害をだしてくれるようになると、多少火の粉は払えるようになるかもしれません。でも感染者同士で、生でやってるって、そんなわざわざ耐性ウイルスを作成するようなことをやってるやつに、障害者認定をして、社会保障をする必要があるのか?とか、いろいろ一般人としては思いますから、そういうことはやめなさい、とコミュニティの側は言っていかないと、一部の心無い連中のせいでHIV陽性者全体、ゲイ全体が悪者扱いされる可能性があると思うんです。